Tuesday, July 20, 2010

サハル・サバさん支援プロジェクト(2)

サハル・サバ「私の人生と将来の目標」

                     [*   ]は前田による補足

私は、1973年にアフガン北部の寒村に生まれました。1979年に村のモスクの中にある小学校に入りました。村にはちゃんとした学校がなかったのですが、モスクの中に小さい学校があって、父が無理してそこに入れてくれました。一族で初めて小学校に通った少女でした。一族で初めて大学に行った父が学生時代にラディカルな立場だったからです。当時アフガンの女の子は学校に行ってない子の方が圧倒的に多かったのですが、父が無理をして入れてくれたのです。子ども時代は平和で幸せでした。

しかし、ある日、事態が一変しました。1979年12月、ソ連軍の侵略が始まりました。このため、一家は難民としてパキスタンに逃れました。パキスタンとアフガニスタンの国境のトライバル・エリアにあった難民キャンプです。車やバス、その他で移動したらしいのですが、覚えているのは、ひたすら歩いたことだけです。それ以上のことは何も覚えていません。小学校1年生になったばかりなので、なぜ歩いているのか、どこへ向かっているのかも分からず、ともかく歩いていたのを覚えています。母の涙、テント、とても寒かったこと、疲れ、重い荷物。行き先はパキスタンの難民キャンプでした。建前は国連難民高等弁務官事務所の難民キャンプでしたが、実際はムジャヒディン(宗教的原理主義者)が支配する難民キャンプでした。

難民キャンプには学校がありましたが男の子専用で、女の子の学校はありませんでした。学校には行けませんし、音楽もテレビも禁止されていました。子どもは別として、女性たちにブルカが強制され、外出も制約されていて、ブルカ着用以外の外出はできません。もちろん外で働くこともできません。

そういう状況の中で、学校に行きたかったし、父も私を学校に行かせようと努力しましたが、すぐには無理でした。私は他の人とは違う何かになりたいと願っていました。でも、学校へ行けないので、自宅で祖母から教育をうけました。『クルアン(コーラン)』その他を祖母が読んで聞かせて、それを私は一所懸命勉強していました。ほとんど家の中にいました。あるいは家の近所で子どもたちどうしで遊んでいたのです。7歳の頃、私は学校に行きたいとは思っていたのですが、でも特に不満をもっていたわけではありません。弟や妹がいたのでその世話をしなければなりません。父は、都会に行けば学校に行ける、子どもに与えられるのは教育だけだ、お金も宝石も与えられないが、教育だけは、と言っていました。

父は子どもを学校にいかせたがったので、色々手をつくしてさがしていました。しばらくはいけなかったのですが、私も学校には行きたいなと思っていたけれど、祖母から教わる程度でした。

1980年になって、父がアフガニスタン女性革命協会(RAWA)の秘密の(非公認の)学校をみつけてきました。RAWAとコンタクトがとれたので、RAWAの学校に通うことになりました。私だけでなく兄弟も行くことになりました。宗教的原理主義の学校「マドラサ」には行きたくありませんでした。RAWAの学校は数百マイルも離れた別のキャンプにあって、遠いので歩いていけません。子どもが行ける距離ではなかったので、子どもは、私も弟・妹も、みんなRAWAの学校(寮)へ行くことになりました。学校に行きたいという夢が現実になりました。容易なことではなく、両親の自己犠牲によるものです。原理主義者たちから脅迫されたにもかかわらず、数年間、私たちを学校に行かせてくれました。父はずいぶん非難されたようです。娘を別の難民キャンプの学校に行かせてると知られて、非難されました。父の兄弟である叔父が猛烈に反対していました。私たちは離れた学校にいっていたので詳しいことは分からないけれど、父はずいぶん苦労したようです。当時はまだ、女の子が教育を受けるのは例外的なことでした。幼いうちから結婚させられて学校には行けないのが当たり前でした。

RAWAの秘密学校に行って、私の人生は激変しました。とても明るくて嬉しかったのです。ソ連批判や原理主義批判を一所懸命勉強しました。

 後にRAWAの活動家になって、原理主義者たちから襲撃される危険性があって本名を隠すようになりましたが、当時はそんなことは考えず楽しく一所懸命勉強しました。RAWAは民主主義と人権を教えてくれました。原理主義者の学校と違って、安全で、楽しい生活でした。

教わったばかりのことを、最初は弟、妹に教えていました。けれどもそれ以外にも人に教えるのが好きだったので、まわりに教えていました。先生から教わると幼い子をつかまえて一所懸命教えていました。

1987年にミーナが殺されました。1989年、RAWAの学校――ワタンスクールはハイスクールですが、ここを卒業して最初はそこの先生になり、後輩たちに教えていました。ペシャワルの近くの難民キャンプの学校で、人権や健康について教えていました。やがてRAWAの活動家になりました。他のキャンプでも教えましたし、デモをしたり、ワークショップをしました。組織の代表としてメディアや集会に出たり、海外に出るようになりました。

原理主義者による攻撃があるため、「サハル・サバ(明日の希望)」という活動家名を選んで活動しました。しばらくしたところ、流れてきた紙にタリバンの「暗殺リスト」が載っていました。見ると、私の名前が載っていました。しかし、驚きはしませんでした。あ、やはり載っていると思いました。

このため私はカブール大学にもその他の大学にも行くことができませんでした。もっと教育を受ければ、もっとよく闘えると思うようになりました。

 [* アフガニスタン国際戦犯民衆法廷(ICTA)を2003年に行なった時期に私たち日本の運動体が、サバさんとコンタクトができた訳です。アフガン法廷は2002年の2月に最初の呼びかけがあり、その3月にパキスタンに行って調査を始め、動き出したのですが、公聴会は2002年12月の東京が最初で、次に2003年1月に大阪公聴会をやっています。東京公聴会と大阪公聴会の間にパキスタンに行って、RAWAに連絡をしてラワルピンディで会ったのがサバさんでした。神戸の兵庫公聴会に彼女が来てくれて、個人名は出さずに組織(RAWA)として共同代表になってもらった訳です。その夏に『アフガニスタン女性の闘い』という本を翻訳・編集して出版をしました。これをサバさんに渡したときに、タイトルの説明をしました。私が最初につけたタイトルは「アフガニスタン女性の苦悩」というタイトルだったのですけど、何かおかしいなと悩んで、結局、『アフガニスタン女性の闘い』というタイトルに変えました。サバさんに本を渡して、こういうタイトルをつけました、と話したら、とたんに泣き出しました。彼女が言ったのが、「そういうことを言ってくれたのは初めてだ」と。今までどこへ行っても、アフガンのこと訴えると、「大変ですね悲劇の中で苦しんで」と同情してもらえる。もちろん訴えに行って同情してもらうのは、それはそれで当たり前ですが、でもいつも「そんな中でRAWAは闘っているんだ」、そう言いたかった、それが相手の側から「アフガニスタン女性の闘い」と言ってもらったのは初めてだ、ということでした。その後、RAWAの本、『声なき者の声』の日本語版をつくった訳ですが、2004年のアフガン法廷が終わった段階でイスラマバードでサバさんと会った時に、事前にメールでも相談はしてましたが、大学に行きたいということを彼女が言い出したわけです]

 私は、高校を卒業して活動家になったので、大学には行くことができませんでした。今はRAWAの若手メンバーの中で大学に行ったメンバーが増えてきて、大学教育を受けた若い子たちが頑張っています。それがとてもよく分かります。それを見ていて、自分ももっと勉強したい、と思いました。もう30歳を過ぎて、これ以上遅らせたくないので、何とかしたいと思いました。アフガン女性の権利を獲得するために、その運動のために、私は法学をやりたいと考えました。アフガン女性や子どものために働くのに女性の権利が重要なので、法学を勉強したい。これまで世界各地へ行って、弁護士の人がNGOの中で活躍しているのを見たり、アフガン法廷のときもイギリス・アメリカ・日本の法律家が一所懸命やってくれているのを見たので、私も法律を勉強したいと思いました。

日本からの援助のおかげで、私はイスラマバード芸術工科大学に通い、無事卒業する事ができました。

RAWAの活動があるので、アフガンの女性のために活動し続けました。世界各地を廻ることも多く、授業を休まざるをえないこともあったので、最後はもう無理だと思って悩んでたんですが、先生から、合格したよ、と伝えられてとても嬉しかったのを覚えています。ついに私は「法と人権の世界」に入った、そのときは興奮しました。エキサイティングでした。法と人権について学んだおかげで私の地平線(視野)がずっと広くなりました。

私は、15年間の活動とそれから3年間の法学の勉強を基にして、さらに勉強したいと考えています。アフガニスタン人口の半分の女性たちが社会的な制度で保障されていません。人権もないし、文字も読めない最悪な状況です。ですから、人権、紛争、正義(司法)について学びたいのです。

また、以前アフガン法廷(ICTA)をやりましたが、それはアメリカの責任を追求しただけで、ムジャヒディンやタリバンなど原理主義者のの責任追及はできていません。それもやりたいと思います。

2008年に、イタリアのNGOの協力で、さらに「正義を求めるアフガン女性協会」とも協力して、戦争犯罪被害者の女性たちの研修をやったことがあります。そのときに戦争犯罪とは何か、被害をうけた女性の権利擁護と被害回復――そういうことをやるようになって、それはやはり法学を勉強した成果として、自分ができるようになってきたことがわかりました。やってみて良かった。それから女性の社会経済参加について運動方針をつくるときに、勉強したことが役に立つことが自分なりに分かりました。

いま私は大学院に行きたいと希望しています。卒業後にすぐに行きたかったのですが、間が少しあきました。

[* 実は彼女は卒業後に結婚しました。相手はパキスタン人のジャーナリストです。パートナーの仕事で今スウェーデンのストックホルムにいっています。そこで子どもを産んで子育てをしていた。これがこの1年間の状況です。パートナーは仲間と一緒にミニ通信社、独立のジャーナリストが集まったグループで、ニュース配信をやっていてウェブサイトも持っています。その中にサバさんのページも1ページだけあります。何も情報は掲載されていませんけれども、サハル・サバもこのメンバーですよ、というのが1ページだけ入っています。この間は子育てをやっていたということです。]

できれば、そろそろ大学院へ行きたいと思います。大学院に行って、それからアフガンに帰って紛争解決や司法の問題をやりたいのです。カルザイ政権は頼りないけど、政権の中に女性問題を扱うセクションもできています。以前と比べれば大幅な前進なので、そういうところとも協力できるだろうし、暴力や差別と闘うためにものを書いたり、ワークショップをひらいたり、色んなことができるのではないかと思います。

また、パートナーがジャーナリストなので、最近メディアの問題もよく考えます。アフガンには12のテレビ、100のラジオ、300の新聞雑誌があります。みんなバラバラに、それぞれのセクトごとにやっているのです。でも、どのメディアも女性に対する搾取しか考えていない。女性を抑圧し暴力的な現状のもとでできているので原理主義者がメディアを支配しているからそこも変えていかなければなりません。

ロンドン大学東洋アフリカ研究所に大学院があるので、私は、そこに行きたいと願っています。マスターの課程を経て、人権と法について深く学んで、アフガニスタンにおいて民主主義と女性の人権を実現するのに役立てたいと思います。

ヨーロッパには多くの大学があり、多くの奨学金制度があります。問い合わせをして、申請を出しました。そのときに「私の人生と将来の目標」という文章――自分の経歴を文章にして、申請を出しました。しかし、ひとつも採用されませんでした。

ロンドン大学の大学院に今年の秋から行きたいのです。9月からのコースですけど、申し込めば受理されることは確認しました。もう仮の手続きをして受理されることになっています。問題は学費だけです。

[* 国連もヨーロッパ諸国も現在カルザイ政権を支援しているので、奨学金はいくつかあるようですが、カルザイ政権の推薦状がもらえれば奨学金がもらえるわけです。アフガン男性であろうが女性であろうが奨学金がもらえる。ところが、サバさんは推薦状をもらえません。RAWAなのでちょっと無理です。いくつか申請したのですがダメで、今年の3月に前田のところにメール連絡があり、大変申し訳ない、前にあれだけお世話になったのでとても言いにくいけど、他に頼める人がもういないんです、ということです]