Tuesday, June 06, 2017

ヘイト・スピーチ研究文献(102)ヘイト・スピーチを受けない権利のために

前田 朗「公共空間におけるヘイトの規制」『部落解放』737号(2017年)
前田 朗「川崎市ヘイト・スピーチ報告書を読む」『部落解放』739号(2017年)
前田 朗「ノルウェーにおける反差別法・政策」『部落解放』740号(2017年)
前田 朗「国連人権理事会マイノリティ問題報告書」『部落解放』741号(2017年)
前田 朗「日本国憲法はヘイト・スピーチを許しているか」『部落解放』742号(2017年)
「ヘイト・スピーチを受けない権利」という連載、3年目に突入。


Monday, June 05, 2017

ヘイト・スピーチ研究文献(101)差別とヘイトのない社会へ

「【特集】差別とヘイトのない社会へ」『人権と生活』 44号 (在日本朝鮮人人権協会、2017年6月)
◇大阪朝鮮学園補助金裁判判決に見る「歴史の偽造」 ―大阪府私立外国人学校振興補助金制度の創設をめぐって……藤永壮
◇広島における運動実践―官・民あげての差別に抗して……村上敏
◇震災後の「外国人犯罪」の流言と現在……郭基煥
◇ヘイトスピーチ解消法と部落差別解消法―地域社会における「両輪」の方途……山本崇記
◇監視とルールの提案によって新しい反差別運動を―反レイシズム情報センター(ARIC)の差別監視活動から……梁英聖
◇排外主義と主流LGBT運動 —「ヘイト」概念を超えて……マサキチトセ
「差別とヘイトのない社会へ」と題された特集で、日本における差別とヘイトの諸相を多面的に明らかにし、分析している。

Sunday, June 04, 2017

いつまで続く、「戦後よ、さよなら」論

浜崎洋介『反戦後論』(文藝春秋)
<戦後よ、さよなら
~「政治と文学」の接点を問う~
郊外、大東亜戦争、象徴天皇、三島由紀夫、小林秀雄、福田恒存、柄谷行人、そして坂口安吾……。
戦後思想に新たな問題を提起する、気鋭の批評家による画期的論考!>
ということだが、「もはや戦後ではない」に始まり、「戦後民主主義は虚妄だった」を経て、「戦後体制の終焉」は何度も何度も語られてきた。戦後50年の1995年には一段落かと思われたが、実際はむしろその後も「戦後」に囚われることになったのが、自称「保守」という偽保守だった。歴史修正主義が政権を奪取し、この国の思想風土に深く根付いてしまった。戦後を超えられず、戦後を相対化することもできず、ひたすら戦後に悪罵を投げつけ、唾を吐くだけの虚妄の偽保守だ。
戦後70年も同じ茶番を繰り返したに過ぎない。無責任な首相談話は戦争への反省も、戦後への反省もなく、肥大化した自意識を恥ずかしげもなくさらけ出したに過ぎない。
それでは浜崎洋介はどうか。こういった読み方をしてしまったので、著者が書いていることよりも、書いていないことに関心を持ってしまった。あまり良い読み方ではない。ただ、次の一節に著者の思いと射程距離が見える気がする。
「では、改めて問おう。そこから自由になるべき『現実』を失い、また、そこへと自由になるべき『理想』を失っている現在、私たちは一体何を足場として『文学』を生きることができるのか。毎月量産される『小説』をよそに、それと共闘しようとする『批評』は存在しない。一見『批評』と見えるものは――私の文章も含めて――単に器用な作品解釈のパフォーマンスでしかない。『様々なる意匠』は相変わらずだが、それらのなかの一つでも、かつてプロレタリア文学が身に帯びていた程度の緊張さえ生きようとする者はいない。この十年余り、残るものの何一つない、現れては消え、消えては現れるアブクのような『自意識』ばかりを見せつけられてきた気がする。もちろん、そんな現状を嘆く私の言葉も例外ではない。」
では、初期柄谷行人に決別した著者はどこへ向かうのか。福田恒存しか指針がないのだろうか。それでは「反戦後」のお題目を年中行事のごとく繰り返すだけではないのだろうか。

Friday, June 02, 2017

ヘイトスピーチ解消法施行1年/産経新聞記事6月3日

6月3日の産経新聞社会面(22面)に、「ヘイトスピーチ解消法施行1年 法務省勧告は施行前含め2事案 事前規制の動きも」という記事が掲載された。
解消法制定後のヘイト状況や、自治体の対応を整理した記事である。表現の自由との関係では、小見出しに「『表現の自由』との両立 割れる意見」としているところが目に付く。1年以上前のマスコミは、表現の自由だと断定してきたが、産経新聞は「表現の自由」にカギかっこを付けた。単純に表現の自由と言って済む問題ではないことを的確に示している。
識者コメントは、1人目が、「表現の自由の観点から慎重な検討を求める」中央大非常勤講師の服部孝章氏(メディア法)で、「恣意的運用が行われないのかという懸念」を表明する。
2人目が私である。私のコメントには、従来のマスコミには載らなかった内容が含まれている。ひじょうに短いコメントだが、ここまで私見を載せてくれたのは初めてなので、ポイントを解説しておく。
第1に、「ヘイトは民主主義の基礎を破壊する」である。これがようやくマスコミにのった。私見は「表現の自由は民主主義に不可欠であり、ヘイトは民主主義を破壊するから、表現の自由を守るためにヘイト・スピーチを処罰すべきだ」というものである。国連人権理事会で使われてきた表現で言えば、「レイシズムとデモクラシーは両立しない」。
第2に、「ヘイトは民主主義の基礎を破壊する行為」という主張である。ヘイトは行為だという当たり前のことをなぜ述べなければならないか。それは、憲法学者の中に「表現と行為を区別し、行為は処罰できるが、表現は処罰できない」という異常な主張があるからである。ここまでしてヘイト・スピーチを擁護したいのかと驚き、呆れる屁理屈だ。表現は行為であり、ヘイト・スピーチは行為である。
第3に、「表現の自由で保護される対象ではない」である。1年以上前は「ヘイト・スピーチの規制は表現の自由の保護に抵触する」と断定する憲法学者が多かった。
第4に、「人権侵害が行われる可能性が高い場合は規制すべきだ。そうしなければ自治体がヘイトに加担したことになりかねない」である。これもマスコミに初めて載せてもらえた。人種差別撤廃条約では、政府は差別をしてはならず、差別を容認してはならず、個人による差別を止めさせなければならない。差別が行われる蓋然性が高い場合、自治体は差別集団に施設を貸してはならない。デモを許可してはならない。差別が行われると知りながら、差別集団に施設を貸したり、デモを許可すれば、自治体が差別に加担したことになる。この当たり前の主張をずっと繰り返してきたが、なぜかマスコミには採用されなかった。
それどころか、大阪市審議会は「自治体にはヘイト集会であっても施設を貸す義務がある」という異常な主張をした。「自治体は差別に加担する義務がある」という暴論である。関西には異常な憲法学者がいるものだと驚いたが、驚いたのは私たち少数にすぎず、この異常な見解に納得する人間が意外に多かった。まともじゃない。逆に、産経新聞は私の主張をきちんと載せてくれた。

もっと知りたいミケランジェロ

池上英洋『もっと知りたいミケランジェロ』(東京美術、2017年)
<イタリア・ルネサンスの三大巨匠として名高いミケランジェロ。彫刻家、建築家、画家として「神のごとき」と謳われたその天才の芸術を人生を凝縮し、代表作を網羅したミケランジェロ入門のスタンダード。美術に関心がない人でも、名前くらいは聞いたことがあるミケランジェロ。昨今日本でも展覧会が開催される回数が増え、関心が集まっています。ミケランジェロの一体なにがそんなにすごいのか!?素朴な疑問に応え、納得していただける一冊です。>
『西洋絵画の巨匠 レオナルド・ダ・ヴィンチ』『ルネサンス 三巨匠の物語』『神のごときミケランジェロ』『もっと知りたいラファエッロ』の著者によるミケランジェロの生涯と作品解説である。「アート・ビギナース・コレクション」の1冊で入門書だが、「もっと知りたい」とあるように、ミケランジェロの生涯に様々な観点から光を当てて、エピソードを紹介し、作品に迫る。研究書から入門書まで幅広く巧みに多数世に送り出す著者のエネルギーには敬服する。そのうちミケランジェロ著『もっと知りたい池上英洋』(テリビリタ出版)にお目にかかれるかもしれない。

Sunday, May 28, 2017

ヘイト・スピーチ研究文献(100)人種差別表現と個人的連関

金尚均「人種差別表現と個人的連関――特定(諸)個人に向けられたヘイトスピーチについて」『龍谷法学』49巻4号(2017年)
この数年、『ヘイト・スピーチの法的研究』(法律文化社、2014年)を編集し、さらにヘイト・スピーチの刑事規制に関する多数の論文を公にしてきた著者の最新論文である。
ヘイト・スピーチは、不特定多数の人々に対する誹謗中傷と排除の言動を指すが、特定(諸)個人に対するヘイト・スピーチもありうる。不特定多数に対するヘイト・スピーチは日本では刑事規制の対象にならないとされてきたが、後者の特定(諸)個人に対するヘイト・スピーチは名誉毀損罪や侮辱罪に当たる場合がある。
早くから差別表現の刑事規制問題を論じてきた刑法学者の平川宗信は、この類型について、名誉毀損型と言うよりも、「粗暴犯」型と把握できるとし、刑法の侮辱罪を名誉毀損罪から切り離して、粗暴犯型の侮辱罪規定に再編成して、これに対処する方法を提案してきた。
金尚均は、平川の提案の積極面を踏まえつつ、ヘイト・スピーチによって侵害されるのは名誉ではなく、人間の尊厳であることの意味を再考する。人として認めて初めて名誉が生じるのだから、人間の尊厳を否定するということは、そもそも名誉など成立しないということである。名誉の毀損と人間の尊厳の保護法益としての理解は明らかに異なる。
「属性を理由とする差別的言動であるヘイトスピーチは、――何らの文脈もなく突発的に発せられるのではなく――ある社会において歴史的に形成され、固定化された、特定の集団に対する蔑みないし同等の社会の構成員であることの否認を認識的背景にして発せられることから、これが特定の個人に対して発せられたとしても、――『おまえら、○○人はゴキブリだ』、『おまえみたいな○○人は日本から出ていけ』という発言のように――属性を理由に当該集団の構成員に対して罵詈雑言や誹謗中傷が行われる場合には、集団そのものが蔑まれていることで、構成員である彼の名誉は、実は既に問題になっておらず、――名誉が問題になる前提としての――同じ対等な地位を持つ社会の構成員であること、ひいては同じ人間であることを否定されているわけであり、それゆえ人間の尊厳に対する攻撃が本質であることを明らかにし、その上で名誉と人間の尊厳との相違を示す必要があるからである。」
そこで金はドイツにおける集団侮辱罪の規定、学説、判例を瞥見した上で、「名誉毀損・侮辱罪の文脈に照らすと、表現による(諸)個人の社会的評価の低下又は社会的情報状態の悪化が、個人の努力ではどうにもならない属性を理由とする集団に対する社会的偏見又は憎悪に基づいて属性によって特徴づけられる集団に関する表現によって生じた場合、これは、純粋、一個人だけに向けられた攻撃とは言い難い。」と言う。被害は個人だけでなく、集団にも及ぶからである。個人の名誉毀損と言う理解では把握できないヘイト・スピーチの特徴がある。
かくして金尚均は、ヘイト・スピーチ解消法を改正して、人種差別及び排除煽動の禁止、属性を理由とする侮辱の処罰を規定するよう提案する。
ヘイト・スピーチの刑事規制に関して長年取り組んできた著者による論文であり、本論文では、ヘイト・スピーチ一般ではなく、個人的連関のある場合に焦点を絞って論じている。明らかに個人的連関のある場合であっても、名誉毀損とは異なり、ヘイト・スピーチでは人間の尊厳が失われ、しかも直接標的とされた個人だけではなく、当該集団にも被害が生じることが的確に把握されている。ヘイト・スピーチの刑事規制につき、日本刑法で対応可能な局面と、対応できない局面とを腑分けして、次の議論につなげることは重要である。


Wednesday, May 17, 2017

日本国憲法のレイシズムを問うために

鄭栄桓「在日朝鮮人の『国籍』と朝鮮戦争(1447-1952年)――『朝鮮籍』はいかにして生まれたか」『PRIME』40号(2017年)
かつての外国人登録、現在の外国籍の在日朝鮮人の在留カード及び特別永住者証明書には「朝鮮」「韓国」の2つの表示が用いられている。1947年には「朝鮮」のみであったのに、その後、「韓国」が導入され、ともに地域を表示するものであった。ところが、「韓国」はいまでは大韓民国籍を表示しているのに、「朝鮮」は地域等の表示であって、朝鮮民主主義人民共和国を表示するものではない。にもかかわらず、「朝鮮」を朝鮮民主主義人民共和国と結び付けて、政治的に差別がなされていることは周知のことである。
これは朝鮮半島の分断という歴史的理由が背景となっているものの、朝鮮植民地支配の責任に頬かむりし、それどころか植民地支配の帰結としてつくり出された在日朝鮮人に対する責任も無視し、逆に差別してきた日本政府の政策に由来する。日本政府の差別政策は見事に一貫しているが、具体的な差別方法が一貫していたわけではなく、時期により変遷が見られる。
このテーマには、飛田雄一、大沼保昭、田中宏ら多数の先行研究があるが、著者は1947~52年――1947年は外国人登録命令によって「便宜の措置」として「朝鮮」が採用された年であり、1952年はサンフランスシスコ講和条約発効に伴い朝鮮人の日本国籍が「喪失」したとされた年――の日本政府の施策の変遷を詳細に検討する。
よく知られる通り、外国人登録令は1947年5月3日の日本国憲法施行の前日である5月2日に出された。「国民主権」を定めたはずの憲法施行直前に、天皇の命令によって「国民」の一部を「国民」から除外した。一夜にして100万単位の人間の国籍が剥奪されるという人類史上他に例のない暴挙である。こうして「日本国民」が形成される一方、外国人とされた朝鮮人の処遇はその後、数年間の政策を通じて変遷し、現在に至る。
憲法論的に言えば、憲法制定権力論、国民主権論に直接かかわる問題であるにもかかわらず、憲法学はこれらの歴史を無視ないし軽視してきたといってよい。憲法制定時の「国民(臣民)」に属するとされていた人々が、完成した憲法施行の前日に一方的に「国民」から除外された事実は、日本国憲法の正統性そのものに疑念を抱かせるはずだ。
この事実は、私の関心事としては「日本国憲法のレイシズム」というテーマに属する。あの戦争への反省、国際協調主義、平和主義を基調とし、法の下の平等と差別の禁止を掲げているにもかかわらず、日本国憲法は幾多の差別を容認してきた。むしろ、日本国憲法がレイシズムの根拠にさえなりかねない逆説的な歴史が続いた。そのことを自覚しないがゆえに、憲法学は外国人差別に加担・助長してきたと言ってよいだろう。このテーマで短い論文を書くつもりでいたのだが、ちょうどよい時期に、鄭栄桓論文に出会えた。夏までには「日本国憲法のレイシズム」を問う文章を書きたいものだ。