Saturday, July 31, 2010

グランサコネ通信18

グランサコネ通信2010-18

2010年8月1日

前田 朗

オランダのハーグを経て、スイスのジュネーヴに来ています。8月2日から、国連欧州本部で国連人権理事会の諮問委員会が開催されます。同じ時期に人種差別撤廃委員会CERDも開催中。CERDは2月に日本政府報告書の審査を行いました。今会期は日本関連の話題はありません。

ハーグでは、国際刑事裁判所ICCと国際司法裁判所ICJを見てきました。ICJは前にも見たのですが、ICCは初めてです。つい先日、カンボジア特別法廷が初の判決を出しましたが、カンボジア特別法廷は「国際化された法廷(混合法廷、ハイブリッド法廷)」です。東ティモール法廷、シエラレオネ法廷も同じです。ニュルンベルク法廷、東京法廷、旧ユーゴ法廷、ルワンダ法廷は「アドホックな国際法廷」です。これらに対して、ICCは、地域限定のない初の国際刑事法廷です。侵略の罪、ジェノサイド、人道に対する罪、戦争犯罪について、普遍的管轄権を有します(前田朗『戦争犯罪論』青木書店、2000年、同『人道に対する罪』青木書店、2009年)。ICCは、スーダン、コンゴ民主共和国などについて捜査を始め、逮捕状の発付に関する決定を出していますが、実体判決はまだです。今年か来年に初の判決が出る見込みです。そのICCを見たことがなかったので、ちょっと寄って来ました。観光だけですが。

せっかくハーグなので、マウリッツハウス(王立美術館)にも寄って、レンブラント、ルーベンス、ホルバイン、ブリューゲル、フェルメールを満喫してきました。フェルメールの「真珠の少女(真珠の耳飾の少女、青いターバンの少女)」も一年ぶりに見ました。去年、東京でフェルメール展がありました。超人気のフェルメールですから連日大入りだったそうです。でも、そこにはお目当ての「真珠の少女」がありませんでした。その頃、ジュネーヴで公開されていたからです。ジュネーヴでもすごい人だかりでした。今回は、平日のマウリッツでゆっくり1時間も眺めてきました。実を言うと、以前来た時、貸し出し中で、なかったため見ることができませんでした。本来あるべき場所で見たのは初めてです。それにしてもフェルメールの不思議。青いターバンと一筆描きの真珠だけで、世界を魅了してしまう。背景はただの黒、特段の技巧もなしの小品にもかかわらず、信じがたい傑作。

ハーグは涼しくて風邪を引きそうになりました。ジュネーヴも素敵な青空、爽やかな涼風、東京の猛暑から逃れてご機嫌の日々です。

宇野重規『<私>時代のデモクラシー』(岩波新書、2010年)

 トクヴィル研究者による現代日本政治の理論的考察です。市民ではなく<私>が前面に出て、私らしさが求められる現在の、「答えなき時代のデモクラシー」を読み解く試み。<私らしさ>の追及は、他人と違う私でありながら、どこにでもいる普通の私に過ぎないという矛盾の中で、平等と不平等の空転のはざまに陥ります。「新しい個人主義」は、私の浮遊をもたらし、「五里夢中のデモクラシー」を招きます。こうした現状で、過程としてのデモクラシーをいかに実現するか。著者は東京大学社会科学研究所准教授で政治思想史、政治哲学専攻。「上限関係」という意味不明の言葉が用いられていると思ったら、単に「上下関係」の誤植。この出版社らしいと思うのは私だけ?

有馬哲夫『CIAと戦後日本--保守合同・北方領土・再軍備』(平凡社新書、2010年)

 公開された米CIA文書を駆使した戦後政治史。「軍隊なき占領は続いていた。」(オビより)。著者は、すでに日本テレビとCIA(新潮社)、『原発・正力・CIA』(新潮新書)、『昭和史を動かしたアメリカ情報機関』(平凡社新書)を出しているそうです。日本政府の文書管理がめちゃくちゃで、まともな公開がなされないばかりか、隠匿・改竄・処分が堂々と繰り返されてきたため、米文書の公開によって始めて明らかになることが多い戦後日本史。本書は、保守合同や再軍備過程の一断面を鮮やかに切り取って見せてくれます。オモテで語られてきた戦後史と、ウラの戦後史のあまりの落差にめまいを覚えながら読むしかありません。戦後民主主義の無惨さの根拠がよくわかります。

Tuesday, July 20, 2010

サハル・サバさん支援プロジェクト(3)

サハル・サバさんを大学院に

RAWA法律家育英基金にご協力を!!

みなさん

2005~07年度に、RAWA法律家育英基金の呼びかけをさせていただきました。おかげさまで2008年にサハル・サバさんは無事にイスラマバード芸術工科大学の法学コースを卒業できました。

アフガニスタンは2001年10月以来、アメリカによる戦争が続いています。米軍はイラクから撤退しましたが、タリバーン復活と称して、アフガンで殺戮戦を続けています。カルザイ政権は統治能力のないまま、米軍に支えられて続いていますが、アフガンには平和も民主主義も人権もありません。イスラム政治主義・原理主義のため、女性の権利は最悪の状況です。

こうした現実の中、RAWA(アフガニスタン女性革命協会)のメンバーは、学校づくり、医療、政治活動を続けています。

サハル・サバさんは、アフガン女性の権利獲得運動のために、法学を学びたいということで、2005~07年、日本の皆さんの支援のおかげで大学に通い、法学を学ぶことができました。

その後、サバさんは結婚、出産、育児のため勉強を中断していましたが、今年の秋からロンドン大学東洋アフリカ研究所の大学院への進学を希望しています。いくつもの奨学金に申請を出しましたが、カルザイ政権の推薦状がもらえないため、採用されませんでした。

そこで再び、呼びかけをさせていただきます。サバさんを大学院に送るためにご支援をお願いします。

<サハル・サバさんを大学院に>

進学希望先:ロンドン大学東洋アフリカ研究所大学院

入学予定時期:2010年9月

必要な学費:10,000 USドル (約90万円)

2010年度カンパ募集

1口:3000円 (可能な方は複数口お願いします)

郵便振替口座

口座番号:00160-0-648911

口座名義:前田 朗

この口座はRAWA法律家育英基金のために開設したものです。団体名義の口座開設に制約があったこと、海外送金の必要性などを考慮して、個人名義の口座としました。前回に引き続きこの口座へ振込みをお願いします。RAWA法律家育英基金専用の口座です。

サバさんが卒業したのはイスラマバード芸術工科大学です。法律と関係ないと思うかもしれませんが、そこのコースの中に法律コースもあって、そこで3学期勉強をしたわけです。ロンドン大学との提携があるので、イスラマバード芸術工科大学法律コースを卒業すれば、ロンドン大学法学部卒業に準じる資格が得られます。日本の大学にはあまりないのですが、イギリスは植民地帝国でしたから、世界各地の植民地につくった学校をロンドン大学やオックスフォードなどと提携させているわけです。おかげでサバさんはロンドン大学大学院に進む資格を持っています。

サハル・サバは活動家名です。RAWAメンバーは、これまでイスラム原理主義者による暗殺・襲撃の被害を受けてきたので本名は明かしていません。

<サハル・サバさんを大学院に>事務局

前田 朗

192-0992 東京都八王子市宇津貫町1556

東京造形大学内

TEL 042-637-8872(直通)

サハル・サバさん支援プロジェクト(2)

サハル・サバ「私の人生と将来の目標」

                     [*   ]は前田による補足

私は、1973年にアフガン北部の寒村に生まれました。1979年に村のモスクの中にある小学校に入りました。村にはちゃんとした学校がなかったのですが、モスクの中に小さい学校があって、父が無理してそこに入れてくれました。一族で初めて小学校に通った少女でした。一族で初めて大学に行った父が学生時代にラディカルな立場だったからです。当時アフガンの女の子は学校に行ってない子の方が圧倒的に多かったのですが、父が無理をして入れてくれたのです。子ども時代は平和で幸せでした。

しかし、ある日、事態が一変しました。1979年12月、ソ連軍の侵略が始まりました。このため、一家は難民としてパキスタンに逃れました。パキスタンとアフガニスタンの国境のトライバル・エリアにあった難民キャンプです。車やバス、その他で移動したらしいのですが、覚えているのは、ひたすら歩いたことだけです。それ以上のことは何も覚えていません。小学校1年生になったばかりなので、なぜ歩いているのか、どこへ向かっているのかも分からず、ともかく歩いていたのを覚えています。母の涙、テント、とても寒かったこと、疲れ、重い荷物。行き先はパキスタンの難民キャンプでした。建前は国連難民高等弁務官事務所の難民キャンプでしたが、実際はムジャヒディン(宗教的原理主義者)が支配する難民キャンプでした。

難民キャンプには学校がありましたが男の子専用で、女の子の学校はありませんでした。学校には行けませんし、音楽もテレビも禁止されていました。子どもは別として、女性たちにブルカが強制され、外出も制約されていて、ブルカ着用以外の外出はできません。もちろん外で働くこともできません。

そういう状況の中で、学校に行きたかったし、父も私を学校に行かせようと努力しましたが、すぐには無理でした。私は他の人とは違う何かになりたいと願っていました。でも、学校へ行けないので、自宅で祖母から教育をうけました。『クルアン(コーラン)』その他を祖母が読んで聞かせて、それを私は一所懸命勉強していました。ほとんど家の中にいました。あるいは家の近所で子どもたちどうしで遊んでいたのです。7歳の頃、私は学校に行きたいとは思っていたのですが、でも特に不満をもっていたわけではありません。弟や妹がいたのでその世話をしなければなりません。父は、都会に行けば学校に行ける、子どもに与えられるのは教育だけだ、お金も宝石も与えられないが、教育だけは、と言っていました。

父は子どもを学校にいかせたがったので、色々手をつくしてさがしていました。しばらくはいけなかったのですが、私も学校には行きたいなと思っていたけれど、祖母から教わる程度でした。

1980年になって、父がアフガニスタン女性革命協会(RAWA)の秘密の(非公認の)学校をみつけてきました。RAWAとコンタクトがとれたので、RAWAの学校に通うことになりました。私だけでなく兄弟も行くことになりました。宗教的原理主義の学校「マドラサ」には行きたくありませんでした。RAWAの学校は数百マイルも離れた別のキャンプにあって、遠いので歩いていけません。子どもが行ける距離ではなかったので、子どもは、私も弟・妹も、みんなRAWAの学校(寮)へ行くことになりました。学校に行きたいという夢が現実になりました。容易なことではなく、両親の自己犠牲によるものです。原理主義者たちから脅迫されたにもかかわらず、数年間、私たちを学校に行かせてくれました。父はずいぶん非難されたようです。娘を別の難民キャンプの学校に行かせてると知られて、非難されました。父の兄弟である叔父が猛烈に反対していました。私たちは離れた学校にいっていたので詳しいことは分からないけれど、父はずいぶん苦労したようです。当時はまだ、女の子が教育を受けるのは例外的なことでした。幼いうちから結婚させられて学校には行けないのが当たり前でした。

RAWAの秘密学校に行って、私の人生は激変しました。とても明るくて嬉しかったのです。ソ連批判や原理主義批判を一所懸命勉強しました。

 後にRAWAの活動家になって、原理主義者たちから襲撃される危険性があって本名を隠すようになりましたが、当時はそんなことは考えず楽しく一所懸命勉強しました。RAWAは民主主義と人権を教えてくれました。原理主義者の学校と違って、安全で、楽しい生活でした。

教わったばかりのことを、最初は弟、妹に教えていました。けれどもそれ以外にも人に教えるのが好きだったので、まわりに教えていました。先生から教わると幼い子をつかまえて一所懸命教えていました。

1987年にミーナが殺されました。1989年、RAWAの学校――ワタンスクールはハイスクールですが、ここを卒業して最初はそこの先生になり、後輩たちに教えていました。ペシャワルの近くの難民キャンプの学校で、人権や健康について教えていました。やがてRAWAの活動家になりました。他のキャンプでも教えましたし、デモをしたり、ワークショップをしました。組織の代表としてメディアや集会に出たり、海外に出るようになりました。

原理主義者による攻撃があるため、「サハル・サバ(明日の希望)」という活動家名を選んで活動しました。しばらくしたところ、流れてきた紙にタリバンの「暗殺リスト」が載っていました。見ると、私の名前が載っていました。しかし、驚きはしませんでした。あ、やはり載っていると思いました。

このため私はカブール大学にもその他の大学にも行くことができませんでした。もっと教育を受ければ、もっとよく闘えると思うようになりました。

 [* アフガニスタン国際戦犯民衆法廷(ICTA)を2003年に行なった時期に私たち日本の運動体が、サバさんとコンタクトができた訳です。アフガン法廷は2002年の2月に最初の呼びかけがあり、その3月にパキスタンに行って調査を始め、動き出したのですが、公聴会は2002年12月の東京が最初で、次に2003年1月に大阪公聴会をやっています。東京公聴会と大阪公聴会の間にパキスタンに行って、RAWAに連絡をしてラワルピンディで会ったのがサバさんでした。神戸の兵庫公聴会に彼女が来てくれて、個人名は出さずに組織(RAWA)として共同代表になってもらった訳です。その夏に『アフガニスタン女性の闘い』という本を翻訳・編集して出版をしました。これをサバさんに渡したときに、タイトルの説明をしました。私が最初につけたタイトルは「アフガニスタン女性の苦悩」というタイトルだったのですけど、何かおかしいなと悩んで、結局、『アフガニスタン女性の闘い』というタイトルに変えました。サバさんに本を渡して、こういうタイトルをつけました、と話したら、とたんに泣き出しました。彼女が言ったのが、「そういうことを言ってくれたのは初めてだ」と。今までどこへ行っても、アフガンのこと訴えると、「大変ですね悲劇の中で苦しんで」と同情してもらえる。もちろん訴えに行って同情してもらうのは、それはそれで当たり前ですが、でもいつも「そんな中でRAWAは闘っているんだ」、そう言いたかった、それが相手の側から「アフガニスタン女性の闘い」と言ってもらったのは初めてだ、ということでした。その後、RAWAの本、『声なき者の声』の日本語版をつくった訳ですが、2004年のアフガン法廷が終わった段階でイスラマバードでサバさんと会った時に、事前にメールでも相談はしてましたが、大学に行きたいということを彼女が言い出したわけです]

 私は、高校を卒業して活動家になったので、大学には行くことができませんでした。今はRAWAの若手メンバーの中で大学に行ったメンバーが増えてきて、大学教育を受けた若い子たちが頑張っています。それがとてもよく分かります。それを見ていて、自分ももっと勉強したい、と思いました。もう30歳を過ぎて、これ以上遅らせたくないので、何とかしたいと思いました。アフガン女性の権利を獲得するために、その運動のために、私は法学をやりたいと考えました。アフガン女性や子どものために働くのに女性の権利が重要なので、法学を勉強したい。これまで世界各地へ行って、弁護士の人がNGOの中で活躍しているのを見たり、アフガン法廷のときもイギリス・アメリカ・日本の法律家が一所懸命やってくれているのを見たので、私も法律を勉強したいと思いました。

日本からの援助のおかげで、私はイスラマバード芸術工科大学に通い、無事卒業する事ができました。

RAWAの活動があるので、アフガンの女性のために活動し続けました。世界各地を廻ることも多く、授業を休まざるをえないこともあったので、最後はもう無理だと思って悩んでたんですが、先生から、合格したよ、と伝えられてとても嬉しかったのを覚えています。ついに私は「法と人権の世界」に入った、そのときは興奮しました。エキサイティングでした。法と人権について学んだおかげで私の地平線(視野)がずっと広くなりました。

私は、15年間の活動とそれから3年間の法学の勉強を基にして、さらに勉強したいと考えています。アフガニスタン人口の半分の女性たちが社会的な制度で保障されていません。人権もないし、文字も読めない最悪な状況です。ですから、人権、紛争、正義(司法)について学びたいのです。

また、以前アフガン法廷(ICTA)をやりましたが、それはアメリカの責任を追求しただけで、ムジャヒディンやタリバンなど原理主義者のの責任追及はできていません。それもやりたいと思います。

2008年に、イタリアのNGOの協力で、さらに「正義を求めるアフガン女性協会」とも協力して、戦争犯罪被害者の女性たちの研修をやったことがあります。そのときに戦争犯罪とは何か、被害をうけた女性の権利擁護と被害回復――そういうことをやるようになって、それはやはり法学を勉強した成果として、自分ができるようになってきたことがわかりました。やってみて良かった。それから女性の社会経済参加について運動方針をつくるときに、勉強したことが役に立つことが自分なりに分かりました。

いま私は大学院に行きたいと希望しています。卒業後にすぐに行きたかったのですが、間が少しあきました。

[* 実は彼女は卒業後に結婚しました。相手はパキスタン人のジャーナリストです。パートナーの仕事で今スウェーデンのストックホルムにいっています。そこで子どもを産んで子育てをしていた。これがこの1年間の状況です。パートナーは仲間と一緒にミニ通信社、独立のジャーナリストが集まったグループで、ニュース配信をやっていてウェブサイトも持っています。その中にサバさんのページも1ページだけあります。何も情報は掲載されていませんけれども、サハル・サバもこのメンバーですよ、というのが1ページだけ入っています。この間は子育てをやっていたということです。]

できれば、そろそろ大学院へ行きたいと思います。大学院に行って、それからアフガンに帰って紛争解決や司法の問題をやりたいのです。カルザイ政権は頼りないけど、政権の中に女性問題を扱うセクションもできています。以前と比べれば大幅な前進なので、そういうところとも協力できるだろうし、暴力や差別と闘うためにものを書いたり、ワークショップをひらいたり、色んなことができるのではないかと思います。

また、パートナーがジャーナリストなので、最近メディアの問題もよく考えます。アフガンには12のテレビ、100のラジオ、300の新聞雑誌があります。みんなバラバラに、それぞれのセクトごとにやっているのです。でも、どのメディアも女性に対する搾取しか考えていない。女性を抑圧し暴力的な現状のもとでできているので原理主義者がメディアを支配しているからそこも変えていかなければなりません。

ロンドン大学東洋アフリカ研究所に大学院があるので、私は、そこに行きたいと願っています。マスターの課程を経て、人権と法について深く学んで、アフガニスタンにおいて民主主義と女性の人権を実現するのに役立てたいと思います。

ヨーロッパには多くの大学があり、多くの奨学金制度があります。問い合わせをして、申請を出しました。そのときに「私の人生と将来の目標」という文章――自分の経歴を文章にして、申請を出しました。しかし、ひとつも採用されませんでした。

ロンドン大学の大学院に今年の秋から行きたいのです。9月からのコースですけど、申し込めば受理されることは確認しました。もう仮の手続きをして受理されることになっています。問題は学費だけです。

[* 国連もヨーロッパ諸国も現在カルザイ政権を支援しているので、奨学金はいくつかあるようですが、カルザイ政権の推薦状がもらえれば奨学金がもらえるわけです。アフガン男性であろうが女性であろうが奨学金がもらえる。ところが、サバさんは推薦状をもらえません。RAWAなのでちょっと無理です。いくつか申請したのですがダメで、今年の3月に前田のところにメール連絡があり、大変申し訳ない、前にあれだけお世話になったのでとても言いにくいけど、他に頼める人がもういないんです、ということです]

サハル・サバさん支援プロジェクト(1)

2010年1月

東京造形大学における授業の記録

冒頭に映像『RAWA アフガン女性の闇に光を』(取材構成:川崎けい子、オフィススリーウェイ、25分)を上映し、続いて以下の話をした。

1週前に、国連アフガン支援団報告書『沈黙は暴力:アフガンにおける女性虐待』(2009年)を紹介した。この2回でセットの授業内容。

ミーナの娘たち

――闘うアフガニスタン女性

      

RAWAと私たち

RAWAに関する映像を見てもらいました。RAWAとは、アフガニスタン女性革命協会という名前です。この30、戦乱にあえでいて世界一悲惨な状況にある最も苦しい国がアフガニスタンです。かつてはソ連に侵略されそのあとムジャヒディンが内戦をやるそのあとタリバンになってもっとひどくなるその後アメリカが猛烈な攻撃をしかけて現在に至っているわけです。そういう悲惨な状況の中で、女性たちが苦しんでいるわけです

前回女性たちがどんな被害を受けていたかを詳しくやりました。今日はその中でってきたミーナとRAWAの話をします。最初に「RAWAとたちという書き方をしています。今の映像もそうなんですが日本にはRAWAあるいはアフガンの女性たちと連携しながら活動している人たちがいます。その大きな契機となったのが911の後のアフガン戦争です。

200111日にあの事件が起きたときに、事件の主たる犯人とされた人たちはサウジアラビア人とか、アラブ首長国などの人たちです。ところがブッシュ政権はなぜかアフガニスタンに攻撃をしかけたわけです。911事件と関係ないアフガニスタンが目標になりました。それはアルカイダ、ビン・ラディンがいるという話で、そからビン・ラディンは世界一有名になって未だにアメリカは「ビン・ラディンはどこかとやっているわけです。果たしているのかいないのか分からない人物です。2001年から2002年にかけてアフガニスタンは世界中の注目を浴びていました。

ビン・ラディンとミーナは同じ年齢だそうです。アフガニスタンというとビン・ラディンを思い出す人が多いのですが、ビン・ラディンはサウジアラビア人です。ミーナがアフガン人です。

9.11が一つの画期でしたが、実はそれ以にもう20数年間戦争で悲惨な状況になっていてカブールは壊滅的な状態になっていたのですが、そこにさらに爆弾の嵐が降りそそぐ。何万という人々が難民となって逃れる女性や子どもたちが死んでいくそういう状況が起きていたわけです。

RAWAのメンバーが日本に来たのが、今の映像の終わりのほうのものです。2000年前後から何人かのメンバーが来日しています。2003年日本でアフガニスタン国際戦犯民衆法廷ICという運動が行われました。アフガニスタンにおいて米軍が民間人を爆撃して殺しているこれは戦争犯罪だ。ということで、日本の平和運動が始めたのがICAです。その時に再度RAWAのメンバーを日本にお招きして、RAWAはICAの共同代表になりました。それ以来、このからRAWAと日本の平和運動が常に連絡を取り合ううになっわけです。

そのに出した本が『アフガニスタン女性の闘い』という本です。こがそれなんですが、『アフガニスタン女性の闘い――自由と平和を求めて』ということで2003年に出版しました。中身はミーナの生涯やRAWAのアピールを収録しています。この本のタイトルをつけるときに、最初は、アフガニスタン女性の抱えている問題状況、世界より悲惨な状況なのでアフガン女性の苦しみとか、貧困にあえぐアフガン女性、殺されたりレイプされたりしているアフガン女性のことをどうタイトルをつけようかと思ったんですが、RAWAの存在を強調して『アフガニスタン女性の闘い』というタイトルにしました。

このタイトルを伝えたときにRAWAのメンバーが突然泣き出しました。「こういうふうに言ってくれたのは世界で初めてだ」といってました。世界中どこでもアフガン女性は貧困戦争内戦、そして難民で苦しくて大変ですね可哀想ですねといつも同情される。どこへっても同情の言葉。それはそれでありがたいけれども、いつもそう言われてしまう。でもアフガン女性はいつもってきたと、それがRAWAなんだということです。このタイトルをつけて喜んだのが年前です。

そのあとRAWAが出版し写真集『声の声』というのを、全く同じスタイルで同じ写真同じ体裁で日本語版を出版しました。さら2005年に『ミーナ』という本を出しました。これはアメリカ人のジャーナリストのメロディ・チャベスさんという人がRAWAの全面協力の下に取材して、書いたミーナの伝記です。RAWAを作ったミーナの伝記はこれしかありません。パシュトゥ語でもダ語でもRAWAの伝記は出ていないので、初めて出たのが英語のチャベスさんの『ミーナ』という伝記です。それを日本で翻訳をして出したのがこれです。チャスさんと面識がないのですが、調べてチャスさんにEメールで「翻訳したいので宜しくと伝えたら向こうもびっくりしてましたけれど喜んで」とOKをもらいました。原著の印税はすべてRAWAに寄付するそうです。翻訳の印税ももちろんRAWAに贈りました。サブタイトルは、日本側で「立ち上がるアフガニスタン女性」とつけました。

こうした仕事に関わった人などを含めて、現在、RAWAと連帯する会という名前になって活動をしています。形式的にはぼく共同代表のひとりという形になっていますが、主要なメンバーは日本の女性たちです。RAWAは女性団体ですから日本側も運動に直接出てくる、中心メンバーは女性たちです。ぼくは「弾よけ」です。

一年おきくらいに、RAWAのメンバーを日本に呼んでスピーキングツアー、トークショーをします。東京大阪那覇とかあちこち周ってRAWAのメンバーに講演会をやってもらう。

これが結構たいへんです。というのは、RAWAはアフガニスタンでは非合法団体です。原理主義集団に狙われて怪我したり、場合によっては殺されてしまうそういう状況にいますパキスタンでも難民状態です。自分の故郷に出入りはしていますが、パキスタンに難民として来て暮らしている。そういう状況なので、日本に呼ぶのが大変なんです。日本政府は、よくテレビのニュースで見るかと思いますが、外国人を追い出す、難民を追い出すそういう国なんです。ヨーロッパ諸国だったらそんなことはないんですけど、日本は難民は次々と追い出してしまう。そういう国なので、RAWAのメンバーはもともと難民ですから、すでに難民である人が日本にやってくるだけでも大変で、以前は、外務省といろいろ交渉して、この人は宣伝活動のために日本にやってきてちゃんとパキスタンに帰ります日本に居つく恐れはありませんのでちゃんとこのスケジュール、このフライトで帰りますよということで、日本に入国を認めてもらって入国をするということになっていました

アフガン小史――文明の十字路

ミーナとRAWAの歩みを簡単にまとめますが、まずレジュメの2に「アフガンの近代小史」と書いてあります。普段アフガニスタンなんて遠いので中々分かりにくいかも知れませんが、インドの北西部にパキスタンがあって、さらにその北西にアフガニスタンがあります。アフガニスタンの西側はイランですさらにその西がイラクになります。ですからイラクとアフガニスタンはニュースではしょっちゅう出てるんですが、イランの両側にあります。

この地域は最も古い文明の地域でもあります。ですから歴史の世界ではアフガニスタンのことを「文明の十字路」といういいかたをします。どういう文明かというと、はインドに成立した文明ですね。たとえばインダス川にインドの文明があったわけですが、そのインダス川の側はパキスタン人、西側はパシュトゥ人が住んでいる場所です。アフガンの主要民族はパッシュトゥなんですが、この人たちがいるところです。それから時期によってはギリシャからやってきます。アレクサンダー大王の軍隊もアフガンまで来てますから、ギリシャ文明がこの地域にやってくる。それから当然仏教もアフガンに流れているわけです。それがのちにイスラムに変わって仏教が消えてしまうんですけれども、このためにアフガン各地から仏教の遺跡、ギリシャ文明の影響を受けた遺跡、それから北の中央アジア例えばモンゴルのフビライ・ハンも攻めてきてますから、一時期はモンゴルに占領されている。ですからいろんな大帝国がアフガンにやってきては支配をし、そこを横切っていく。そのために文明の十字路と呼ばれています。

文明の十字路ということはいつも侵略され支配され破壊されている、そういう破壊の十字路でもあるんです。新しい文明が押し寄せてくると、それまでの文明が破壊される、そういうことを歴史上何度も繰り返してきた事実があります

そこが近代になってイギリスに攻撃されます。レジュメの2のところに1,2,3と回のイギリスアフガン戦争をかいてあります。イギリスはインドを植民地にしました。現在、イギリスがインドを植民地にした」言いますが、今のインドだけではないんです。インド、パキスタン、バングラデシュ現在のこの3つの地域が丸ごとイギリスの植民地だったわけです。東側にバングラデシュで、中央がインド大陸、西北にパキスタンで、これ全部がイギリスの植民地になっています。東北方面には中国ですね。それでアフガニスタンはパキスタンの西側にある。

インド、バングラデシュ、パキスタンを植民地にしたイギリス。しかし、北にはロシアという大帝国があります。イギリス対ロシアの勢力争いでイギリスはアフガニスタンを押さえようということで何度も攻めてきて戦争を繰り返したです。

そういう中でラライと書いてありますが、一番厳しい戦いだったときに女性のマラライが男性たちを激励して戦いイギリス軍を押し返したということで、このとき以来アフガニスタン女性の象徴はマラライという名前になります。現在もアフガンでマラライ・ジョヤという女性が活躍しています。

RAWAの設立趣旨、RAWAの学校の趣旨もそうですけれども、マラライというのはアフガンにおいては解放のため自由のために戦う女性の象徴的な名前です。ミーナとマラライ両方ともですが、そういうふうになります。

三度の戦争に勝ち抜いたおかげで、1921イギリスがようやくあきらめ、アフガニスタンが完全独立することになります。アマヌーという国王が社会政治の近代化を始めて、このときには女性の教育を促進する、そういうことが行われています。1920年代この時期だけアフガンは女性に自由があった、そういう最初の時期です。

そのあとザヒール・シャーという王様が穏健な西欧流統治を行って、かなり平穏な日々をすごしています。ザヒール・シャーの時代にアフガンは一応平和な時代を過ごしたということになります。間に第一次大戦が入ります。第一次大戦が行われていたのですがアフガニスタンはそれに関わっていないということになります。ヨーロッパ諸国も日本も戦争やってる。日本は太平洋に出たりする。当時のドイツの植民地を狙ったわけです。そういうところまで攻撃をしている。当時日本軍はここまできているわけですね。アジア大陸も、各地で、ヨーロッパ戦略による戦争です。第一次大戦の戦場は欧州が中心ですが、アジアでも若干の戦争が起きています。ところがアフガンだけ第一次大戦に巻き込まれずにすんだ。第二次大戦もそうです。第二次大戦では、日本がインドシナに進出していますから、タイ、マレーシア、シンガポール、インドネシア、ビルマなど各地が戦場になっています。しかし、アフガンにとってはかろうじて平和な時期だった。

ところがその後、ソ連との関係でいろいろ問題がおきます。政治が二転三転するんですがソ連に近づいたり、あるいはソ連とはやっぱり距離をおく。つまり、第二次大戦後の東西対立のなかで東にくか西にくか、これにアフガンは揺れ動いていくことになります。そのあたりのことがレジュメの2から3にかけていろいろ書いてありますがとばします。

ミーナの時代

1957年にミーナが生まれています。カブールの西のほうの貧しい地域に生まれたそうですが、お父さんは地図を作る仕事をしていました。政府の役人の一人で下級官吏で地図を作る仕事をしていた人物だそうです。ごく普通の家庭に育って勉強していたんですが中学生のときに、マラライ・リセという中学校に入り、そこでフランス語の先生に出会います。その先生がヨーロッパの女性たちがどうやって自由を手にしてきたか、そういうことをいろいろ教えてくれる人で、それで私もと考えて自分でいろいろ勉強することになったというのが中学生時代のことです。彼女の少女時代というのは1960年代のことで、60年代半ばから70年にかけて、アフガン史では2度目の女性の自由の時期になります。

1959、ダウード首相などがべールを被っていない妻たちとともに公衆の場に現れるということが起きます。当時としては衝撃的だったわけです。それまでは女性は素顔をさらすことは許されない、ベールを被って出てくる。ところがダウード首相はそういうことはやめて、女性も素顔で歩けるようにしようということで、首相その他の大臣が率先して努力したということです。このためにこれ以後ベールが選択的になります。被ってもいいし、被らなくてもいい、ということに変わります。それから大学に女性が入れるようになる。女性が外で働くことができるようになる。1960年代にアフガン女性たちが社会に出て行くことになります。さら1964女性が新憲法規定に参加して女性に投票権を要求する。1964年に第回国民投票が実施されます。このときに男女ともに投票ということになります。今、第回といいましたけれども、アフガニスタンの歴史で国民投票が行われたのはこれが最初で最後でした。アフガンが民主化して女性も選挙権を手にして、第回国民投票。これが最後になるわけです。

1973年に革命がおきます。ウードがソ連と手を組んで王様を追い出します。ザヒール・シャーの王政を転覆します。王様はイタリアに逃げました。その後アフガンが悲惨なことになっているわけです。ちなみにこのザヒール・シャーはタリバンが崩壊した後にアフガンに帰って、再び王様になりそして引退するというふうになっています。29年間イタリアに逃げていたというかたちになります。

1973年まで、1959年から73年までがアフガンの女性が自由へ向かって歩いていた時期です。1920年代と1960年代このときだけアフガン女性は自由だった。ですから60年代の記録をみるとカブールの街中をミニスカートの女性が歩いていた。今はブルカを被らないと命に関わるそういう状況ですけれども、60年代半ばはミニスカートの女性が歩いていたのです。では全く想像がつかない。そういう状況になっていたみたいです。

そのもっとも自由な時代に、ミーナは中学校高校で勉強するようになっていました。小学校から中学校ですかね。1976ミーナはカブール大学に入学します。カブール大学はカブールの西側にある総合大学です。しかし彼女は残念ながら卒業することができません。学生の間に、一つRAWAを作って活動を始めました。秘密結社RAWAの前身です。女性の権利のために闘う運動を始めたので大学に通ことができなくなりました。もうつは結婚したことです。20歳で結婚したので、パートナーの仕事も手伝う。パートナーも政治活動をやっていたので大学は卒業できなくなります。

私は目覚めた女性

ミーナの詩にあるように「私は目覚めた女性ということですが、77年にミーナはRAWAアフガニスタン女性革命協会を作ります。高校の先生とのやり取りの中で将来大学に入ったらこういうことをやるんだという思いは持っていたようなのですが、実際大学に入ってから苦労してつくることになります。表に出すことはできません。女性が大学に通うようになったとは言っても原理主義者がいる社会主義者もいるアフガンの国内情勢は非常に厳しい。ですからRAWAは秘密で作った組織ですビラを作り、女性たちの間にそっとビラをまいたり、そういうことをしながら徐々に徐々に広めていく。そういう中で当局、政府当局からも大学当局からも見つからないように、男性に見つからないように徐々に連絡網を作って女性たちの権利、自由ということを主張し始めるようになる。 

ところそうやって始めたとたんに、79年にアメリカ大使誘拐殺害事件のことでとても厳しいことになり、アメリカが出てくるかというのに対して、逆にソ連軍が攻めてくる。それが197912月のソ連軍のアフガン侵略ということです。

このソ連軍アフガン侵略はもちろん世界中に大々的に報道されてますけども、日本ではあまり大きく報道されていない。当時のことを思い起こしてみると、そのときに日本で話題になったのは、ソ連がアフガンに侵略したため、当時予定されていたソ連のモスクワにおけるオリンピック。このモスクワオリンピックに日本は代表団を派遣しない、棄権するということが行われているわけです。モスクワオリンピックはボイコットとなったわけですが、その理由はソ連がアフガニスタンを攻撃していた、そういう理由でアメリカや日本がオリンピックをボイコットした。そのことは良く覚えているんですが、しかし当時アフガンはどうなっているのか、ソ連はアフガンで一体何をやっているのか、カブールはどうなっているのかそれは日本のメディアでもさして注目されなかったし、ぼくも当時そういう関心を持っていませんでした。それを後になって思い出しました。実際には熾烈な戦いが始まっていたわけです。

ちょうどお隣のイランでもイラン革命ということで、アメリカとソ連の狭間でイランではイスラム革命に猛烈に叫ばれてたし、イスラムがこから政治化してきたわけです。原理主義といいますが、向こうでは原理主義とは言いません。原理主義という言葉はアメリカがイスラムに対して批判するときにイスラム原理主義という言葉を作ったのです。なぜこの原理主義という言葉ができたのかというと、もともとアメリカの中のキリスト教原理主義が、まあブッシュ大統領がまさにキリスト教原理主義ですが、アメリカの中で極端なキリスト教で、特にプロテスタントの過激なグループ原理主義と言われていたわけです。穏健なキリスト教と極端な原理主義のキリスト教。これがアメリカの中で争いをやっている。そこからイスラムを見るとイスラムの中にも極端な原理主義があるということでイスラム原理主義という言葉がつくられました。

今、イランやイラクの人たちはポリティカル・イスラムという言い方をします。イスラム原理主義ではなくて宗教のイスラムが政治に口を出す。これが問題だ。ということで政治的イスラムというんですが、その発信源がこのイランとイラクなんですね。特にイランのホメイニ革命それからイランイスラム革命でイスラム世界を全部おさえて、アメリカやヨーロッパ諸国を追い出し、イスラムの世界を作るんだという原理主義になるわけです。

お隣のアフガンにもこれがなだれ込んでくるわけす。アフガンの中に政治的イスラムが入ってくることになります。ですからミーナが古い考え方のアフガンで、なおかつイスラムで女性が抑圧されているその中で、女性解放の運動を始めたとたんに戦争になってしまった。しかもイスラムがどんどん過激になっている。本来穏健なイスラムもどんどん過激になっている。非常にタイミングが悪いことになっていくわけです。

ソ連が攻めてきたときにはどういうことになるのかというと、ソ連対ムジャヒディンの戦いになるわけですね。二転三転するので意味が分からなくなるかもしれませんが、1979年から92年までアフガニスタンを侵略して人民を殺していたのは旧ソ連軍です。今のロシアにあたりますが、社会主義時代のソ連です。ソ連は社会主義ですね。それに抵抗していた、戦っていたのは主としてムジャヒディンということになります。このムジャヒディンというのは聖戦士と訳されていたわけですね。正確な訳ではないと言われていますが、当時はこういうふうに訳されていました。アフガニスタン解放のために侵略してきたソ連と戦う、これがムジャヒディンということで国を守るための英雄となっていくわけです。

ところが話はそう単純ではなくて、このムジャヒディンたちは2種類の援助をもらう。つはパキスタンの援助で、その背後にアメリカがいるわけです。アメリカがパキスタンを通じてムジャヒディンに支援をする。武器を提供し、お金を提供し、これをやっていたわけです。ですからこの時代ムジャヒディンは、たとえばお父さんのブッシュ大統領、ついこの間の大統領だったブッシュ大統領のお父さん、昔やっぱり大統領だったんですが、そのブッシュ大統領がこのムジャヒディンたちを自由の戦士だ!といって大統領官邸にいてます。息子ブッシュ大統領はムジャヒディンはテロリストだ、テロリストを叩け」といって必死になって戦争やってたわけです。でもそのテロリストたちのは実は父ブッシュが一懸命お金つぎ込んで戦えとやっていたわけです。ソ連と戦うムジャヒディンは「自由の戦士」です。アメリカの言いなりになっているから「自由の戦士」ということになるんですね。ところが逆になるとムジャヒディンはアメリカにも抵抗する。そうするとテロリストと呼ぶことになるんです。ですから言葉に注意しなきゃいけないのはテロリストというときに、誰が誰をなぜテロリストと呼んでいるのか、それが一番重要ですね。

ところが日本政府もマスコミもアメリカがやってることなら、そのままムジャヒディンはテロリスト。でも20年前アメリカはムジャヒディンを自由戦士、すばらしい仲間といってお金をつぎ込んでいた。状況によって立場がコロコロ変わるんですね。前のことには責任を持たない。

連はどうなったかというとこの戦争で、アメリカのベトナム戦争と同じ泥沼にはまることになります。結局92年にソ連は敗れて撤退することになります。89年から92年までソ連軍が徐々に撤退していくと、それは年表の後のほうに出てくることになります。そういう中、RAWAは非暴力で平和なアフガニスタンを作ろう、そういう立場をとってますが同時にやはり国を守っているムジャヒディンを支援しています。非暴力がまだ徹底していなかったのかもしれません。

そういう中で80年にRAWAの雑誌女たちの声」というのを発表します。さらに81年ミーナはヨーロッパに出かけていきます。フランスやベルギーでアフガンの状況を報告する。世界に無視されてるけれどもアフガンでは今も戦争が続いている。その中で女性たちがどういう風になっているのか。どうやってっているのかということで演説をして回るわけです。これは後のミーナの命を縮めることになったといわれてます。パリやブリュッセルで講演したときの写真。この写真によってミーナの顔がばれるわけです。ムジャヒディンたちにも政府にも、あの秘密組織、非合法のRAWAの代表、ミーナの写真が手に入った。この写真で顔が知られてしまった。それが後に狙われるというきっかけになってくわけです。

ミーナの死

1982年にミーナは一端アフガンに戻りますが顔がわかってしまったのでもうアフガンには居られないということでパキスタンに難民として逃れます。それはもうカブールに戻って数日後にもう原理主義者たちがミーナを探してる。そういうのがわかるんですね。あちこちでミーナを探して男たちが必死の形相で街中を動いてる。これは危ないということで直ちにパキスタンに逃げることになったわけです。

それ以来、82年以来、ミーナ時々アフガンにこっそり戻ったりしてたそうですが基本的にはパキスタンのクエッタとペシャワールで活動をすることになります。82年から86年にかけてラワの学校を作ったり孤児院を作ったり、そしてマラライ病院を作ったりする。そういう形で活動していきます。

RAWAの組織というのは非合法のために秘密にしてるもですから中々わかりにくいんですけども、現在は集団指導体制をとっているんですが、当時はミーナを頂点にいくつかのグループに分けてそのグループごとに連絡を取りながら活動をしていた。クエッタのグループペシャワールに居るグループブールに居るグループ、それぞれ連絡を取りながら活動をしていたということになります。

ところが87年2月4日、ミーナが失踪します。パートナーもミーナも行方不明になる。忽然と姿を消して一体どこに行ったのかわからない。そういう状態になります。RAWAの他の残されたメンバーたちは必死に連絡取り合って探すんですが、全く情報がい。数ヶ月全く情報がくてわかりませんでした。

後々よやくわかったのがパキタン警察がムジャヒディンの一派、ヘルマティアル派というんですが、ムジャヒディンの一派の男たち3人を捕まえます。その3人の話によるとこの3人の男たち、アフガン人のムジャヒディン出身の戦士たちがミーナとその夫が気に入らないので、許せないということで拉致して殺して井戸に投げ込んだ。そういう事件であったということがパキシタン警察の手によって明らかになった。殺されたのは行方不明になったその日、2月4日に殺されていた。数ヵ月後にわかったということになります。

RAWAの組織

設立者で中心人物のミーナが亡くなってしまったということで、RAWAは大変な危機に陥るわけですが、こから組織を作り変えることになります。集団指導体制というのを作ります。アフガンの中で言うと、RAWAはソ連からも狙われてるし、ムジャヒディンからも狙われている。その後の状況も回りみんな敵だらけなわけです。政府からも狙われてるし非合法組織である。1人のミーナが指導者で、RAWA全体のことはミーナしか知らなかった。みんな自分の持ち場のことしか知らない。ミーナだけが全部知ってる。そのミーナが殺されたということで大ピンチになって、それを反省するために集団指導体制というものを作ります。1人だけではなくて委員会、中央委員会なんですがこれを作って数人の人間で持ち回りでやろう。RAWAという組織の意思決定は中央委員会のメンバーたち、何人いるかも公表してません。誰であるのかも外には公表してません。

外国人の男で、RAWAと付き合ってて、RAWAの本を3冊も出したのは、たぶんぼくくらいのものだと思いますが、そのぼくでもラワの中央委員メンバーは知りません。長年付き合っても中央委員のメンバーは極秘ということで誰であるのか知りません。多分会ったことあるんだと思うんですが、会った人の何人かは中央委員の可能性はあるんですけど、それは教えてくれません。普段は本名も教えてくれません。ただ日本に来るときには日本に入国しなければいけませんから日本政府のビザを取る必要があるので、そのときには本名を出すんですけども、それはRAWAと連帯する会が手続きをして外務省に出さなければいけないんですが、でもその一つ一つの名前も僕も覚えてません。何人かの本名は知っていましたが、忘れました。覚えないことにしています。アフガンの中では彼女たちは全部本名を隠して、活動家名で動いています。原理主義者の暗殺リストに名前がのりますから、本名を出せません。さっきのビデオに出てたのもあれは本名ではありません。本名出すと本人が狙われるだけじゃなくて下手をすると家族も狙われるということで隠しながら活動している。時々ばれたりはするんですがそういうやり方をしています。

中央委員会の下にいくつかの委員会を作ります。教育担当の委員会とか、企業担当の委員会、就労労働担当の委員会、広報活動の委員会、それから国際活動の委員会。いくつかの委員会を作って活動をするという風になります。日本との関係も国際委員会、RAWA国際委員会と僕らは直接会って日本に来てもらったりするというのをやっているわけです。詳しいことは、メリーランド大学准教授のアンヌ・ブロツキーさんが書いた『われら全力をもって――アフガニスタン女性革命協会』(ルートリッジ出版、2003年)に出ています。とても優れた本で、日本に紹介しなければ、と言いながら多忙のためぜんぜんできていません。

87年ミーナが殺されて今RAWAではこういう集団指導体制、委員会制で組織を作って活動をしています。RAWAメンバーの数ですが、その前に、そもそもRAWAメンバーは全員女性です。男はメンバーになれません。ただし、RAWAが指導していた難民キャンプでも、RAWAの学校でも男はたくさんいるわけです。RAWAどうしているかと言うと小学校、中学校、高校に男の子も入れてその子たちに自由と平等と民主主義を教えて女性差別をしない、そういうふうに教育してます。その教育を受けた男たちはその後、RAWAのサポーターになるわけです。

ですからさっきRAWAのデモ行進のシーンがありましたちょっとわかなかったかも知れませんがデモ行進で中心をどっと歩いてたのは全部女性たちです。子どもは男の子もいますけど。ところがその女性たちの周りに男性たちがいるんです。イスラマバードとかクエッタでデモ行進するときに女性たちが横断幕とか看板持ってシュプレコール挙げながらずっとデモするんですね。道路をこう歩いてデモします。大勢の女性たち、先頭はもう中心メンバーの女性たちです。この状況なんですが、実は男性たちが周囲をガードしてます。普段のデモでも脇と後ろの方は男性たちがガードしているんです。それはRAWAメンバーの家族や、RAWAの学校で勉強した男性たちでサポーターになってる人たちです。これがいないと危ないからです。原理主義者に襲撃されますので、デモやるときには必ずガードをしている。そういう状況で彼女たちはやってます。そういうふうにメンバーは女性だけ。しかしサポーターの男性はたくさんいる。

RAWAメンバーはたいてい、そういう人たちとしか結婚できません。RAWAメンバーたちは勉強して意識が高いので女性差別をする男なんかと結婚しないという形になりますので、自分たちの手で、女性差別をしない男たちを作るんです。黙ってるとアフガンの中には、そういう男は少ししかいませんから、アフガンの中で教育をやるってのはこの教育の部分ってのは女性たちに正義や自由を教えるだけじゃなくて男性たちに女性差別しないそういうのを必死で教えてるんです。それをやらないとRAWAの活動はできないということでずっとやり続けています。

RAWAメンバーですがパキスタンにいる難民とアフガンと含めて正式メンバーは2000人ほどということです。アフガンの人口全体が2000万ですから1000万人の女性がいるわけです。その中でRAWAメンバーは2000人ほどです。クエッタ、ペシャワール、イスラマバード、ラピンディ、それからラホール。いくつかの地域にいるという形で活動してますけども学校って、RAWAの学校はパキスタンでは公然とやってますけどアフガンの中では非合法なで非公然でやるわけです。女性たちが勉強して攻撃目標になりますから、学校が焼かれるとか、場合によっては捕まって銃殺されるとか、そういうことさえ起きてる国ですので家庭の中で秘密に女性たちが集まって学校として、勉強する、そういうのをやっています。したがって建物としての学校ではなくて先生が移動していく、車で移動して家庭を訪ねて勉強をさせる。そういうやり方で頑張っているというものです。サポーターの男性は入れ替わり立ち代りなので数はわかりませんけども、まあ大体1000人くらいはいるんだという話をしてました。

決して後戻りしない

次に「決して後戻りしないということですが、ミーナの娘たち、RAWAの若い人たちが今頑張ってます。先ほど「中央委員会ってないと言ましたけどおそらく会ったんです、一人ミーナの高校のときの先生がいるんですが、その先生は現在もRAWAの活動家なので多分彼女が一番の最高責任者じゃないかなと思います。ミーナの先生だった人なので、もう引退するかどうかというところです。というのはミーナが今年生きてれば52歳です。ミーナの高校時代の先生ということですからもう70というぐらいの年齢になります。アフガニスタン女性の平均年齢というのはちゃんとした数字ありませんけれども40台、40歳台といわれてるわけです。前回紹介した国連の文献ではアフガニスタンの平均寿命は45くらいになってました。日本の女性の平均寿命というのは86歳か7歳です。アフガン女性の平均寿命は45歳前後、すごい短いですね。その中でミーナの先生は今70ぐらいにはなってますから、かなり長老のおばあちゃんなので引退だろうと思いますけども、そういう中で普段ぼくらが出会ってRAWAの活動家はだいたい30台の人が多いです。30歳代で難民として暮らしてRAWAの学校で勉強してそれで活動していて国際委員会の人たちはみんな英語を話せます。英語で世界に訴える。こうしてRAWAはアフガン女性の状況を訴える。そういう活動をし続けてきたということになります。

話が行ったり来たりになりますけど、ソ連が撤退したのが89年からで特に92年から状況が変わって今度は内戦になります。ムジャヒディン、さっきアメリカの援助のことだけ言いましたけども他方でイラからの援助もあるわけです。アフガンのムジャヒディンはいろんな国際的援助を得て戦ってました。みんなバラバラにソ連と戦っていた。それが今度は内戦になるわけです。4つのグループが権力争いで内戦になります。悲惨な状況でカブールがまた壊滅をしてくのが92年から96年です。この時期のことが一番わからない。国際メディアも無視をし国連無視し日本も無視をしていた時期。ほとんど世界に知られていない中でアフガンは中でずっと内戦が続いていた。それが92年から96年です。

そこに突如登場したのがタリバンなわけです。96年に登場してきたタリバン。そうするとここでまたタリバン対ムジャヒディンになるわけです。タリバンは実際はパキスタンの後押しで成長してきた若いグループです。神学生、まあ神様の学生ですね。学を勉強していたといわれたグループですが、世直し運動というのを始めます。内戦で悲惨でとんでもない。ただアフガンを立て直すんだ。世直し運動だ。といってこのタリバンがやってくるわけです。あっという間にアフガン大半を制圧しましたけど実際はパキシタン軍の援助をもらって戦ってたので強かった。この時期ムジャヒディンは援助はあまりないわけです。一番初めのときはソ連と戦ってますからアメリカがジャンジャン援助してくれたのです。ところが内戦のときからもう援助はもらえない。そういう風になってますからここでもムジャヒディンは援助はい。弱いんですね。タリバンの方はパキタン軍の援助を貰ってますからとても強い。ということでムジャヒディンは追い詰められて団結します。分裂していたのが、まとまります。それが北部同盟」です。アフガンのニュースで時々北部同盟という言葉を聞ことがあるんですが、いきなり北部同盟って何かというと、バラバラったムジャヒディンはこのままだとタリバンにみんなやられちゃう。だから仲違いをやめてみんなでまとまろうということで北に逃げた。パンシールという地域なんですがアフガン北方を、この辺を握ってた。

タリバンはアフガンの90%以上を押さえてます。北部同盟が残り10%を押さえてる。そういう状況になりました。タリバンがカブールに入場してそれから数年間暗黒の時代になるわけです。世直し運動でムジャヒディンの内戦をやめさせる。カブール市民は大喜でタリバンを迎えたんです。ところがそのタリバンはとんでもない連中で非常に厳しい政治を行う。女性たちは学校にも行けないし、職場にも行けない、外出もできない。ものすごい厳しい状況になるわけですね。男性たちも弾圧される。さっきの映像にあった公開処刑とかですね、ああいうのをやっていたのがタリバンということになります。そのタリバンがバーミヤンの大仏を爆破したりですね、いろいろわけのわからないことをやり出す。

アフガンとRAWAの現在

国際社会は困っていたんです。タリバンをどうするんだ。こんなもの認めるわけにいかないけどもうどうしたらいいか。打つ手がい。そういう時に911の大事件が起きたんです。911とアフガニスタンは何の関係もい。関係ないけれども911で2600人のアメリカ人が死んだといわれた。アメリカとしては必ずやり返す。でもやり返す相手がいない。犯人の主要メンバーはサウジアラビアです。サウジアラビアはアメリカと仲がいいのでサウジアラビアを攻撃することはできません。そこでブッシュ大統領は突如ビン・ラディンがいるアフガニスタンだ。911の背後にビン・ラディンがいるんだ。アルカイダだということでビン・ラディン攻撃なわけです。

ビン・ラディンは一民間人です。アフガンはタリバン政権ですビン・ラディンは外国人にすぎない。ビン・ラディンはサウジアラビア人ですから単なる外国人に過ぎない。そこを世界が理解してないのをいいことにビン・ラディンだ、アルカイダだ、それに協力してるタリバンだからタリバンを全部潰してしまえということで2001年10月からアメリカが乗り込んだわけですね。タリバンに対してアメリカが攻撃するというのが2001年に始まった戦争す。

こういう形でアフガンは非常に苦しい状況がずっと続いてるわけです。内戦がずっと続いている。誘拐、行方不明、暗殺、拷問、そして強姦、それがもうほんとにもう覆い尽くしてるという状況が今日も尚続いていて、アメリカは次々と作戦を展開してきたけれども未だに何もうまくいかない。今年になって米軍兵士もどんどん死んでる。これでは困るということでオバマ大統領は来年にかけて3万人増する。要するに抵抗するアフガン人を皆殺しにしないとアメリカの思うようにならないという話に現在なっているんですね。これが現状ということになりますが、次々と入れ替わってきた中で今の政府はこの北部同盟プラス、カルザイ大統領。これが現在のアフガン政府です。タリバンを倒したので北部同盟が戻ってきてそこにカルザイというアメリカ軍の支援を受けた人物が乗っかって、アメリカの支援でアフガン政府ができている。アメリカの支援がないと今のアフガン政権はすぐに潰れる。そういう関係になっています。

この間、ソ連、ムジャヒディン、タリバンそして現政権、アメリカ――女性のために何かしてくれた政権があるか? RAWAの答えはノーです。すべての勢力が女性を差別し、抑圧し、襲撃し殺害し暗殺してきた。どの勢力も女性を攻撃してきた。それはイスラムだけに限った話ではない。社会主義のソ連も自由主義と言ってるアメリカもそして原理主義のタリバンもいずれも同じように女性を虐殺し虐待してきた。日本では北部同盟の将軍マスードを英雄として持ち上げる人がいますが、女性から見れば、マスードなど強盗強姦集団のボスにすぎません。これがRAWAの主張です。そのことで今もアフガン女性の解放のために彼女たちはっているわけす。想像を絶する深刻な戦争の状況、そして食糧難の状況。でもあきらめずにっているアフガニスタン女性革命協会。小さな組織ですけども懸命に頑張っている女性たちがいるということです。

彼女たちと知り合ってしまったので、できることはいろいろ協力しなきゃいけない。こういう協力関係になっていますが、アフガンの状況を見ると大変な長期的な運動になります。RAWA闘いは数十年あるいは100年という単位でずっと続けていくしかない闘いでしょうから、ずっとやり続けるしかないのかなというふうに思ってます。

日本ではRAWAと連帯する会という会が活動してますが、この会は2年に1度パキスタンに行きます。アフガニスタンにはさすがに行けないので、ここまで行くわけですね。パキスタンのイスラマバードへ行ってペシャワールへ行ってカイバル峠という峠があるんですが、そこまで行きます。今日配った資料の中にはこれですね。カイバル峠の写真を載せてありますけれども向こう側の山がアフガニスタンで、写真を写してる手前がパキスタン側です。ランディコタールから見たアフガニスタンという写真。ここに2年に1度行きます。逆にRAWAのメンバーを時々日本に招いてツアーをする。我々は時々向こうへ行って、まぁRAWAスタディツアーということでやってますが、基本的には資金援助、日本でカンパ集めてRAWAに資金援助をしてるわけです。この本も出版して印税を丸ごとRAWA贈るという形でずっと取り組んできたわけです。

あまりにも遠い話で中々実感がわかないかも知れませんけれども、日ごろアフガニスタンニュース、いろんな形で出ますのでそのときに「ニュースでなんか話した。」と聞いたらこんなってる頑張ってるすごい女性たちがいる。そのことを思い出してみてください。今日は以上でおしまいにしますが次回は女性に対する暴力のまとめということにします。ま日本の側に戻ってくることにしようと思います。