Monday, August 03, 2009

ヘイト・クライム(13)

法と民主主義435号(日本民主法律家協会、2009年1月)

<刑事法の脱構築

人種差別の刑事規制について

一 はじめに

かつて差別的表現に関する憲法論を展開した内野正幸は、人種差別撤廃条約や自由権規約を取り上げ、そして「自由主義諸国の苦悩」と題して各国の立法例を紹介している(1)。アメリカの人種的集団ひぼうの禁止、イギリスのヘイトクライム法、フランスの人種差別禁止法の集団侮辱と憎悪・暴力煽動、カナダの憎悪煽動罪などを紹介・検討し、立法例について、人種的集団に対する憎悪煽動、差別煽動、名誉毀損、侮辱の四つに類型化できるとしている。規制範囲について、人種差別撤廃条約四条aは禁止の対象にあまり限定をつけていない、立法例にも同様の例がある、ドイツやフランスの立法には「本来自由であるべきだと思われるような表現行為に対してまで、適用される傾向」があると指摘している。

内野は、「部落差別的表現の規制」について賛成論と反対論を検討したうえで、五つの私案を紹介している。

部落解放同盟・差別規制法要綱(案)
「第三(差別表現、差別煽動の禁止)(一)何人も、ことさら部落差別もしくは民族差別の意図を以って、個人もしくは集団を公然と侮辱し、またはその名誉を侵害してはならない。(二)何人もことさら前記記載の差別を煽動する目的をもって、公然と個人もしくは集団に対する暴力行為または殺傷行為を挑発してはならない。」

松本健男案
「何人も、民族、人種、国籍ならびに社会的出身、出生を理由として、個人又は集団に対し、公然と侮辱的言動をなし、あるいは名誉、信用を傷つけ、憎悪、暴力、交際拒絶を煽動し、もしくは社会的・市民的権利の享有を妨害し、あるいは誹謗してはならない。」

森井
「個人または団体に対し、ことさら部落差別の意図をもって、公然となされる侮辱、名誉毀損ならびに信用毀損を禁止する。」

山中多美男案
(一) 確信犯、開き直り、(二)差別を利用しての利益追及、(三)執拗な差別電話,手紙、落書き、(四)ファッショ的な内容、を対象にする。教育・啓発を先行させ、にもかかわらず反省のない者に行政罰を科す。

内野正幸案
「(第一項)日本国に在住している、身分的出身、人種または民族によって識別される少数者集団をことさらに侮辱する意図をもって、その集団を侮辱したものは、・・・・・・の刑に処す。(第二項)前項の少数者集団に属する個人を、その集団への帰属のゆえに公然と侮辱した者についても、同じとする。(第三項)前二項にいう侮辱とは、少数者集団もしくはそれに属する個人に対する殺傷、追放または排除の主張を通じて行う侮辱を含むものとする。(第四項)本条の罪は、少数者集団に属する個人またはそれによって構成される団体による告訴をまってこれを論ず。」

 以上の諸案の特徴は次のようなものである。

 第一に、①②③は禁止規定であり、犯罪とする趣旨と思われるのに、それが文章に反映されていない。④⑤は犯罪であることを明言している。

第二に、いずれも人種差別撤廃条約に準じた規定案にはなっていない。

第三に、①②③⑤は個人に対する差別禁止と集団に対する差別禁止の両者を含んでいる。

第四に、①②は差別禁止と扇動禁止の両方を含むが、それ以外は煽動禁止について明示していない。

第五に、いずれも差別表現を伴う暴力や差別的動機による暴力の加重処罰規定に言及していない。

二 国際人権機関の勧告

日本政府が人種差別撤廃条約を批准したことにより、議論状況は大きく変化した。人種差別撤廃条約第四条は、人種的優越主義に基く差別と煽動を犯罪として禁止するよう要請している。四条aは人種的優越・憎悪観念の流布・煽動を犯罪とし、bは人種差別団体を規制することとし、cは国による人種差別助長・煽動を禁じている(日本政府はabを留保している)。人種差別撤廃委員会に提出された報告書を見ると多くの国で実際にそうした処罰立法がなされており、現に適用されている。

人種差別撤廃委員会

二〇〇一年三月二〇日、人種差別撤廃委員会は、前年四月九日の石原慎太郎都知事の「三国人発言」は条約に違反する差別発言だと指摘した(2)。

日本政府は次のように回答した。「石原発言は特定の人種を指していない。外国人一般を指したもので人種差別を助長する意図はなかった。『不法入国した三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返しており、災害時には騒擾の恐れがある』との言葉だが、都知事には人種差別を助長する意図はなかった。」

 委員会の最大の関心事は、日本政府が条約四条abの適用を留保しており、しかも日本に人種差別禁止法がないことであった。石原発言が野放しになっていることやチマチョゴリ事件(在日朝鮮人に対する差別と暴力)への厳しい批判に次いで、人種差別禁止法の制定を求める発言が続出した。印象的だったのは「人種差別表現の自由などというものは認められない」という趣旨の発言であった。委員会の「最終所見」は、人種差別の禁止と表現の自由は対立せず、両立することを指摘し、条約を完全に実施するために人種差別禁止法を制定し、人種差別を犯罪とするよう勧告した。

 

人種差別特別報告者

二〇〇六年、国連理事会の「人種差別特別報告者」ドゥドゥ・ディエンの報告書が公表された(3)。

「日本政府は、日本社会に人種差別や外国人排斥が存在していることを公式に表立って認めるべきである。差別されている集団の現状を調査して、差別の存在を認定するべきである。日本政府は、人種差別と外国人排斥の歴史的文化的淵源を公式に表立って認め、人種差別と闘う政治的意思を明確に強く表明するべきである。こうしたメッセージは、社会のあらゆる水準で人種差別や外国人排斥と闘う政治的条件をつくりだせるのみならず、日本社会における多文化主義の複雑だが意義深い過程を促進するであろう。」

ディエン報告者は、日本における人種差別の現状を分析し、日本政府の政策や措置も検討した上で、数々の勧告を行なった。特に強調されたのが、人種差別が存在することを公的に認め、人種差別を非難する意思を明確に表明し、人種差別と闘うための具体的措置をとること、人種差別禁止法を制定することである。

 「日本政府は、自ら批准した人種差別撤廃条約第四条に従って、人種差別や外国人排斥を容認したり助長するような公務員の発言に対しては、断固として非難し、反対するべきである。」

 「日本政府と国会は、人種主義、人種差別、外国人排斥に反対する国内法を制定し、憲法および日本が当事国である国際文書の諸規定に国内法秩序としての効力を持たせることを緊急の案件として着手するべきである。その国内法は、あらゆる形態の人種差別、とりわけ雇用、住居、婚姻、被害者が効果的な保護と救済を受ける機会といった分野における差別に対して刑罰を科すべきである。人種的優越性や人種憎悪に基づいたり、人種差別を助長、煽動するあらゆる宣伝や組織を犯罪であると宣言するべきである。」

国連人権理事会

 人権委員会が改組されて二〇〇六年に発足した人権理事会は「普遍的定期審査(UPR)」という制度を設け、各国の人権状況を審査することにした。日本についての最初のUPRは、二〇〇八年五月に行われた。総会に先んじた作業部会において、日本政府に対して多数の勧告がなされていたが、総会においても同様に厳しい指摘がなされた。多くの人権条約の選択議定書を批准していないこと、人種差別禁止法を制定すべきこと、インターネット上の人権侵害に対処すること、死刑廃止に向けた努力をすること、難民認定の独立機関を設置すること、日本軍性奴隷制度の解決に向けた努力をすることなど、多面的な指摘がなされた(4)。

自由権規約委員会

市民的および政治的権利に関する国際規約に基づく自由権規約委員会は、二〇〇八年一〇月三〇日、日本について最終見解を発表した(5)。

日本軍性奴隷制問題に関して、自由権規約委員会は問題を解決するよう厳しい指摘をした。年金制度に関しても、日本国籍者以外に対する年金からの除外を是正すること、移行措置をとることを勧告した。朝鮮学校に対して、他の私立学校と同様の卒業資格認定、その他の経済的手続的な利益措置を講じることも勧告した。

自由権規約委員会はその他にも多くの勧告を出している。主要なものを項目だけ列挙してみよう。アイヌ民族を先住民族として認めること。琉球/沖縄についても権利を認めること。人身売買被害者を救済すること。外国人研修生や技能実習生に対する搾取や奴隷化を是正すること。拷問を受ける恐れのある国への送還を行わないこと(ノン・ルフールマン原則)。裁判官などにジェンダー教育を行うこと。子どもの虐待に対処すること。同性愛者や性同一性障害者への差別をなくすこと。

 以上のように、国際人権機関から日本政府に対する勧告が相次いでいる。人種差別禁止法を制定するべき十分な立法事実があることを推測させるものである。

三 最近の議論

 国際人権機関からの勧告を受けて、NGOレベルではさまざまな議論の積み重ねが見られる。もともと、国際人権機関による勧告は、NGOの報告書などに基づいて審議を行った結果出てきたものであって、人権NGOの努力が背景にある(6)。ここでは「外国人人権法連絡会」による議論の成果をもとに見ていこう(7)。

外国人住民基本法(案)


 「外登法問題と取り組む全国キリスト教連絡協議会」が、一九九八年一月に作成した。前文、第一部「一般的規定」、第二部「出入国および滞在・居住に関する権利」、第三部「基本的自由と市民的権利および社会的権利」、第四部「民族的・文化的および宗教的マイノリティの権利」、第五部「地方公共団体の住民としての権利」、第六部「外国人人権審議会」(全二三条)から成る。第三条第二項は「国および地方公共団体は、人種主義、外国人排斥主義、および人種的・民族的憎悪に基づく差別と暴力ならびにその扇動を禁止し抑止しなければならない」とする。同条第三項は司法的救済等を定めている。


 この規定は、人種差別、暴力、その扇動を犯罪化することを含意しているものと推測できるが、その内容はあいまいである。具体的な実行行為が特定されていない。差別と暴力の保護法益は被害者の個人的法益と考えられるが、扇動は人種集団や民族集団の集団的法益を想定しているようである。刑罰には言及がない。


②多民族・多文化の共生する社会の構築と外国人・民族的少数者の人権基本法の


制定を求める宣言


 日本弁護士連合会が、二〇〇四年一〇月に作成した。前文と八項目から成る。基本的人権と少数者の権利、永住外国人の地方参政権等、社会保障、労働権、外国人女性に対する暴力防止、在留資格、入国管理手続きの適正化、教育権、人種差別禁止法等。第八項は「人種差別禁止のための法整備を行い、その実効性を確保するために政府から独立した人権機関を設置するとともに、差別禁止と多文化理解に向けた人権教育を徹底すること」とする。


 人種差別禁止法の提案であるが、人種差別の犯罪化が含まれているか否かは不明である。


③外国人・民族的少数者の人権基本法要綱試案


 日本弁護士連合会第四七回人権擁護大会第一分科会実行委員会が、二〇〇四年一〇月に作成した。右の「宣言」を具体化した要綱試案である。前文、第一章「総則」、第二章「外国人及び民族的少数者の人権と国及び地方自治体の責務」、第三章「旧植民地出身者とその子孫の法的地位」、第四章「人種差別の禁止」、第五章「国・地方自治体の施策」、第六章「救済機関」から成る。第四章の1は「国及び地方自治体は、人種差別撤廃条約の諸規定を国内においても実効化するための法律または条令を制定する責務を有する」とする。


 「人種差別撤廃条約の諸規定を実効化する」ことには人種差別の犯罪化が含まれるはずであるが、試案はそこまで明言していない。第六章では、「第二章ないし第四章に規定する権利の侵害」の救済機関としての国内人権機関を設置することとしている。司法的救済には言及していないので、人種差別の犯罪化を意図していないとも読める。


④人種差別撤廃条例要綱試案


 東京弁護士会外国人の権利に関する委員会差別禁止法制検討プロジェクトチームが、二〇〇五年六月に作成した。一「総則」、二「個別分野における差別禁止」、三「公務員による差別禁止の特別規定」、四「地方公共団体・企業及び私人の責務」、五「救済手続」から成る。人種差別を、直接差別・間接差別・ハラスメントに分類している。二「個別分野における差別禁止」では、労働・公務就任、医療・社会保障、教育、団体加入等、不動産の貸借、売買、施設利用等における人種差別を禁止し、末尾の「罰則」は「本章の禁止規定に違反した者は、これを罰する」とする。三「公務員による差別禁止の特別規定」では、「公務員が、公の場において、公務に従事する者としての立場において、人種等の事由につき日本における少数者の立場にある人種集団若しくはそこに属する者に対し、人種等に関し、暴力行為を行い若しくはそれを扇動し、憎悪を表現し、または脅迫若しくは侮辱を行ったときはこれを罰する」とする。五「救済手続」の「刑事告発」の項では、首長の直轄機関として設置される「人種差別撤廃委員会は、本条例において刑事罰の対象となる人種差別行為を認知したときは、検察官または司法警察員に対し告発することができる」とする。


 第一に、「個別分野における差別禁止」に違反した者を罰するとしているのは、極めて包括的な犯罪化規定である。労働、医療、教育等の非常に広範な分野における、さまざまの人種差別行為を、無限定に犯罪化する趣旨と読める。


 第二に、「公務員による差別禁止の特別規定」では、「人種集団若しくはそこに属する者」とあるように、個人的法益だけではなく、集団的法益も保護の対象としている。実行行為は、暴力行為、その扇動、憎悪表現、脅迫、侮辱である。個人に対する暴力行為、脅迫、侮辱は刑法上の犯罪であるが、扇動と憎悪表現は新たな犯罪規定である。扇動は、「人種差別の扇動」ではなく、人種差別的な暴力行為の扇動であるから、人種差別撤廃条約とは異なる。憎悪表現は、扇動、脅迫、侮辱以外のさまざまな人種差別的表現をさすものと考えられる。


⑤人種差別撤廃法要綱


 自由人権協会が、二〇〇六年二月に作成した。第一「目的」、第二「定義」、第三「一般的差別禁止」、第四「個別分野」、第五「公務員による差別または差別助長の禁止」、第六「罰則」、第七「国・地方公共団体・企業及び私人の責務」、第八「法律の広報・周知」、第九「法律の解釈の補足的手段としての国際人権法」、第一〇「救済手続きの考え方」から成る。第六「罰則」は「以下の行為が故意になされた場合は、人権委員会の告発を条件としてこれを罰する。(1)公務員が第五に違反して行った人種差別又は差別の助長、(2)前号以外の人種差別(ハラスメントを除く)」。人権委員会による告発は、第一〇の救済手続きによっては問題が解決しないこと、当該行為の悪質性、重大性、告発が人種差別撤廃のために必要なことを条件としている。


 第一に、公務員による人種差別又は人種差別の助長の犯罪化である。


 第二に、公務員以外の者による人種差別の犯罪化である。「ハラスメントを除く」としているのは、直接差別と間接差別を犯罪化する趣旨である。対象分野は、労働・公務就任、医療・社会保障、教育、住居、物品等の提供、団体加入である。非常に広範囲であり、犯罪成立要件はあいまいであるが、人権委員会による告発という条件によって制約している。


⑥外国籍住民との共生に向けて


 「移住労働者と連帯する全国ネットワーク」が、二〇〇六年六月に作成した。第一章「多民族・多文化共生の未来へ」、第二章「人権と共生に向けた法の整備」、第三章「働く権利・働く者の権利」、第四章「移住女性の権利」、第五章「家族と子どもの権利」、第六章「子どもの教育」、第七章「医療と社会保障」、第八章「地域自治と外国籍住民」、第九章「『難民鎖国』を打ち破るために」、第一〇章「収容と退去強制」、第一一章「裁判を受ける権利」、第一二章「人種差別・外国人差別をなくすために」から成る。非常に詳細な提言である。第二章で外国人人権法と人種差別撤廃法の制定を提言しているが、その内容は第一二章で取り扱われている。まず「国際人権諸条約を完全批准し、これを実施する。特に以下のことを早急に実行する。①人種差別撤廃条約の第四条ab項に対する留保を撤回し、同条約第一四条(個人・団体の通報制度)が求める宣言を行う」とする。次に、人種差別撤廃法の要綱として、人権と基本的自由の享受、国と地方自治体の責務、人種差別の定義、公権力・公務員による差別重視、犯罪化、被害者の救済と補償、を掲げる。第五項は「人種差別に対する罰則、人種主義の宣伝・扇動を刑事犯罪とする規定を含むこと」とする。


 第一に、人種差別の犯罪化と、宣伝・扇動の犯罪化である。人種差別の犯罪化は非常に広範囲に見える。


 第二に、罰則と刑事犯罪という表現を使い分けているところからすると、宣伝・扇動は刑事犯罪とするが、人種差別は行政犯として過料の対象とする趣旨かもしれない。


⑦日本における人権の法制度に関する提言


 「人権の法制度を提言する市民会議」が、二〇〇六年一二月に作成した。「日本の人権状況をめぐる現状認識」「提言にあたっての基本的視点」「提言の基本的枠組み」「わたしたちの提言」から成る。人権基本法、当事者差別禁止法の制定や、人権行政推進体制の確立などを提言する。「差別禁止規定は、一般的・抽象的な文言にとどまらず、差別禁止事由と差別行為を明記するとともに、意図的ではない差別、伝統的な文化や慣習に基づく差別、及びパターナリズムに根ざす差別の禁止も盛り込むできである」とする。


 当事者差別禁止法が、人種差別の犯罪化を含意するか否かは不明である。

以上の諸提案の特徴をまとめてみよう


 第一に、内野が紹介した諸案と比較すると、最近の議論は、人種差別撤廃条約や国際人権機関による勧告を踏まえているので、国際人権法を意識した提案となっている。総合的な外国人人権法や人種差別禁止法が提案されている。

第二に、それゆえ、公務員による差別の禁止と公務員以外の者による差別の禁止、差別禁止と煽動の禁止、個人に対する差別と団体に対する差別などが、比較的区別されて議論されている。

他方、第三に、犯罪化するための立法提案としては充分な考慮がなされていない。内野案のような具体的な条文化の試みもなされていない。


 第四に、差別を伴う暴力や差別的動機による暴力についての言及がない。諸外国においても一般的な立法例であるし、日本で立法提案する場合にも、もっとも抵抗が少ないはずなのに、まったく言及されていない。

四 今後の検討課題

 人種差別禁止法をつくる考えはNGOの間で共有されるようになってきたが、特定の人種差別行為について犯罪化するための立法提案に関しては、まだ十分な検討がなされていない。一般的な禁止規定にとどまっていたり、犯罪とされるべき実行行為の特定がなされていない。内野が紹介した諸案と最近の議論を比較しても、議論の水準があがったとはいえないのが実情である。理由は何であろうか。

 日本政府は、表現の自由を根拠に人種差別表現の刑事規制の困難を主張してきた。明確性の原則など罪刑法定原則も強調されてきた。

 しかし、市民的表現の自由をあたかも敵視しているかのごとき日本政府、罪刑法定原則を省みようとしない日本政府が、人種差別表現の場面に限って表現の自由や罪刑法定原則を殊更に強調するのは理解に苦しむ。

 欧米はもとより、多くの諸国でさまざまな形でヘイト・クライムや人種差別扇動の処罰が行われている。諸外国に表現の自由がないなどと言うことは考えられない。罪刑法定原則が国際的に無視されているとも考えられない。

 表現の自由を不当に侵害することなく、罪刑法定原則に反しない方法で、人種差別を刑事規制する方策はさまざまにあるはずだが、そのための情報も議論も十分に提供されていないように思われる。最近の諸提案は専門的法律的検討を経ていないため、立法提案としては不十分である。

立法事実、現実的な規制の必要性 (つまり放置しがたい差別的な表現によって被害が生じている事実)はすでに十分認められている。特に、在日朝鮮人や最近の来日外国人に対する差別的な表現には深刻なものもある。


 比較法的な検討 (各国の国内処罰立法及び適用状況の研究)は非常に手薄である。


 憲法論は、なお議論の余地はあるかもしれない。「人種差別表現の自由」を唱える憲法学の見直しが必要である。

特に集団侮辱罪について、言論・表現を処罰することは常に憲法違反であるかのような特異な主張もあるが、明らかな間違いである。刑法は侮辱罪や名誉毀損罪を定めている。個人の名誉、社会的評価等を保護する個人法益保護のための規定である。集団侮辱罪の提案は、一定の集団に対する侮辱も刑事規制しようという提案に過ぎない。したがって、立法事実が明確に提示され、犯罪成立要件の規定が少なくとも現行の侮辱罪の規定と同じ程度に明確にできていれば、処罰立法を作ることが憲法違反になることはない。集団侮辱罪の規定が犯罪規定として整備されているかどうか、明確かどうかが問題になる。

立法事実があり、人種差別犯罪を処罰することは人種差別撤廃条約の要請である。世界人権宣言や自由権規約にも合致する。憲法に違反しない処罰規定をつくることもできる。とすれば、今後何を検討するべきなのか。

第一に、比較法研究である。諸外国の人種差別犯罪の諸規定の研究が不可欠である(8)。特に重要なのは、差別表現を伴う暴力や差別的動機に基づく暴力の加重処罰規定の研究である。これらは多くの諸国で採用されているし、立法提案の中でももっとも抵抗が少ないと思われるからである。


 第二に、立法政策論として、処罰規定の妥当性、有効性についての検討である。というのも確信犯に対する処罰は、却って「勲章」になってしまう場合がある。犯罪抑止効がないばかりか、潜在的逆効果をもちかねない。それでも象徴的意味合いで差別禁止立法が必要との判断もありうるが、いずれにしても情報が少なすぎる。より制限的でない他の手段を尽くす検討も必要である。

第三に、日本社会の歴史的経験からして、警察・検察・裁判所にこうした権限を与えることに疑問も生じうる。警察権限の肥大化、恣意的適用の恐れがある。例えば、日本人と朝鮮人がトラブルとなりお互いに中傷発言や暴力を行った場合、警察・検察・裁判所が不公正な判断をしないという保障はない。加害者と被害者を取り違えることがありうる。立法趣旨に反した法適用のおそれは決して低くはない。

第四に、以上のことを踏まえて、具体的な人種差別禁止規定を検討する必要がある。各規定について、保護法益、実行行為の特定、成立要件、訴追条件、刑罰などを的確に定める必要がある。

(1)内野正幸『差別的表現』(有斐閣、一九九〇年)。なお、反差別国際運動日本委員会『人種差別撤廃条約と反差別の闘い』(解放出版社、一九九五年)、在日朝鮮人・人権セミナー編『在日朝鮮人と日本社会』(明石書店、一九九九年)。

(2)前田朗「問われた日本の人種差別――人種差別撤廃委員会日本政府報告書審査」『生活と人権』一二号(二〇〇一年)。

(3)E/CN.4/2006/16/Add.2. なお、前田朗「日本には人種差別がある――国連人権委員会が日本政府に勧告」『週刊金曜日』五九七号(二〇〇六年)。

(4)A/HRC/8/44/Add.1.

(5)前田朗「自由権規約委員会が日本政府に勧告」『統一評論』五一九号(二〇〇九年)。

(6)前田朗「人種差別撤廃NGOネットワーク」『無罪!』二〇〇六年九月号。

(7)外国人人権法連絡会編『外国人・民族的マイノリティ人権白書』(明石書店、二〇〇七年)。

(8)前田朗「ヘイト・クライム(憎悪犯罪)」『救援』四四八号~四五二号(二〇〇六年)、同「コリアン・ジェノサイドとは何か」『統一評論』五一七号(二〇〇八年)など。