Wednesday, July 14, 2010

袴田事件(2)

法の廃墟34

映画『BOX』が提起するもの

袴田事件の深層

 映画『BOX――袴田事件 命とは』(二〇一〇年、監督・高橋伴明)は、死刑冤罪・袴田事件を、無実の罪で死刑囚とされた袴田巌の側だけではなく、無実と思いながらも心ならず死刑判決を書かなければならなかった裁判官・熊本典道の側の視点を重ね合わせて、刑事裁判の「闇」を見事に描き出している。高橋伴明監督は、三菱銀行人質事件を題材とした『TATOO<刺青>あり』以来、一般映画を撮り始め、『光の雨』『禅ZEN』『丘を越えて』を送り出してきた。裁判官・熊本典道を演じたのは、『月はどっちに出ている』『マークスの山』『カオス』『光の雨』『樹の海』『力道山』『旅立ち――足寄より』『鑑識・米沢守の事件簿』の萩原聖人。死刑囚・袴田巌を演じたのは、『GO』『青い春』『血と骨』『ゲルマニウムの夜』『松ケ根乱射事件』『蟹工船』『ヴィヨン妻』『クヒオ大佐』『蘇りの血』の新井浩文。いずれも秀逸な役者であり、できばえは素晴らしい。他にも、石橋凌、岸部一徳、葉月里緒奈、塩見三省、保阪尚希、雛形あきこなどが出演している。

 映画は、袴田巌と熊本典道が同年の生まれとし(事実は異なるが)、まったく異なる境遇の二人の人生を意外な形で交錯させる。一方はアマチュアからプロボクシングへの道を進み、期待されながらも挫折し、静岡県清水市の味噌工場で働くことになり、他方は司法試験に合格し将来を嘱望された裁判官となり静岡地方裁判所に赴任した。袴田巌は、味噌工場専務宅の強盗放火殺人事件で被告人とされた。理由は、従業員の中で巌だけが遠州生まれのよそ者だったこと、元プロボクサーであったことだ。巌を犯行と結びつけるような証拠は実際はなかった。強引な身柄拘束と拷問による自白強要が続き、巌はついに自白調書を作られる。公判で犯行を否認する巌に驚いた熊本判事は、供述調書を精査し、供述の異様な変遷に疑問を抱く。さらに、取調べ時間の異常な長さにも驚く。強引に自白を強要した様子が想像できる。ところが、犯行から一年余り経過した時期に、突如として味噌工場の樽から血染めの犯行着衣が発見され、検察官は犯行着衣を当初のパジャマから変更した。だが、新証拠には数々の疑念があった。熊本判事は、自白調書も新証拠も巌の犯罪立証にはつながらず、それどころか警察による不可解な作為の産物であることを見抜く。

 だが、地方裁判所の裁判体は三人の裁判官による合議だ。他の二人の裁判官は有罪を主張する。熊本の必死の説得にもかかわらず、多数決で判決は死刑と決まる。しかも、判決は主任判事が書く慣例になっている。ただ一人有罪に反対した熊本が死刑判決を書かなければならない。映画は、無実と確信しながら死刑判決を書かねばならなかった熊本の苦悩を描く。捜査批判を展開した「付言」を盛り込むのが精一杯の抵抗であった。判決後、熊本は裁判官を辞職し弁護士となり、大学で刑事訴訟法の講義も担当した。その間、巌の無罪を立証する証拠を作成して、弁護団に送り届けた。しかし、東京高裁でも最高裁でも死刑判決は覆ることなく、巌の死刑が確定した。

 二つの地獄か

 弁護士となり一時は羽振りを利かせた熊本だが、その後の人生は転落の一途だったという。自殺未遂、放浪、家庭の崩壊。見る影もない人生を歩み、妻や子どもたちも「被害者」となった。だが、二〇〇七年二月、紆余曲折を経て、熊本は、自分が無罪と確信しながら死刑判決を書かねばならなかった事実を公表した。世間に衝撃が、刑事司法に亀裂が走った。合議の秘密をあえて侵してでも真実を語り、無実の死刑囚を救おうという熊本の闘いが始まった(山平重樹『裁かれるのは我なり――袴田事件主任裁判官三十九年目の真実』双葉社、二〇一〇年)。

獄中の巌、再審請求に力を尽くしてきた姉と救う会の人々、そして袴田弁護団は、熊本証言の新局面のもとに再審の扉をこじ開けるために奮闘した。ところが、二〇〇八年三月、最高裁は第一次再審請求を棄却してしまった。熊本の口を封じようとするかのように。現在、第二次再審請求審が進行中である。獄中の巌は七三歳。拘禁症状のため精神状態に困難を抱えている。

熊本も平穏ではいられない。合議の秘密を破ったことへの社会的指弾を受け止め、自らをさらし者にしてでも闘い続ける。長い転落の人生から立ち直るのも容易ではない。一方では、熊本証言を「美談」にしようとするジャーナリストがいる。熊本は自分の話を「美談」にするなと述べる。それでも「美談」であることに違いはない。では、いかなる真実がそこにあるのか(緒方誠規『美談の男――冤罪・袴田事件を裁いた元主任判事・熊本典道の秘密』鉄人社、二〇一〇年)。

ある映画評は、無実の罪で獄中に捕らわれている巌の「地獄」と、心ならずも死刑判決を書かされ生涯苦悩に追い込まれた熊本の「地獄」を「二つの地獄」と評している。映画もそのように描いているといってよい。しかし、この評価には疑問がある。なぜなら、巌と違って、熊本判事には他に選択の余地があった。「無責任な死刑判決を書くよりも、裁判官を辞するという選択肢があった」のだ(本連載12「砕かれた『神話』――袴田事件」本紙二〇〇七年四月)。裁判官を辞職しても弁護士になることができる。現に熊本は死刑判決を書いた後に辞職して弁護士・大学講師になった。熊本が「法と良心」に忠実であったならば、死刑判決を書く前に裁判官を辞するべきであった。そうすれば自身、四〇年も苦悩し家庭を崩壊させることにもならなかったのではないか。「二つの地獄」を対比するのは適切でない。

それでは巌はどうだろうか。熊本が辞職した場合に、巌の一審判決がどうなったかはわからない。他の二人が死刑意見だったのだから、合議体を編成し直したとしても死刑が待っていたかもしれない。

しかし、再審請求についてみるなら「付言」の有無が一つの問題になる。熊本付言は厳しい捜査批判を展開しているため、一審合議体が死刑対無罪に割れたであろうことが想像できた。だが、同時に、熊本付言があるがゆえに(熊本の意に反して)「慎重審理の結果として死刑が選択された」と言うことが可能となっている。付言を上級審が読めば真実を見抜いてくれるはずだという熊本の主張には説得力がない。一審で三人のうち二人が真実を見抜くことができない事実を眼にしながら、上級審に期待したというのは世間知らずでしかないだろう。付言は、熊本の甘い期待に反して、事態を悪化させたと見るべきかもしれない。

ラストシーンで、一面の銀世界の中、それでも真実を追い求め、自分を求めて歩む熊本の後ろに、「うしろのしょうめんだあれ」の歌声に呼び寄せられたように、巌の幻影が姿を現す。ファイティングポーズで向き合う熊本と巌――繰り出される巌のパンチ。そして巌の「BOX」の一言。真っ白な世界をどこまでも走り続ける二人・・・。映画が問いかける、二人の、真実――誰もが、そう、誰もが願っている。