Sunday, April 09, 2017

ヘイト・スピーチ研究文献(96)「事前抑制」とは何か

山邨俊英「反復的に行われるヘイト・スピーチに対する将来に向けての規制は『事前抑制』か?――Clay Calvertの議論を素材として」『広島法学』40巻4号(2017年)
16年6月2日の横浜地裁川崎支部決定は、ヘイト集団によるヘイト・デモ計画に対して、デモ禁止仮処分の申立てを受けて、制定されたばかり(施行されていない)ヘイト・スピーチ解消法の趣旨も踏まえて、デモ禁止仮処分決定を下した。デモ禁止仮処分は、先に京都朝鮮学校事件で京都地裁がすでに出していたので、新しい問題ではないにもかかわらず、メディアや憲法学者はこれを大問題であるかのごとく大騒ぎした。表現の自由に対する事前規制派憲法が禁止する検閲に当たり、許されないとされるからである。川崎地裁決定は、被害を受ける者が平穏に生活する権利を侵害されることなどをもとに仮処分を認めたので、その法理をめぐって議論がなされることになった。
山邨は、「反復的に行われるヘイト・スピーチに対する将来に向けての規制は『事前抑制』か?」という表題にある通り、ヘイトが反復される場合、将来に向けての規制を単純に「事前抑制」と言ってよいのかという問題意識に出発している。「過去の表現行為に対する否定的評価を根拠に将来の表現行為を規制することが憲法上そもそも許容され得るのか」という問題である。
そこで山邨は、Clay Calvertの議論を紹介する。Calvertは、ヘイト・スピーチではなく、インフォマーシャル放送において、莫大な消費者被害を引き起こす詐欺的なテレビ放送を繰り返した者に対して、再びインフォマーシャル放送を行いたいのであれば、事前に200万ドルのパフォーマンス保証を払うよう求めた事案について検討している。そこにおいて事前抑制と事後処罰の関係が問われた。この課金は「事前抑制と事後処罰との区別を相対化し、思想の自由市場へのアクセスの不平等を促進し、そしてそのような規制手法は本質的に内容規制であるため常に厳格審査に服するべきである」という。
山邨は、Calvertの議論をヘイト・スピーチに応用しようとする。デモ禁止仮処分や、ヘイト団体の公共施設利用問題と同じ性格を有しているからである。そして、山邨は、「Calvertの議論及び本稿の主題である問題の性質を考慮すると、事前抑制と事後処罰の区別を所与の前提とする考え方には再考の余地があるのではないだろうか」という興味深い主張を提示する。
ヘイト・デモや公共施設利用問題では、私は、事前規制かどうかよりも、「政府が人種差別に加担してよいのかどうか」こそが主題であると指摘してきた。これに対して応答した憲法学者はまだいない。あくまでも「事前規制かどうか」にこだわっている。
しかし、京都地裁決定、さらには山形県や門真市の公共施設利用拒否によって、大きな前進が見られた。
ところが、大阪市審議会が、事前規制は許されないという結論を、ほとんど理由も示さずに提示し、これが猛威を振るうことになった。政府はヘイト団体に協力しなければならないという滅茶苦茶な議論である。
その後、私は、
(1)事前規制が許される場合があり、ヘイトはその例である、
(2)ヘイトの公共施設利用に関する最高裁判例はない。それがあるかのように描き出した大阪審議会の主張は不適切である、
(3)現に起きているヘイト・デモの規制は事前規制ではなく、事後規制である、
と主張してきた。私を支持する憲法学者や弁護士はまだいない。
ところが、16年12月に公表された川崎市協議会の報告書は、ここでいう事前規制についてその的確な実施を要請した。見事な報告書である。私と共通する見解だ。
山邨論文は、上記(1)と(3)に関連して、私とは異なる視点から問題解決を提示しようとしているので、とても参考になる。「事前規制」とは何かをめぐる研究が始まった。
なお、山邨は、思想の自由市場論や内容規制・内容中立規制論を前提として、その次の議論をしようとしている。この点も有益だ。
私は、思想の自由市場論や内容規制・内容中立規制論は日本国憲法と関係がなく、社会科学とも縁がなく、理論的に破綻しているから、学問的意味がないと考えているが。

Friday, April 07, 2017

仲宗根勇・仲里効編『沖縄思想のラディックス』

仲宗根勇・仲里効編『沖縄思想のラディックス』(未来社、2017年)
<「季刊 未来」にリレー連載《オキナワをめぐる思想のラディックスを問う》として掲載された沖縄の現在的諸問題をめぐる論考をベースに、米軍基地問題でますます緊迫する沖縄の政治情勢のなかで、現代沖縄の代表的論客たちが沖縄の歴史、政治、思想を縦貫する独自の沖縄論を展開する。翁長県知事体制の確立から現在の変節にいたるまで、ドラマチックなまでのリアル・ポリティクスを根底にすえ、ブレることのない沖縄の現状を思想的にえぐり出し、これからの沖縄のあるべき姿を遠望するラディカル・メッセージ。今後の沖縄を考えていくうえで避けて通ることのできない理論と実践のための画期的なオキナワン・プログラム。>
1932年生まれの川満信一から1967年生まれの宮平真弥、1968年生まれの桃原一彦まで、世代の異なる6人の論者による、沖縄発の闘うメッセージである。編者2ひとはそれぞれ未来社から著書を出してきた。桃原一彦も、知念ウシらと共著を2冊出している。
6人の論者はそれぞれ見解が異なるようだが、基本線では状況認識と闘いの課題を共有している。
八重洋一郎「南西諸島防衛構想とは何か 辺境から見た安倍政権の生態」では日本政治の欺瞞が批判の俎上に載せられる。沖縄の論者にとっては、何度言ったらわかるのか、いい加減こういう批判をしなくても良い時代にしたいとの思いが強いだろう。それでもなお力を込めて徹底批判しなくてはならない。桃原一彦「『沖縄/大和』という境界 沖縄から日本への問いかけ」も、宮平真弥「ヘイトスピーチ解消法と沖縄人差別」も、大和が連綿と行使してきた植民地主義と差別の諸相をたどり直し、解決の手掛かりを求める。仲宗根勇の3本の論考「島の政治的宴(うたげ)のあとで 沖縄・二〇一四年知事選後の新たな政治主体:「沖縄党」生成の可能性」「沖縄・辺野古 新しい民衆運動」「沖縄・全基地撤去へ渦巻く女性殺人等遺体遺棄事件の波動 辺野古新基地問題=裁判上の『和解』後の闘い」も、軍事的抑圧と政治的差別と蔑視の総体を跳ね返すべく、思想を紡ぎ続ける。
いまや日本政府だけではなく、日本社会も確信的沖縄差別と基地押しつけを恥じらうことなく推進しつつある。メディアにおける「沖縄ヘイト」はその主要な特徴と言えるだろう。植民地主義を反省したことのない「日本」がむき出しの暴力と差別に出ている。この腐敗をどのように乗り越えていくのか。植民地主義者でありたくない者は本書の提起を真剣に受け止め、応答しなくてはならない。




大江健三郎を読み直す(79)まだ生まれて来ない者たちに

大江健三郎『取り替え子 (チェンジリング)』(講談社文庫、2004年[講談社、2000年])
若干の中断の後に久しぶりに公刊された長編小説『宙返り』の翌年に、つまり大江にしては珍しく立て続けに公刊されたのが本書である。しかも、義兄にあたる俳優・映画監督伊丹十三の自殺を契機に書かれた作品であることから、「モデル小説」として大きな話題になった。長年にわたって息子・光を中心に、家族をモチーフにした作品を送り出してきた大江だが、伝統的な意味での私小説や「モデル小説」ではない。本書も「モデル小説」というわけではない。伊丹十三の自殺の真相や深層、それ以前の人生のあれこれを描いた作品ではない。大江流のデフォルメ、換骨奪胎、想像力により、映画監督の吾良と作家の古義人の青春を舞台に、戦後の四国の森の中でおきた事件を描き出し、それによって戦後日本史を問う作品である。
もっとも、前半は、吾良の死にうつ状態となった古義人の暗鬱な精神状態、吾良が残したカセットテープを聞く日々、妻(吾良の妹)との対話が描かれ、そしてドイツに出かけてからの様子が続き、読者はかなり待ちぼうけをくらわされることになる。古くからの大江の読者にはこれで良いだろうが、新しい読者には冗長な作品と映るだろう。
文芸評論家の高原英理は、第六章までと終章の趣の違いに触れ、「この終章こそが独立した短編であって、序章から第六章までの七章分はいずれもこの短編を成立させるための長い参照部あるいは注釈ではなかったかということだ。語ろうとして語れない、いや、しようとするならいくらでも他者の興味に応え満足ゆくように語れそうなのに、実際に語りだせば『了解』という帰結からどこまでも遠ざかってしまう感触をどうにか伝えるべき必要が、センダックの絵物語によって呼び起こされた、これはそうした小説ではないか。」という(『早稲田文学』6号)。
取り替え子というタイトルは、死者に対する思いから再生へと向かうに至る大江の主題に即して、まだ生まれて来ない者たちへの新生の希望を表している。

Wednesday, March 22, 2017

グルベンキアン美術館散歩

 リスボンはほとんど初夏の暖かさだ。街中を歩く若者たちはTシャツとパンツだ。坂の多い町なので上り下りで歩くと汗をかく。なるべく歩かずに路面電車とバスを利用する。24時間有効の地下鉄等チケットを買ったので便利だ。
グルベンキアン美術館は、リスボンの中心部、地下鉄サンセバスチャン駅からすぐだ。グルベンキアン財団の敷地にグルベンキアン美術館と現代美術館があるが、今回はグルベンキアン美術館だけにした。ベルナ通りから美術館の玄関に向かう。10時開館の15分前に、すでに10数人の客が待っていた。
グルベンキアンはアルメニア人の富豪だそうで、晩年はリスボンに住んだ。古代エジプト、ギリシア、ローマからアラビア、東アジアの古物、装飾品、貨幣、絨毯、家具、工芸品などを収集し、近代絵画や彫刻も集めた。亡くなった後に財団が作られ、そして2つの美術館が作られた。
常設展は、エジプトの食器、人物像、猫の像、レリーフ、マスク。同様に、ギリシア、メソポタミア、イスラム、アルメニア、極東、近世西欧、近代西欧と続く。極東では中国の陶器と、日本の漆器が中心。近世・近代西欧の家具、調度品、銀器もなかなか。よくこんなものまでと思うくらい、膨大な品々だ。雑多に見えるし、次から次へと買い漁ったのかと思ったが、古物専門家の助言をえながら蒐集したのだという。
近代絵画・彫刻では、ルーベンス、レンブラントなどフランドル派、マネ、モネなど印象派、そしてロダン。ターナーもあった。ルーベンスのヘレナ・フォーメント像、フラゴナールの愛の島、マネのシャボン玉、モネの氷解、ルノアールのモネ夫人、ドガの自画像、ロダンのカレー市民、ウードンのダイアナ、バーン・ジョーンズのヴィーナスが見どころ。
売店には立派なカタログが置いてあったが高価だし重いので、小さなガイドブックだけ買った。時間がなかったので2時間ほどでざっと見ただけだが、次回は現代美術館の方にも行ってみたいものだ。
FAVI, Assenblage de Cepages Rouges, AOC Valais Sion, 2015.

大江健三郎を読み直す(78)敵意を滅ぼし、和解をもたらすために

大江健三郎『「新しい人」の方へ』(朝日文庫、2007年[朝日新聞社、2003年]
前著『自分の木の下で』と同様に若い人々向けに書かれたエッセイ。大江ゆかりのイラスト付きも同じ。前著は中学生くらいが対象に想定されていたが、本書は高校生やその母親を想定するようになっている。
自分の子ども時代の思い出、自分の子どもたちの言葉や振る舞いなどをもとに、手がかりに、家族の在り方、人生の習慣、読書の方法などを様々に語る。
「意地悪のエネルギー」では、ヴァルネラブルという言葉の使い方を間違えると、いじめられる側に原因があるかのごとく考えられてしまうことを指摘している。
「ウソをつかない方法」では、ウソをつかない人という承認を得る価値を確認しつつ、ウソつきと言われた子ども時代を振り返り、ウソをつかない力について考える。当然のことながら、作家はウソつきの天才でなければならないが、政治家のようにウソをついてはならない立場の人間こそウソをつく問題をどう考えるか。
「本をゆっくり読む法」では、速読術のたぐいに疑問を呈しつつ、「ゆっくり読むこと、それが本当に本を読む方法です」という。そのためにゆっくり読むことのできる力を鍛えなくてはならない。なるほど、ゆっくり読むことは大切だ。重要な本ほどゆっくり読むべきだ。読み飛ばしてよい本はどんどん読み進めばいい。
タイトルにもなっている「新しい人」について、子どもたち、若い人たちに「新しい人」になってもらいたい、という。パウロの手紙における「新しい人」、本当の和解をもたらす人――一例としてエドワード・サイードがあげられる。この危機の時代に、敵意を滅ぼし、和解をもたらす「新しい人」をめざすこと、「新しい人」として生きること、大江自身にはできなかった希望を若い人に託すという形になっている。

縮小か縮充か、それが問題だ

山崎亮『縮充する日本――「参加」が創りだす人口減少社会の希望』(PHP新書)
日本の人口は減り始めた。2050年には3分の2の8000万人、2100年には3000~4000万人と予測されている。普通に考えて、放っておけばこの社会は崩壊するしかない。日本だけが勝手に崩壊するのなら、まだしも、この国の自爆テロ国家の歴史から言って、周辺諸国にあらん限りの迷惑行為を重ねて自爆する恐れがあるので、放置しておくわけにはいかない。この期に及んで、なお経済成長をめざすおバカな政権と国民の自爆路線ではやっていけない。
著者は、人口減少に手をこまねいているのではなく、コミュニティデザインの知見から、さまざまな工夫を凝らして、社会の安定した縮充をはかり、ソフトランディングさせるための英知を結集することを呼びかける。人口や税収が減少しながらも地域の営みや住民の生活が充実したものになるようなしくみをつくり出すことである。それを「縮充」と呼ぶ。
本書が取り上げるのは「まちづくり」「政治・行政」「環境」「情報」「商業」「芸術」「医療・福祉」「教育」の8分野。それぞれの分野ですでに行われている「参加」の試みを紹介し、なぜ参加が重要なのか、どのような成果を生み出せるのか、を考える。
「まちづくり」では、1960年代の名古屋市栄東の再開発問題への市民の取り組みに始まり、山形県飯豊町椿地区、世田谷のまちづくりセンター、徳島県神山町、阪神淡路大震災時のボランティアなどを紹介しながら、上からのまちづくりではなく、住民の参加、協働によるまちづくりの意義がますます大きくなるという。
8分野それぞれで起きている参加の意味、形態、成果はまったく違うが、共通しているのは、今や、そして今後、上からの行政ではなく、下からの参加、楽しい参加、やりがいのある参加こそが中軸になって、社会の在り方も活性化し、地域の暮らしや意識を大きく変えていかないと、将来展望は開けないことだ。
本書に疑問を指摘することは容易である。取り上げられている事例は成功例にすぎず、多くの失敗例があるのではないか。成功例にしても、ごく小規模の短期限定の成功ではないか。こうした批判は、著者は織り込み済みである。たしかに小さな限定的な意味を持った事例を挙げているが、そうした事例の一つが素晴らしいとか、それがどこにでも当てはまるというのではない。著者は、コミュニティデザインの思考を掲げ、あらゆる分野で多彩な取り組みを行い、参加の文化をつくり出すことに重点を置いている。
気になるのは、2050年の8000万人という場合、その年齢別人口構成はどうなっているのだろうか。団塊の世代が去った後に、どのような社会が出来上がっているのか。人口、税収、エネルギー、食糧等の基本情報の分析は必要ないのだろうか。

Tuesday, March 21, 2017

最新の総合的な科学史入門

松井孝典『文明は〈見えない世界〉がつくる』(岩波新書)
上のサイトには「われわれは何者になるのか?」と書かれているが、「に」と「る」は余計だ。本書はしがきでも本文でも結びにかえてでも「われわれは何者なのか?」という問いを何度も何度も繰り返しているのに。自社の本の紹介で、どうしてこんな間違いをするのか。粗忽な出版社だ。
科学史入門書はたくさん読んだ。科学が発展するにつれ、入門は何度も書き直されていく。本書前半、アインシュタインの登場までは、どの入門書でも同じ歴史をたどるが、本書後半の現代科学の部分は、現在史でもあり、多様な書かれ方になるだろう。
本書の特徴は、第1に、総合性だろう。天文学、物理学、磁気学、熱力学、生物学をはじめ、地球環境、宇宙論、素粒子論のいたるところに筆を伸ばして、見事に総合的に記述している。
第2に、数式を用いないことである。優れた科学史入門は、どうしても数式で説明することが多くなる。本書は数式に頼らず、文章でていねいに説明している。
第3に、内容面では、<見えない世界>と<見える世界>の関係という視座から全体を見渡す手法に特徴がある。見えない世界が見える世界をどのように規定しているのか。古代ギリシア、ローマ時代、あるいはアラビア、そして近代西欧における科学の発展を見えない世界への挑戦として把握し、読者をたくみに引き込んでいく。
最後の宇宙原理と人間原理の部分は、わかったようで、わからないところもある。素人にはついていけないところもある。しかし、現代科学史をこれだけコンパクトに個性的に描き出しているのは、さすが、と思う。