Monday, December 22, 2008

すいす・しんどろ~む(14)シオン(2)

魔女の塔と要塞教会――シオン

スイス南西部のヴァレー州はアルプスと氷河とワインのメッカだ。

アルプスはヴァレーだけではもちろんないが、その主峰はヴァレーに集まる。高い順にデュフール(4634m)、ドム(4545m)、ヴァイスホルン(4506m)、マッターホルン(4478m)、ダンブランシュ(4357m)と、スイスの5大峰はすべてヴァレーにある。有名なユングフラウ(4158m)やアイガー(3970m)は、高さについては見劣りする。ちなみに、モンブラン(4807m)は、ジュネーヴからバス・ツアーで行くことが多いが、スイス領ではなく、フランス領である。氷河もヴァレーが本場だ。3大氷河のアレッチ、ゴルナー、フィーシュが揃っている。

そのヴァレーの州都がシオンである。

州都といっても小さな町で、市街地をぐるぐる歩き回っても半日である。人口2万6千人。

スイス第一の都会チューリヒ(36万)、第二のバーゼル(20万)、第三のジュネーヴ(18万)と比べてもずっと小さいし、ローザンヌ(12万)やルツェルン(6万)にも遠く及ばない。ホテルも十数軒しかない。バス停には市街地図が描かれているが、郊外を含めても、そう広くはない。

駅に着くと、まずはお目当ての魔女の塔へスタスタ歩く。

5分も歩けばついてしまう。何の変哲もない小さな塔だが、中央部が妙に膨らんだ不思議なつくりで、魔女の帽子でも思い出させたのか、この名前だ。塔の中には入れないし、特別の案内板もない。誰もいない。石のレリーフに図が描かれているが、どうやらかつてシオン旧市街を囲んだ城壁の一部だったようだ。ほかはなくなってしまったが、この塔だけが残ったのだ。裏手に回ると、柵の中にアヒルがガアガア鳴いていた。

他に何もないので仕方なく、ノートルダム教会へ回り、市役所脇の細い路地を登って、ヴァレールの丘へ向かった。

シオンがユニークなのは、町の中央部に2つの丘があって、一方には要塞教会が聳え、他方には廃虚となった城跡が鎮座していることだ。町の南側にはアルプスが壁のごとくそそり立っているのと比べると、いかにも小さな丘だが、町全体を睥睨するように2つ並んでいる。ラクダのコブのようでもある。

ヴァレールの丘には6世紀から司教座があり、一次は軍事力も保有していたために要塞教会とも呼ばれる。建物自体は11世紀のロマネスク時代のものだという。教会のホールに入ると正面上段に見えるが、演奏可能な世界最古のパイプオルガンが保存されている。教会脇のテラスから隣の丘のトゥルビヨン城跡がよく見える。

一人でカメラをパチパチやっていたら、地元らしきおじさんが写してくれた。

教会もトゥルビヨン城跡もまさに中世の歴史を彷彿とさせる古教会と古城跡である。トゥルビヨン城跡にも登ってみた。土と小石の斜面を汗吹きながら登り、振り返ると、爽快とはこういう風景を言うのだろう。城跡の入り口の黒い縁の中に、中世画のように街並みが広がる。あくまでも青い、どこまでも青い空の下に、とっておきの風景だ。

城跡の裏手は小さな台地になっていて、芝生状に緑が広がっている。家族連れがお弁当を食べている。

ここから見下ろすと郊外には新しい高層住宅や工場らしき建物が形成されている。古都シオンは周辺部で発展しているようだ。

シオンの歴史は古い。

隣のマルティニから南へゆくとグラン・サン・ベルナール峠があるが、ここは紀元後47年に開かれたもので、ローマ軍もここを通ったという。

考古学博物館には、シオン周辺から発見されたケルト時代やローマ時代の発掘物が展示されている。市役所の扉にはスイス最初のキリスト教についての叙述がある。紀元377年という。シオンに司教座が置かれたのは585年で、マルティニ(オクトドゥールス)から移された。高地ブルグント王国の中心はジュラ山脈のスイス側にあり、ヴォーのローザンヌ、ヴァリスのシオン(ジッテン)、ジュラのバーゼルに司教座が置かれた。アルプスの2大峠のグラン・サン・ベルナールとシンプロンは、シオンの管轄であった。

10世紀以後、ヨーロッパは政治的、経済的に比較的安定し、14世紀の疫病流行までは平和と繁栄の時代であった。農業技術も発展し、手工業と商業も定着した。地中海貿易による富が都市を育てた。ジュネーヴ、ローザンヌ、シオン、ザンクト・ガレン、クール、バーゼル、コンスタンツといった司教所在地が都市に発展した。この時期、都市は領主から自立して、直接皇帝の支配下になって、帝国都市への道を歩んだ。1218年、ツェーリンゲン家が断絶してから、チューリヒ、ベルン、ゾロトゥルンが帝国都市となり、後にバーゼル、シャフハウゼン、フリブール、クール、ジュネーヴも続いた。これらの都市は流血裁判権や貨幣鋳造権を獲得した。

近世の盟約者団の形成や相次ぐ戦乱のなか、シオンを核とするヴァリスも、その権益と存亡をかけて歴史の荒波に乗り出した。1414年のヴァリスのラーロン戦争は、ベルンと四森林邦の対立をもたらした。それはヴァリスの自由農民と、ヴァリスのラント首長である貴族ラーロンとの闘いであった。

14~15世紀、全ヨーロッパでコミューン的な民衆運動が展開した。もっとも大きな成果を収めたのがスイスである。なかでもアペンツェル、ヴァリス、ラエティアがそうであった。ラント住民全体が政治的に同権とされ、全ラント住民の集会である「ランツ・ゲマインデ」が最上級機関とされた。

シオンは、アレマン、ブルグント、ランゴバルト3部族の定住地の境にあり、グラン・サン・ベルナールとシンプロンを擁していた。1388年のヴィスプの戦いで、ドイツ系住民たちはサヴォア公の侵攻を撃退した。

15世紀前半、ヴァリスは連邦制的に再組織され、かつて司教の行政区域であったゴムス、ブリーク、ヴィスプ、ラーロン、ロイク、シエール、シオンの7つのツェーンデンから民主的な領域共同体が生まれた。それぞれのツェーンデンには総会と参事会があり、市政は農民・市民・貴族が共同で担当した。そこから近代のスイスへは、あと数歩である。

ヴァレールの丘から市役所に戻り、377年のキリスト教を素早く確認して、自家用車がようやく通れるような露地を抜けると、ホテルが2軒並んでいた。

手前のホテルを覗くと宿泊客はほんの僅かで、直ちにチェックイン。シャワーを浴びてから、レストランに降りると、地元客が喋り、かつ食べまくっている。

テーブルについて、まずはファンダン・ド・シオンFendant de Sionを1杯。

シオンはワインのメッカでもある。駅前にはワインの館もある。

スイス・ワインといえば、まずはヴァレーなのだ。次いでレマン湖畔のヴォー(とくにヴヴェ)、そしてジュネーヴ、ヌシャテル、ムルテンだ。最大の産地であるヴァレーの州都シオンがワインの町であるのは当然だ。

たいていの観光案内にものっているが、スイス・ワインは、ほとんど国内で消費するために輸出はごく僅かである。できあがったものを早めに呑むので、年代にはさほど拘らない。「肉には赤、魚には白」といった「約束事」もない。

また、レストランではオープンワインで注文できる。1デシリットルごとに頼めるので、わざわざボトルを開ける必要がない。たかがワインに悪戯に格式張ったりしない。そこがいい。

ヴァレーでは、赤のドールDoleとピノ・ノワールPinot Noirが有名だが、白ならファンダン・ド・シオンだ。どれも有名銘柄で、ジュネーヴでもチューリヒでも呑めるが、やはりファンダンをシオンで呑んでみたかった。

陽射しは落ちたが、まだ青空が広がるシオンの風に吹かれて、ファンダン――3杯を超えたあたりから、これならボトルを開けてもよかったか……。