Saturday, December 29, 2012

2012年を送る~~『組曲虐殺』

最後に極右政権誕生で落胆した2012年も残り30時間余り。

 

昨日は井上ひさし最後の演劇作品『組曲虐殺』を観た。

 

心の底から思う存分、泣ける、楽しいお芝居を満喫。

 

非国民の中の非国民・小林多喜二を、やはり「非国民」作家の井上ひさしが描いた。しかも、それが戯曲としては「遺作」になった。初演を見落したが、こまつ座が、井上ひさし生誕77周年シリーズの最後に『組曲虐殺』を入れていた。なんとも時代感覚ピタリの選択だ。


 

作:井上ひさし

演出:栗山民也

音楽&演奏:小曽根真

 

役者は、井上芳雄(小林多喜二)、石原さとみ(田口タキ)、高畑敦子(佐藤チマ、多喜二の姉)、神野三鈴(伊藤ふじ子)、山崎一、山本龍二(以上は特高刑事)の6人、

 

初演の時、多喜二を井上芳雄と聞いて、なんだかイメージが違うなと思ったのが失敗だ。井上芳雄の演技は想像以上に素晴らしかった。脱帽。石原さとみも、高畑敦子も、神野三鈴もお見事の一言。そして何よりも特高刑事の山崎一と山本龍二、2人の名演技には感銘を受けた。

 

熱烈なスタンディング・オベーションで、俳優たちは、なんと4度も舞台に戻ってきた。

 

そして、そして、小曽根真のピアノ演奏には鳥肌が立った。震撼。

 

資本主義、天皇制、そして戦争を批判し続けた多喜二の地下生活を描いた『組曲虐殺』は、文字通り2012年12月の東京にふさわしい演劇となっていることを、喜べばいいのか、悲しめばいいのか。

 

多喜二については、すでに「非国民がやってきた!」シリーズで12回書いた。


 

武井昭夫さんが、井上ひさしの戯曲をほとんど全否定するかのように批判していたのを思い出した。武井さんは2010年に亡くなったが、『組曲虐殺』を観たのだろうか。たぶん観ていないだろう。

 

武井昭夫


 

2012年の時代精神を批判しぬくのに、小林多喜二と井上ひさしは今なお先進性を持っている。武井さんほどの評論家でも、筋を読み違えることがあるのだ、と痛感した。

 

東京裁判3部作を書き、ヒロシマを取り上げた『父と暮らせば』を仕上げ、多喜二を描いた『組曲虐殺』を経て、井上ひさしは次にオキナワを描く予定だったが、果たせずに旅だった。

 

その原案をもとに、2013年、『木の上の軍隊』が上演されるという。必見だ。

http://www.komatsuza.co.jp/contents/performance/index2.html

Thursday, December 27, 2012

「関西大弾圧救援会・東京の会」12月27日

12月27日、参議員会館で、大阪におけるがれき反対運動への弾圧・不当逮捕に抗議する記者会見と集会が開催された。主催は「関西大弾圧救援会・東京の会」。

鵜飼哲(一橋大学教授)、大口昭彦(弁護士)、石崎学(龍谷大学教授)、趙博(歌手)などが次々と発言した。集会の最後には「浪速の歌う巨人」趙博さんの歌「核々死か慈か」も。

集会後、参加者は要請文を提出に検察庁へ(この部分は私は別件のため不参加)。











Tuesday, December 25, 2012

千葉悦子・松野光伸『飯舘村は負けない』


千葉悦子・松野光伸『飯舘村は負けない――土と人の未来のために』(岩波新書)


 

3月に出たが、今回ようやく読んだ。今年になってからの情報は入っていないが、最終章の「一人ひとりの復興へ」向けて、飯舘村の人々も、そして著者たちも懸命の努力を続けていることだろう。

 

「さまざまな思いの村民に寄り添う報告」という宣伝文句が使われている。いつもなら、「寄り添う」必要なんてないし、「寄り添って」どうする、と一言だが、本書の著者たちの長年の誠実な寄り添い方には頭が下がる。絶望と深刻と苦悩の中で、自ら立ち上がり希望を紡ぐ村民と著者たちの姿勢に学びたい。

 

そして、「までいな希望プラン」「いいたて までいな復興計画」が何とか実現されるよう、祈りたい。

 

3.11以前の村の自治の在り方が、3.11以後の復興へ向けての取り組み方にこれほど大きな違いを見せることは、凄い発見でもある。

 

<著者>
千葉悦子(ちば・えつこ)1952年、北海道生まれ。北海道大学大学院教育学研究科博士課程修了、博士(教育学)。専攻は、社会教育学、農村女性・家族論。現在、福島大学行政政策学類教授、福島県男女共生センター館長。共編著―『地域住民とともに』(北樹出版)、共著『地域における教育と農』(農文協)、『現代日本の女性労働とジェンダー』(ミネルヴァ書房)ほか。

松野光伸(まつの・てるのぶ)1945年、埼玉県生まれ。法政大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得。専攻は、行政学、地方自治論。現在、福島大学行政政策学類特任教授。
共著―『過疎問題と地方自治体』(多賀出版)、『グローバリゼーションと地域』(八朔社)。
千葉・松野の共著―『小さな自治体の大きな挑戦―飯舘村における地域づくり』(境野健兒との共編著、八朔社)。

映画『はちみつ色のユン』


昨日はポレポレ東中野で映画『はちみつ色のユン』を観た。





 

悲しくて、切なくて、ちょっとほのぼのして、

じ~んときて、じわ~~~~っと泣ける映画だ。

大阪や神戸でも上映予定ということだ。

 

「肌の色:はちみつ」――黄色ではなく、はちみつ色という呼び方がとてもフィット。

 

朝鮮戦争の結果としての韓国からの国際養子については予備知識がなかった。いくつかの新聞で映画の紹介がなされたのを観て、はじめて知った。日本人にはなじみのないテーマだ。昨日のポレポレ東中野も残念ながらガラガラだった。

 

パターンは違うが、第二次大戦後の「中国残留孤児」と類比的に考えることができそうだ。もっとも「残留孤児」という呼び名は明らかに嘘だ。捨ててきたのだから・・・と思いつつ。

Sunday, December 23, 2012

若松丈太郎『福島核災棄民―町がメルトダウンしてしまった』


若松丈太郎『福島核災棄民―町がメルトダウンしてしまった』(コールサック社、2012年)


 

福島の思想詩人による慟哭の書である。

 

前著『福島原発難民』に続く詩文集に、加藤登紀子がうたう「神隠しされた街」のCDがついている。小高町、半径20キロの境界、堤防が消えた海岸の写真も。

 

静かに、ゆっくりと、読もう。

泣かずに、声を出して、読もう。

無念でも、悲しくても、怖くても。

前を向き、遠くを見ながら、読もう。

 

「神隠しされた街」の最後の5行だけ引用しておこう。

 

「私たちの神隠しはきょうかもしれない

うしろで子どもの声がした気がする

ふりむいてもだれもいない

なにかが背筋をぞくっと襲う

広場にひとり立ちつくす」

 

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【目次】

一章 町がメルトダウンしてしまった  
町がメルトダウンしてしまった 
原発難民ノート2 二〇一一年三月十五日から四月三十日まで 

二章 キエフ モスクワ 一九九四年
キエフ モスクワ 一九九四年  

三章 福島核災棄民
福島から見える大飯  
広島で。〈核災地〉福島、から。  

四章 戦後民主主義について
始まり? 終わり?  
年の暮れに  
責任を問い糾すこと  
生きるための決断  
教科書を介しての出会い  
戦後民主主義について 〈核災〉との関連から  

五章 ここから踏みだすためには
生きる力を得るために  
福島からの思い  『命が危ない 311人詩集』を読んで  
ここから踏みだすためには  『脱原発・自然エネルギー 218人詩集』を読んで  
〈核災地〉福島の、いま。  

六章 海辺からのたより
海辺からのたより 二  
記憶と想像  

解説 南相馬市で脱原発の論理的根拠を思索する人  鈴木 比佐雄  
あとがき  
略 歴   
付属CD「神隠しされた街」歌詞  

原発は犯罪だと明言した著作

浦田賢治編『核と原発の犯罪性――国際法・憲法・刑事法を読み解く』


 

浦田賢治(早稲田大学名誉教授)が主宰する「憲法学舎」のシリーズ2012年版は『核と原発の犯罪性』である。核の犯罪性についてはいまさら言うまでもないことだが、原発の犯罪性をどのような解釈論で展開しているのか興味深い。

 

浦田賢治:早稲田大学名誉教授、国際反核法律家協会副会長。早稲田大学教授、日本学術会議会委員、スウェーデン・ルンド大学客員教授などを歴任。憲法学舎を主宰。

私が尊敬する水島朝穂(早稲田大学教授)の、さらに先生である。

 

<目次>

1部 ヒロシマからフクシマへ
原発の存続拡散は将来世代への犯罪/CG・ウィーラマントリー
原発産業は人道に対する罪/フランシス・A・ボイル
核兵器と核エネルギーの犯罪性/浦田賢治
核は人類は共存できるのか/浦田賢治
「原子力の平和利用」を問い直す/浦田賢治
核廃絶という課題/ピーター・ワイス
2部 核抑止の犯罪性 フランシス・A・ボイル
フィリップ・ベリガン師による序文
ジョージ・ブッシュ・ジュニア、911日事件、法の支配
国際規模で法ニヒリズムを信奉する米国
ヒロシマとナガサキの教訓
核抑止の犯罪性
結論 : デモクラシー 対 核の権力エリート

 

以上のうち、第1部の冒頭の5本が関連する論考である。

 

冒頭のウィーラマントリー(元国際司法裁判所判事、国際反核法律家協会会長)の論考は、フクシマ事故直後に発せられた手紙であり、すでに『日本の科学者』に翻訳が発表されたものである。原発の危険性が明らかになったので、その犯罪性を人道と文明の観点から説いている。

 

次のボイル論考も同様だが、原発産業は人道に対する罪と言いきっているところが凄い。

 

次の浦田論考は時評や講演の記録であるが、3本続けて読むことで著者の見解が詳細に明らかになる。原発は犯罪だという考え方は、これまでに出されていないと思ったが、1977年に槌田敦が論文で書いていることも示されている。

 

どの論考も示唆的で、興味深く、大いに学ばせてもらった。

 

もっとも、法解釈という観点では物足りないのも事実である。槌田論文は、原発は犯罪であると唱えているが、いかなる刑法に違反するのか、法律論は示されていない。浦田論文も、ボイル論文に従って人道に対する罪を念頭に置いているが、人道に対する罪の解釈論は書かれていない。ウィーラマントリー論考も同じである。

 

ウィーラマントリー、ボイル、浦田という尊敬する碩学だけあって、いずれも大変勉強になるが、まだ法律論になっているとは言い難い。

 

原発民衆法廷は、7月15日の広島公判で、決定第5号を出した。そこでは原発が人道に対する罪に当たることと、人道に対する罪という国際法上の犯罪だけではなく、これから問われるべきより高次元の犯罪に当たるのではないか、人類だけでなく、環境、地上の生物、将来世代も含めて議論が必要でないかということを示した。

 

本書と原発民衆法廷の思考は重なり合っているので、これを出発点にして、さらに法律論を深めて行くことが必要だ。

Saturday, December 22, 2012

纐纈厚『領土問題と歴史認識』


纐纈厚『領土問題と歴史認識』(スペース伽耶、2012年)


 

著者:1951年、岐阜県生れ。一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了。現在、山口大学人文学部教授、独立大学院東アジア研究科教授。政治学博士。山口大学理事兼学生教育担当副学長。東亜歴史文化学会会長

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%90%E7%BA%88%E5%8E%9A

 

目次

はじめに 「領土」と「歴史」をめぐる確執

1章 歴史を観て回る

2章 どう歴史と向き合うのか

3章 日本外征の果てに―台湾領有の歴史を繙く

4章 日本の対韓認識をめぐって

終章 未決の植民地・戦争責任問題―領土問題解決の糸口はどこに

 

『総力戦体制研究』依頼、日本近現代史、郡司氏に関する膨大な研究を送り出してきた著者による領土問題研究である。もっとも、前半は、歴史研究や共同研究に関連するエッセイが中心である。第3章以下は、日本・中国・台湾の関係史、日本と韓国の関係史、要するに、侵略の日本帝国主義史を概観し、侵略のイデオロギーが日本と日本人から抜きがたくなった理由を探る。

 

これまで著者に多くを学んできたが、本書でも学ぶべき点が多い。議論の手掛かりとしてとくに重要な一か所だけ引用しておこう。以下は「征韓論」に関連して書かれた文章である。

 

「大陸侵略思想の基本的構造が国内権力構造の性格を反映したものとして存在し、また国内権力構造の変転に左右されながら表出していく体質を持っていたがゆえに、侵略思想は実に多様な担い手により多様な形態をもって展開された。
 同時に、侵略思想に内発性と外発性というものがあれば、日本の大陸侵略思想は内発性が極めて優位を占めただけに、危機設定と脅威の対象は、常に国内の政治社会状況や権力構造の変化に規定される傾向を持ったものとしてあった。
 そのことは、客観的な危機が存在しない場合でも、国内の諸矛盾の存在や権力強化の手段の極めて有効な方法として、任意に危機や脅威の対象を設定することを可能とさせた。実際のところ、日本の侵略思想は客観的な理由づけに乏しく、主観性に依拠した実態をともなわないものであっただけに、それが一定の政治力として実践されていくためには特殊なイデオロギー装置をフルに稼働させる必要性があった。
 そのためにも種々のレトリックを多用して、侵略戦争の客観的合理性の欠如を補強せざるを得なかったのである。そこで後年、天皇制が有力なレトリックの素材として活用されるという事態が不可避となった。」(160頁)

 

この文章を著者の文脈で読む限り、大いに納得しながら読んだ。

 

ただし、これはかなり議論を呼ぶ文章でもあるだろう。

 

第1に、これは果たして「日本」に固有の侵略思想の在り方なのか。侵略の比較思想史を抜きには判断できない。

 

第2に、著者の文脈を大幅に逸脱して読み解けば、例えば、中国侵略戦争を擁護した田中正造について、今日でも研究者が、正造は反戦主義者である、などと馬鹿げた嘘を唱え続けるのかを理解する鍵がここにある。同様に、朝鮮人差別の新興宗教に熱中していた宮沢賢治について、今日でも研究者が、賢治は平等主義者であり、人間を尊重したなどと、嘘を唱えるのかを理解する鍵がここにある。侵略戦争の戦争責任を、いまなお日本人が認めようとしないのは、こういうインチキ正造研究やインチキ賢治研究が幅を利かせているからでも、あるだろう。そのことを著者は思い出させてくれた。

Thursday, December 20, 2012

取調拒否権の思想(6)


 今回から取調拒否権の具体的内容を論じる。市民が権利主体として取調拒否権をいかに位置づけ、いかに我がものとし、実践するかである。取調拒否権の行使の在り方と言ってもよい。前回論じたように、取調拒否権の根拠は個人の尊重と自己負罪拒否権であり、その両輪を抜きに論じてはならない。自己負罪拒否権だけを念頭に置いて、しかもこれを「特権」として理解するべきではない。誰もが有するという意味での普遍的人権の一つであり、人格権の一側面である。

 

誰でもできる黙秘権を

 

 自己負罪拒否権は、直接的には憲法第三八条一項に規定されている。刑事訴訟法第一九八条二項は被疑者、同法第二九一条三項及び第三一一条一項は被告人の黙秘権を規定する。黙秘権について、従来、憲法学及び刑事訴訟法学では、第一に自己負罪拒否権との関係、第二に黙秘権の主体、第三に黙秘権の告知、第四に黙秘権の対象範囲をめぐって議論してきた。救援団体や弁護士は黙秘権行使を実践的に論じてきたが、法学としての議論は右の四つに絞られていたと言ってよいだろう(行政手続については別論)。

 第一に、自己負罪拒否権との関係である。憲法第三八条二項は不利益供述に限定しているように読めるが、憲法第一三条の個人の尊重をもとにすれば、利益不利益を問わずあらゆる供述強要が禁止されるのが当然であり、黙秘権規定もその趣旨である。

 第二に黙秘権の主体である。刑事訴訟法は被疑者・被告人の黙秘権を定め、憲法第一三条及び第三八条一項は何人も供述を強要されないことを定めている。何人も黙秘権を有するが、法は特に被疑者・被告人について明示規定を掲げた。

 第三に、刑事訴訟法は黙秘権の告知を定めているが、憲法第三八条二項が告知を要求しているか否かについて判例・学説は否定的とされる。しかし、憲法第一三条及び第三八条二項の双方に根拠を有する供述強要の禁止であるから、告知がなければ権利保障とは言えない。アメリカにおけるミランダ・ルールと同様に考えるべきである。

 第四に、黙秘権の対象範囲として氏名の黙秘が問われてきた。一九五七年二月二〇日の最高裁判決は、氏名の供述は原則として不利益供述に当たらないとし、氏名を黙秘した者による弁護人選任届を無効とすることは第三八条二項に反しないとした。しかし、憲法第一三条も黙秘権の根拠であり、いかなる供述強要も許されない。憲法第三八条二項も、許される供述強要と許されない供述強要を区別していないし、そのような区別の合理的基準を示すことはできない。それゆえ、包括的黙秘権を保障しなければならない。

 第五に、黙秘権行使の実践である。従来、被疑者・被告人が黙秘権行使を選択すれば、供述強要はできず、供述しないことを法律上不利益に扱ってはならないという形で議論されてきた。

しかし、これでは権利保障になりえない。以下では特に身柄拘束された被疑者について言及するが、長期にわたる勾留の下、取調室において捜査官による取調受忍義務を強制され、人格を侮辱する罵声を浴びせられ、執拗に供述を強要されてきた。黙秘権を行使するために、身柄拘束された被疑者は捜査官と徹底対決し、あらゆる身体的苦痛と闘い、精神的抑圧に抗して英雄的な闘いを敢行しなければならなかった。黙秘権の意義を熟知し、その帰結を明確に認識し、供述強要と徹底的に闘う強靭な意思が必要とされた。完黙(完全黙秘)が称賛されるべき英雄的闘争と理解されてきた。

これでは黙秘権は憲法によって保障されるのではなく、当事者の闘う意思によって実現されるにすぎないことになる。黙秘権行使が英雄的闘いであってはならない。誰でもできる黙秘権の実践を考える必要がある。

 

出房拒否の実践

 

黙秘権行使が英雄的闘いとなってきた理由は、何と言っても、代用監獄を利用した取調べ状況である。身柄拘束された被疑者の大半が拘置所ではなく、警察留置場に収容される。逮捕段階で七二時間、勾留が付されると一〇日プラス一〇日で、合計二三日間もの身柄拘束が強行される。この間、被疑者は家族にも職場にも連絡できず、外界の情報から遮断される。二四時間、身体と生活を警察によって管理される。取調室に移動させられ、捜査官の支配下、勝手気ままな取調べを強要される。弁護士との接見時間はごくごく限られている。取調べ時間が一時間なら、接見時間も一時間という当たり前のことさえ弁護士は要求しない。このように圧倒的に不利な状況において、被疑者は黙秘権を行使しなければならない。黙秘権を行使しようとしても、えんえんと取調べが続き、捜査官は質問を続け、被疑者を貶め、人格を攻撃する。黙秘権を行使できるのは、確乎とした思想を持ち、捜査官による強要に頑として抵抗できる者だけとなる。

こうした状況を改める必要がある。黙秘権はすべての者が有する普遍的人権としての人格権の一側面でもある。実践困難な課題であってはならない。

 そこで注目すべきは出房拒否による取調拒否の実践である。先に紹介したように、二〇一一年二月二〇日、奇しくも最高裁判決から五四年目に、米軍ヘリパッド建設反対デモの際に逮捕・勾留されたAは、取調拒否を宣言し、出房拒否を実践した。

「Aは『供述は任意であり、そもそも黙秘を公言しているのだから、取調室に行く必要がない。強制的に引きずってでも連れて行くつもりなのか。もしそうするなら徹底的に争うぞ』と言った。すると、留置担当官は『強制的には連れて行けないけど、取調べの刑事さんに直接言ってもらえる?』と言うので、『言うために出て行ったら、なし崩しに取調べになる。行かない』と返すと、それで終わった。他の日も呼びには来るが、『出ない』と言えばそれまでであった。」(本紙五一九号、本年七月)

 黙秘権を行使するのだから、何も話すことがない。従って、取調室に行く理由がない。取調室に行っても、捜査官による執拗な質問責めにあうか、侮辱に耐えるかしかない。時間とエネルギーの浪費である。身柄拘束された被疑者は、留置場の房で心静かに釈放の日を待つのが一番である。Aは次のように述べている。「当然権力の反撃もあるので楽観できませんが、転向強要・自白強要の温床である密室から自由であることの意義は大きく、自白中心主義を解体するための強力な武器になると思います」(同右)。

  市民には個人の尊重と不利益供述強要の禁止という憲法上の権利がある。刑事訴訟法では黙秘権の告知が要求されている。黙秘権行使を選択した市民は、拘置所に収容されようと、留置場に収容されようと、取調べを強要される理由がない。積極的に取調べを受けたい場合はともかく、捜査官の違法な取調べを避けるための一番の方法は取調室に行かないことであり、出房拒否である。これが被疑者の防御権の核心である。

 

救援連絡センター『救援』524号(2012年12月)

Tuesday, December 18, 2012

取調拒否権の思想(5)


個人の尊重

 

  取調拒否権とは何か。いかなる思想的根拠、法的根拠を有するのか。具体的内容はどうか。実践方法と留意事項は何か。そして、その効果はどうか。今回から取調拒否権の概要を明らかにしていきたい。

 まず取調拒否権の根拠である。一般に、自己負罪拒否権は憲法第三八条に由来し、憲法第三七条の弁護人選任権などとともに議論の基礎とされる。それは誤りではないが、取調拒否権を市民が有する基本的権利として構成するためには、まず第一に、憲法第一三条を踏まえる必要がある。

  憲法第一三条は「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と定める。まず、「国民」とあるので、外国人は憲法上の基本権享有主体ではないとする学説も存在したが、基本権は国家以前の権利であり、日本国憲法は国際協調主義を採用しているうえ、「個人として尊重される」のであるから、国籍が要件となるのは疑問であり、外国人も個人として尊重される。

次に「個人として尊重される」とは「一人ひとりの人間が人格的自律の存在として最大限尊重されなければならない」ということである(佐藤幸治『日本国憲法論』成文堂、一七三頁)。個人の尊重は「個人の尊厳」「人格の尊厳」とも呼ばれる。「『人格の尊厳』原理は、まず、およそ公的判断が個人の人格を適正に配慮するものであることを要請し、第二に、そのような適正な公的判断を確保するための適正な手続きを確立することを要求する」(佐藤、一七四頁)。

また、「幸福追求に対する権利」は、個人の尊重を受けて「人格的自律の存在として自己を主張し、そのような存在であり続けるうえで重要な権利・自由を包括的に保証する権利」(佐藤、一七五頁)である。なお、幸福追求権の性格については人格的利益説以外に、一般的自由説もある。

 幸福追求権は個人の尊重と結びついて包括的な権利とされる。その内容は、第一に「人格価値そのものにかかわる権利」(名誉権、プライヴァシーの権利、環境権)、第二に「人格的自律権(自己決定権)」、第三に「適正な手続的処遇を受ける権利」に分けられる。プライヴァシーの権利と自己決定権とは重なるように見える概念であり、同じ意味で用いられることもあるが、より広い意味で用いられることもある。いずれにせよ、市民は取調べの客体として、追及的取調べを受け、望まない供述をすることを強要されてはならない。また、プライヴァシーの権利は表現の自由とも密接に関係する。個人のプラヴァシーをみだりに公表されないだけではなく、表現したくないことを表現させられないことも含まれる。表現するか、しないか。何を表現するかは、個人の自由である。取調べを強要することは、個人の表現の自由に国家が介入することである。そして、適正な手続的処遇を受ける権利である。これは憲法第三一条以下に詳細に規定されているが、まずは第一三条に由来するのである。

 国際人権法についてみると、世界人権宣言第一条は「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」とし、第三条は「すべて人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する」とする。幸福追求権のような規定ではないが、尊厳と自由が確認される。国際自由権規約にはこのような一般的規定はないが、前文において「これらの権利が人間の固有の尊厳に由来することを認め」て、各条で具体的な自由と権利を定めている。

 

自己負罪拒否権

 

取調拒否権の第二の根拠は、憲法第三八条である。憲法第三八条は「何人も、自己に不利益な供述を強要されない。強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない」と定める。

第三八条第一項の何人も、自己に不利益な供述を強要されない」を、憲法学及び刑事訴訟法学は「自己負罪拒否特権」と略称しているが、不適切である。「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」と明示しているのであるから、普遍的権利であって、「特権」ではない。コモン・ローの伝統に由来することを表現するために「特権」という語が用いられているが、それ以上の意味はない。個人の尊重に照らし、人間性を配慮して、何人に対しても供述強要は許されないという意味である。

また、第一項を、第二項の「強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない」に強引に引きつけて解釈するべきではない。第二項は「強制、拷問若しくは脅迫」と明示しているが、第一項は端的に「自己に不利益な供述を強要されない」とする。「強制、拷問若しくは脅迫」があれば強要したことになるが、それがなければ強要したことにならないと解釈する理由はない。

「自己に不利益な供述」とは「自己の刑事上の責任に関する不利益な供述、すなわち刑罰を科せられる基礎となる事実や量刑にかかわる不利益な事実などについての供述をいう」(佐藤、三四五頁)。

重要なのは、第一三条の個人の尊重に照らせば、自己に利益か不利益かを問わず、あらゆる供述強要が許されないのに対して、第三八条では不利益供述に限定されていると読めることである。この点は刑事訴訟法第一九八条二項の黙秘権の理解にかかわる。刑事訴訟法第一九八条二項は「前項の取調に際しては、被疑者に対し、あらかじめ、自己の意思に反して供述をする必要がない旨を告げなければならない」とする。刑事訴訟法第二九一条三項や第三一一条一項も含めて、不利益供述に限定していない。憲法第三八条一項と刑事訴訟法の諸規定とを比較して、刑事訴訟法の黙秘権は憲法の保障の趣旨を拡大したものだとする学説があるが、不適切である。供述強要禁止は、第三八条だけではなく、第一三条の要請でもある。刑事訴訟法の黙秘権規定は憲法の要請を正しく反映している。第三八条は、特に不利益供述禁止を強調したものと理解すれば足りる。

国際人権法についてみると、国際自由権規約第一四条三項(g)は「自己に不利益な供述又は有罪の自白を強要されないこと」を権利と定めている。この条項の解釈については、前回紹介した葛野尋之『未決拘禁法と人権』(現代人文社、二〇一二年)参照。

 

救援連絡センター『救援』523号(2012年11月)

取調拒否権の思想(4)


未決拘禁法研究

 

 二回にわたって取調受忍義務論への批判を見てきた。刑事訴訟法学説の多くは被疑者取調実務を批判している。

そうした学説を総括し発展させたのが葛野尋之『未決拘禁法と人権』(現代人文社、二〇一二年)である。葛野は一橋大学教授で刑事訴訟法・少年法の専門家である。主著に『少年司法の再構築』(日本評論社)、『刑事手続と刑事拘禁』(現代人文社)、『少年司法における参加と修復』(日本評論社)があり、いずれも本格的な研究書である。刑事立法研究会などの研究会における共同研究と討論を通じてさまざまな著書・論文が公表されてきたが、葛野はそうした研究の中心的存在であり、つねに論争を喚起し、理論成果を積み重ねてきた。『刑事手続と刑事拘禁』と『未決拘禁法と人権』は取調べと身柄拘束問題を考える際の最重要文献である。本書は序章・終章と一一の章、つまり全一三章から成る。まずは目次を掲げておこう。

序章 本書の目的――未決拘禁法をめぐる一〇の課題/第一章 勾留決定・審査手続の対審化と国際人権法/第二章 勾留回避・保釈促進のための社会的援助/第三章 代用刑事施設と国連拷問等禁止条約/第四章 代用刑事施設問題の現在――二〇〇八年自由権規約委員会勧告から/第五章 被疑者取調べの適正化と国際人権法――弁護人の援助による黙秘権の確保/第六章 被疑者取調べにおける黙秘権と弁護権/第七章 被逮捕者と公的弁護/第八章 弁護士会の人権救済活動と刑事被拘禁者/第九章 再審請求人と弁護人との接見交通権/第一〇章 最高裁接見交通判例再読/第一一章 検察官による接見内容の聴取と秘密交通権/終章 刑事被収容者処遇法における接見交通関連規定。

浩瀚な本書の全体について論評する余裕はない。著者は序章で一〇の課題を掲げているので、それを見て行こう。第一の課題は、身体拘束と取調べを結合させて、取調受忍義務を課し、黙秘権を危険にさらす代用監獄(代用刑事施設)問題であり、「捜査と拘禁の分離」をいかに実現するかである。第二は、身体拘束下の取調べという場面において、被疑者の黙秘権と弁護権がどのような目的・機能を有するかである。第三は、逮捕段階での公的弁護の保障をいかに実現するか。第四は、接見交通権を憲法第三四条の弁護権に由来する権利として再構成することである。第五は、被疑者と弁護人の秘密交通権を制約する実務(接見内容の聴取)による萎縮的効果を生じさせないことである。第六は、再審請求人と弁護人の接見の自由と秘密性の確保である。第七は、接見交通権を制約する刑事被収容者処遇法の解釈・運用及び立法論である。第八は、未決被拘禁者の権利侵害に関する実効的救済である。第九は、無罪推定の法理と身体不拘束の原則に立った、未決拘禁抑制のための社会的援助である。第一〇は、国際人権法による手続保障の水準を踏まえた、勾留決定・審査手続きの在り方である。これらすべてに共通する問題意識は「取調べのための身体拘束」の克服であり、未決拘禁法の在り方という統一的視点から、葛野刑事訴訟法学が開陳される。

 

弁護権と黙秘権

 

 葛野は第三章で、代用監獄に関する二〇〇七年の拷問禁止委員会の勧告が、代用刑事施設(代用監獄)の存在・継続を認めたものであるかの如き主張に対して、拷問禁止条約の精神と内容、拷問禁止委員会における審議経過、及び最終的な勧告の内容を吟味して、代用刑事施設は「捜査と拘禁の分離」に適合しないことから、国際的最低水準を満たさず、制度的廃止を勧告したことを明らかにする。続く第四章では、二〇〇八年の自由権規約委員会の勧告が、やはり代用刑事施設の廃止を求め、それまでの間に自由権規約第一四条の完全遵守を促したものであると指摘する。自由権規約第九条三項の「捜査と拘禁の分離」を達成するために代用刑事施設の極小化が求められるという。

 被疑者取調べは自白強要のための人権侵害が起きやすい場面であり、虚偽自白による誤判・冤罪の危険性が高まる。被疑者取調べの適正化は喫緊の課題である。そこで葛野は第五章で、被疑者取調べへの弁護人のアクセスを取り上げ、欧州人権裁判所のサルダズ判決及びイギリス最高裁のカダー判決に学びながら、欧州人権条約を参考に国際自由権規約の弁護権や、不利益供述強要の禁止を解釈する。

「弁護人の援助により黙秘権を確保するという予防的ルールのもと、逮捕後、弁護人へのアクセスを制限したまま被疑者を取り調べることは、規約一四条三項(c)による弁護権を侵害するのみならず、同項(g)の黙秘権をも侵害する。そのような取調べの結果採取された自白を有罪証拠とすることは許されないのである」。

「自由権規約一四条三項(c)・(g)の要請からすれば、逮捕・勾留中の被疑者が、弁護人となろうとする者としての当番弁護士との接見を含め、弁護人等との接見を申し出たときは、取調べに先立ち、または取調べを中止して、接見の機会を付与しなければならない。被疑者が弁護人を選任する意思を表明したときは、当然、弁護人等との接見要求を含む趣旨と理解すべきである。接見・選任の要求があるにもかかわらず、取調べ中または取調べの間近い確実な予定をもって『捜査のため必要がある』として接見指定をすることは、弁護人へのアクセスの制度的な制限として許されない」。

 さらに葛野は第六章で、「被疑者の権利としての取調べの適正化」のための弁護人立会権を論じ、「取調べへの対応が防御上重要な意味をもつ以上、防御権的性格を有する黙秘権を確保するための手続き保障として、被疑者が自己の権利を十分理解したうえで取調べに臨み、黙秘するか、なにを、どのように供述するかを判断するにあたり、取調べに先立つ弁護人との接見とあわせ、取調べ中の弁護人立会権が保障されなければならない。このような弁護人の援助は、黙秘権を確保するための手続保障として、憲法三四条の弁護権とともに、憲法三八条一項により基礎づけられることになる」と述べる。

以上、『未決拘禁法と人権』のごくごく一部だけを紹介した。刑事手続き、とりわけ取調べの適正化をめぐるもっとも優れた研究であり、『刑事手続と刑事拘禁』とともに繰り返し読み解き、理論的にも実践的にも活用されるべき一冊である。

これまで紹介した刑事訴訟法学説を参考にしながら、次回、いよいよ取調拒否権の具体的内容に入る。

 

救援連絡センター『救援』522号(2012年10月)

Sunday, December 16, 2012

取調拒否権の思想(3)


取調受忍義務論

 

 被疑者を逮捕・勾留し、取調室に出頭・滞留して取調べを受けることを強制するのが実務である。黙秘権の保障など顧みようとしない。しかも、被疑者の身柄拘束場所は、本来は拘置所であるにもかかわらず、警察署内の留置場を代用監獄として利用してきた。捜査機関が、被疑者の身柄を自由自在にコントロールし、取調べを強制し、自白を強要する拷問システムである。国際自由権規約に基づく自由権委員会や拷問禁止委員会から厳しく批判されてきたが、捜査当局は改めようとしない。代用監獄、取調受忍義務論、自白強要は三位一体の実務であるが、これらを切り離して正当化してきた。 取調受忍義務論は、次のような「論理」をもとにしている。

第一に法律上の根拠である。刑事訴訟法一九八条一項は「検察官、検察事務官又は司法警察職員は、犯罪の捜査をするについて必要があるときは、被疑者の出頭を求め、これを取り調べることができる。但し、被疑者は、逮捕又は勾留されている場合を除いては、出頭を拒み、又は出頭後、何時でも退去することができる。」と定めている。被疑者に対する取調の強制権限と、身柄拘束されていない被疑者に出頭拒否を認めているので、身柄拘束されている被疑者には出頭義務だけでなく滞留義務もあるという。一九八条一項但書の反対解釈である。

第二に逮捕の法的性質である。受忍義務論は、逮捕の目的に被疑者取調を含めたり、起訴前勾留は被疑者取調を含めた捜査のためのものであるという。未決拘禁全体の目的に被疑者取調を含める見解もある。

第三に黙秘権との関係は、出頭・滞留義務を認めて、取調べを受けることを強制しても、供述そのものを強制しているわけではないと説明される。取調室で沈黙しているのは自由であるとしつつ、強制処分としての取調だから捜査官が被疑者に供述を促し、説得するのは当然であるという趣旨である。つまり、憲法で禁止された自白強要はしていないとされる。

第四に実際上の必要性である。犯罪捜査にとって被疑者取調は必須であり、治安確保のために被疑者取調は欠かせないという。一九八〇年代には「日本警察優秀論」が喧伝されたが、その際にも、犯罪検挙率の高さとともに、犯罪者に説得をして自白させ反省させることが再犯防止につながり、警察の優秀さに含まれているとされた。

 なお、最高裁判例は被疑者の取調受忍義務について特に言及していない。下級審判例の中には、被疑者の取調受忍義務を前提としていると理解されるものがある。例えば、都立富士高校放火事件に関する一九七四年一二月九日東京地裁判決である。

 取調受忍義務論は以上のようなものであるが、警察・検察関係者はもとより、裁判所もこれを是認ないし放置している。というよりも、逮捕・勾留実務を見るならば、被疑者取調受忍義務が当然の前提であるかのような様相を呈している。

 

受忍義務論批判

 

 しかし、被疑者取調受忍義務を課している実務は違法であり、憲法違反であり、重大な人権侵害であって、改められる必要がある。

前回は刑事訴訟法教科書(福井厚)を紹介したが、今回は刑事訴訟法学者によるコンメンタール(註釈書)を紹介しよう。多田辰也(大東文化大学教授)は次のように述べている(後藤昭・白取祐司編『新・コンメンタール刑事訴訟法』日本評論社、二〇一〇年)。

 多田は問題点を次のように整理する。「身柄拘束中の被疑者には、取調室へ出頭しそこに留まる義務、つまりは取調べ受忍義務があるかが、最大の論点とされている。この争いの根源は、旧法までは予審に属していた強制的取調べ権が、現行法では捜査機関に委譲されたと考えるか否かという点にあり、その意味で捜査構造論の中核をなす」。

 そのうえで、受忍義務肯定説に対して、「しかし、但書の反対解釈から導かれるに過ぎない受忍義務は、強制処分法定主義に反する。しかも、受忍義務を肯定することは、包括的な黙秘権を保障した現行法の理念にも反するといわなければならない」と批判する。

 受忍義務否定の根拠は「黙秘権の実質的保障、取調べ目的の逮捕・勾留は認められていないこと、被疑者の当事者としての地位」があげられる。

 それでは、一九八条一項但書をどのように解釈するのか。この点はいくつかの学説に分かれているが、例えば「出頭拒否とか退去を認めることが逮捕・勾留の効力自体を否定するものではない趣旨を注意的に明らかにしたと解する見解」や、「本条一項は在宅被疑者に対する出頭要求の規定であり、そうであれば身柄拘束中の被疑者については出頭要求は問題となりえないので、念のため除外規定が設けられたとの見解」などを紹介したうえで、「いずれの解釈にも問題があることは否定できない。しかし、憲法及び刑訴法の精神に照らせば、受忍義務否定説に与すべきは明らかである」とする。

 他方で、取調べ禁止説について多田は次のように述べる。「証拠収集方法としての被疑者取調べを否定し、取調べを被疑者の権利としての『告知と聴聞』の機会と捉える見解もある。しかし、そのよって立つ訴訟観自体に問題があるだけでなく、現行法の解釈としても無理がある」とし、「さらに、現行法上、身柄拘束中の被疑者取調べは許されないとの主張も展開されているが、解釈論としても現実論としても、説得性に乏しい」とする。後者は、澤登佳人(新潟大学名誉教授)、横山晃一郎(九州大学名誉教授)らの見解のことである。有力少数説であるが、一九八条一項は、逮捕・勾留中の被疑者の取調べを認めているため、支持は広がっていない。

 取調べの法的性質について、多田は次のように述べる。「受忍義務肯定説は、受忍義務を認めても供述義務を課すわけではないとして、身柄拘束中の被疑者取調べを任意処分に分類する。しかし、取調べという形での拘束を肯定する以上、強制処分と解すべきである。これに対し、受忍義務否定説は、供述だけでなく、取調べに応じるか否かの自由をも認めるのであるから、取調べは任意処分ということになる」。

 最後に黙秘権について、多田は「本条二項は黙秘しうる事項を限定していないから、被疑者はすべてを黙秘することができる」とする。憲法三八条一項は「自己に不利益な供述」を強要されないと定めているが、黙秘権の範囲は自己に不利益な事項だけではなく、すべてが含まれるという趣旨である。具体的には氏名等の黙秘が問題となる。判例は氏名は黙秘権の対象ではないとするが、学説は氏名も黙秘権の対象と解している。

Saturday, December 15, 2012

取調拒否権の思想(2)


黙秘権

 

 前回は、黙秘権を行使して取調を拒否し、そのために出房拒否を実践した例を紹介した。この実践は黙秘権行使に新しい局面を拓くものであり、しかも取調をめぐる法理論にも重要な問題提起となっている。取調拒否権が浮上するからである。取調に際して黙秘することから一歩踏み込んで、黙秘権行使のために取調そのものを拒否する思考である。そこで黙秘権とは何かの基本に立ち返って、より詳しく検討することにしよう。

 黙秘権(自己負罪拒否特権)は、例えば、次のように定義される。

 「自己帰罪拒否特権ともいう。何人も、自己に不利益な供述を強要されないこと(憲三八Ⅰ)、即ち、自分自身に罪(=刑事責任)を負わせる(ないし加重する)結果となる供述を拒否できる権利である。自己に不利益な供述には名誉や財産上の不利益は含まない。アメリカ合衆国憲法の自己負罪(セルフ・インクリミネーション)に由来する。被疑者・被告人については、利益・不利益を問わずいっさいの供述を包括的に拒否できる(刑訴二九一Ⅱ・三一一)ので、黙秘権とも呼ばれる(そもそも供述義務がない)。証人は、一般に出頭・宣誓・供述の義務があるが、『自己が刑事訴追を受け、又は有罪判決を受ける虞のある証言』は拒否できる(刑訴一四六)。議院の審査・国政調査における証人が、当該内容の証言を拒否することも保障する。」(『コンサイス法律学用語辞典』三省堂)。

 さらに、黙秘権の告知について、次のように整理される。

 「刑事訴訟法一九八条二項は、捜査機関が被疑者の取調に際して、予め自己の意思に反して供述する必要がない旨を告げなければならないと規定する。また、同二九一条二項は、裁判長に対し、起訴状の朗読が終わった後、被告人に対し、終始沈黙し、または個々の質問に対し陳述を拒むことができる旨を告げることを要求する。これらを黙秘権の告知という。」(同右)

以上のことを整理すると、いくつかの論点が交錯することになる。

第一に、憲法上の権利であるのか、それとも刑事訴訟法上の権利であるのか。ここで注意するべきことは、右のように憲法三八条一項「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」を引証するだけで十分なのかどうかである。憲法三六条は「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」としているので、重要条文であることは言うまでもない。だが、それだけではない。三六条、三八条の前提に、憲法一三条が「すべて国民は、個人として尊重される」とし、自由権と幸福追求権を定めていることを忘れてはならない。

第二に、誰の権利であるのか。被疑者、被告人、証人その他が列挙されている。ここでも、憲法一三条などを前提として、原則論としては、すべての者の黙秘権が想定されなければならない。そのうえで、法律上のそれぞれの扱いが定められている。取調拒否権を論じる本稿では、以下、被疑者の黙秘権を中心に検討する。

第三に、権利告知の要請と、その効果が問題となる。権利告知は、憲法の明文の要請ではないが、それに準ずるものと理解するべきである。

さらに、第四に、黙秘権行使の帰結も重要である。権利である以上、黙秘権を行使したことを理由に不利益推定をしてはならないというのが通常の理解である。

 

取調受忍義務論

 

実務では、被疑者について取調受忍義務論が採用されている。とりわけ身柄拘束された被疑者には取調受忍義務があるのが当然であるかのごとき実務が支配している。身柄拘束されていない被疑者についても、しばしば事実上の取調受忍義務が課されていると言って過言ではない。

実務における被疑者の取調受忍義務論は、一方で捜査機関の被疑者取調権を前提とし、同時に、被疑者の出頭・滞留義務を根拠としている。

刑事訴訟法一九八条一項は「検察官、検察事務官又は司法警察職員は、犯罪の捜査をするについて必要があるときは、被疑者の出頭を求め、これを取り調べることができる。但し、被疑者は、逮捕又は勾留されている場合を除いては、出頭を拒み、又は出頭後、何時でも退去することができる。」と定めているので、被疑者に対する取調の強制権限と、身柄拘束されていない被疑者には出頭拒否を認めている体裁なので、身柄拘束されている被疑者には出頭義務だけでなく滞留義務もあると解釈されている。

取調受忍義務論には疑問が少なくない。ここでは福井厚(京都女子大学教授、元法政大学教授)の教科書『刑事訴訟法講義[第五版]』法律文化社、二〇一二年)から引用しよう。福井には他にも『刑事訴訟法[第七版]』(有斐閣)、『刑事訴訟法学入門[第三版]』(成文堂)、『刑事法学入門[第二版]』(法律文化社)がある。

「実務は、一九八条一項但書の『逮捕又は勾留されている場合を除いては』という文言を根拠に、逮捕・勾留中の被疑者取調を強制処分と考えている。学説の中にも、逮捕・勾留中の被疑者には、捜査官の取調を受忍する義務があり、捜査官の出頭要請に対して被疑者は出頭を拒み、又は出頭後退去することはできないとするものがある。出頭義務・滞留義務を肯定しても、供述自体を強制することにはならないというのであろう。しかし、被疑者には、憲法上、黙秘権が認められている。この黙秘権は包括的なものであり、黙秘権を保障する見地に立てば、取調受忍義務を肯定することはできないであろう。また、逮捕・勾留は積極的な取調のために設けられている制度ではなく、逃亡及び罪証隠滅を防止すると言う消極的な機能を果たすための制度であり、従って逮捕・勾留が取調受忍義務を生ぜしめるという見解には、理論上、重大な疑問がある。取調目的の身柄拘束を認めることは、被疑者・被告人に訴追側と対等の地位を認める当事者主義に悖る思想であると言うべきであろう。そもそも、強制処分法定主義からすれば、逮捕・勾留中の被疑者に逮捕・勾留とは別個独立の処分である取調受忍義務を負わすのであれば、そのための(一九八条一項但書とは別の)明文の根拠規定が必要だと言うべきである。」

ちなみに、取調受忍義務肯定論者としては、検察関係者のほか、団藤重光(東京大学名誉教授、元最高裁判事)があげられている。他方、否定論者としては、平野龍一(元東京大学総長)、石川才顕(日本大学名誉教授)、光藤景皎(大阪市立大学名誉教授)、松尾浩也(東京大学名誉教授)、田宮裕(立教大学名誉教授)、小田中聡樹(東北大学名誉教授)などがあげられている。

取調受忍義務をめぐる議論は、黙秘権論だけではなく、未決拘禁(逮捕・勾留)論、訴訟構造論にも及ぶ理論問題として展開されてきた。そうした射程も考慮に入れつつ、取調拒否権の立場から光を再照射する必要がある。

 

救援連絡センター『救援』520号(2012年8月)

Thursday, December 13, 2012

「日本におけるヘイトスピーチ 私たちはどう立ち向かうか」集会アピール

「日本におけるヘイトスピーチ 私たちはどう立ち向かうか」集会アピール

世界各地においてヘイトスピーチ(憎悪発言)の問題はより顕著になり、重大な人権侵害をもたらし
ています。日本ではこの問題についての理解はまだ不充分ですが、マイノリティを対象にした暴力的なヘイトスピーチや差別発言の事件は頻繁に起きており、適切な対応や行動が求められています。

そのため、私たちは、2012 年11 月20 日東京において、そして11 月24 日大阪において、「日本に
おけるヘイトスピーチ 私たちはどう立ち向かうか」と題する集会をもち、マイノリティに対するヘイ
トスピーチによる差別事件について報告を受けました。

在日コリアンに対するヘイトスピーチでは、たとえば、2009 年12 月4 日に「在特会」による京都朝
鮮第一初級学校襲撃事件が起きました。この事件は刑事裁判により有罪が確定しましたが、判決理由には人種主義的動機は反映されませんでした。犯行者たちが事件現場を撮影してインターネットの動画サイトに流したことで、差別による被害は何重にも広がりました。被害者に与えた被害と影響は甚大であり、学校側は民事裁判に訴えました。裁判は現在係争中です。心理的ケアなどを含む包括的救済が必要であるにもかかわらず、被害者は放置された状態です。

被差別部落民に対しては、たとえば、2011 年1 月22 日、奈良県の水平社博物館前において差別的な街頭宣伝事件が起きました。水平社博物館は犯行者である「在特会」の関係者に対して民事訴訟を起こし、2012 年6 月25 日、被告に賠償金支払いを命じる判決が言い渡されました。犯行者たちはこの事件も録画撮影をし、動画サイトに流しました。部落に関連する差別的発言とアジテーションの一部始終がインターネット上で公開されたことで、原告はもとより周辺住民や教育関係者をはじめ多くの人びとにさらなる精神的動揺と不安を与えました。この事件においても、差別発言や差別行為を直接裁く法律がないために、実質的には差別が野放しにされた状態です。

公人の発言について、たとえば、2010 年12 月に前東京都知事は同性愛者に対して深刻な差別発言を公的な場で行いました。発言に対して、性的マイノリティに属する人びとを含む多くの人びとが傷つき憤りを感じ、さまざまな抗議行動に出ました。しかし、発言者からは「謝罪」も「撤回」の言葉もなく、社会的にも深刻な問題であるとの認識は広がっていません。前東京都知事はこれまでにも「三国人」発言や「ババァ」発言など差別的で扇動的な発言を繰り返してきました。こうした公人による差別発言は前東京都知事に限らずこれまでも数多く起きていますが、それに対して国が何らかの措置をとったことはなく、さらにはそうしたことを許さない社会的認識も欠如しています。

これら報告を受けて私たちはヘイトスピーチの問題を以下のように確認します。

1.ヘイトスピーチの本質はマイノリティ集団を傷つけ、おとしめ、排除しようとする言動による暴力
であり、人種、民族的出身、国籍、世系、ジェンダー、性的指向、性的アイデンティティ、障がいなど
の理由に基づく差別行為であって、社会に構造的に存在する他の差別行為と一体となり、日常的にマイノリティに属する人びとを苦しめている。

2.ヘイトスピーチは被害者の存在そのもの、とりわけアイデンティティを否定するものであるがゆえ
に、その尊厳、人格権を傷つけ、心身の状態や日常的な行動、ひいては人生全体に悪影響を与え、自死にまで至らせることもある。

3.ヘイトスピーチ、なかでも人種主義的ヘイトスピーチは、一般社会に人種的、民族的マイノリティ
に対する憎悪、悪意、蔑視を充満させ、平等に基づく平和的、友好的な諸人種・民族間の関係を破壊し、マイノリティに対する物理的暴力、ひいてはジェノサイドをもたらす。4.ヘイトスピーチについて、特定人に向けられたものについては侮辱罪など現行法においても使えるものはあるが、充分に機能していない。また、不特定人に向けられたものについては、人種差別撤廃条約第4 条(c) の「公の当局・機関による人種差別の助長・扇動を認めないこと」以外には規定がなく、また同条項は日本においてまったく機能していない。

現状報告および確認事項を踏まえ、私たちは国(立法、司法、行政)および地方自治体、および国連に対して次のように要請します。

国(立法、司法、行政)および地方自治体に対して:

1.被害者原告が民事訴訟で勝訴したケースも含む「ヘイトスピーチ」に関係する事件について直ちに調査を行い、2013 年1 月14 日提出期限の人種差別撤廃委員会への条約実施にかかる政府報告書に含めること。

2.条約第4 条(c)項を踏まえ、公人による重大な差別発言による事件の現状報告と政府の見解を、次回の人種差別撤廃委員会への日本政府報告書に含めること。

3.政府および国会は、2010 年の人種差別撤廃委員会の勧告パラグラフ11 にしたがい、日本における人種的、民族的マイノリティの構成および差別の状況について、直ちに全国的な調査を行うこと。調査の項目を含む調査方法については、事前に当事者団体および差別の問題に取り組むNGO と協議し、関係する個人のプライバシーと匿名性を充分尊重しながら、任意の自己認定に基づき行うこと。

4.すべての国家公務員および地方公務員、とりわけ法執行職員に対する人種差別撤廃を含む国際基準に沿った人権教育を実施すること。

5.ヘイトスピーチを含む人種差別行為を禁止する法律および条例を制定すること。

6. ヘイトスピーチに対し、人種差別撤廃条約第4条をはじめとする国際人権法、憲法、民法、刑法などの現行法を効果的に機能させること。

国連に対して:

1. 人種差別撤廃委員会(CERD)に対して、2012 年8 月28 日の人種主義的ヘイトスピーチについてのテーマ別討論のフォローアップとして一般的勧告を作成すること、特に;

 さまざまな形態の人種主義的ヘイトスピーチについての情報収集と、表現の自由を確保しながらも、人種差別撤廃条約第4条により禁止されるべきヘイトスピーチの形態、要素、規制方法を具
体化し、

 人種差別撤廃条約のもと、特に差別にさらされやすいとされるグループのヘイトスピーチからの
保護について政府がとるべき具体的行為を明確にすること。

2.国連人権理事会に対して、各加盟国における人種差別の規制や防止に関する法的・行政的措置、およびヘイトスピーチ(あるいは扇動)に関する実態とその対抗措置について状況を把握すること。CERDの人種主義的テーマ別討論や国連人権高等弁務官事務所による扇動についての専門家ワークショップを踏まえ、ヘイトスピーチ全般についてのパネル討論を開催すること。このテーマについての独立専門家もしくは特別報告者の設置の可能性も含め、効果的にこの問題に取り組んでいくための行動をとること。

最後に、私たちは次のように決意します。

1.この問題について今後も継続して監視し、国および地方自治体に対する要請を行い、実施させる。

2.この問題については「法律」「社会科学」「個別事件」「市民社会運動」などの異なるレベルで議論あるいは取り組みが行われている。そうした議論や取り組みに参加協力していく。

3.本集会の内容を含めた報告を国連人権機関、とりわけ人種差別撤廃委員会に提供する。さらに、本集会で共有された事件を含み、事実の記録を蓄積していき、人種差別撤廃委員会の日本報告書審査および自由権規約委員会の日本報告書審査(2014 年3 月予定)に向けたNGO レポートに反映させる。

4.上記要請を各関係団体のウェブサイトなどで公表することを含め、この問題について継続して社会に広く訴えていく。

2012 年11 月24 日
「日本におけるヘイトスピーチ 私たちはどう立ち向かうか」東京集会・大阪集会
人種差別撤廃NGO ネットワーク(ERD ネット)

*2012年12月17日、誤字訂正。

取調拒否権の思想(1)


取調拒否の実践

 

 本年三月三一日に開催された救援連絡センター総会において、代用監獄(留置場)に逮捕・勾留された被疑者による取調拒否の実践が報告された。逮捕されたAは、警視庁三田署において、

取調拒否、点呼拒否、ハンストを宣言した(ハンストは体力等を勘案して勾留決定まで)。Aの取調拒否(出房拒否)の実践は非常に示唆的であり、理論的にも検討を深める必要があるので、以下、やや詳しく紹介したい。

  二〇一一年二月二〇日、沖縄高江での米軍ヘリパッド建設に反対する反戦デモで、アメリカ大使館前を通るコースを申請したが、都公安委員会にコース変更処分されたので、当日、デモをボイコットして歩いて大使館まで行く戦術に切り替えた。集合場所・新橋駅前では、警察が情宣に対して、公安条例違反の無届集会だと恫喝を加えていた。大使館前までの移動中も、警察は「公安条例違反の無届デモだ」と、参加者を萎縮させようとしていた。

Aは、麻生邸リアリティーツアー不当逮捕事件国賠訴訟の事務局をしているので、このような公安条例弾圧に非常に腹が立ち、悪宣伝を繰り返す警察車両の梯子に登って口頭で抗議をした。拘束されないようにすぐに降りた。警察は、大使館に抗議をさせないために手前でピケを張っていた。不当不法なピケを久しぶりに見ると腹が立ち、再度警察車両の梯子にのぼり指揮官に抗議をした。すぐに降りたが、群がった警察官はAを拘束し、突然の「検挙」の掛け声で逮捕された。

Aは、梯子に登ること自体は何の違法行為にもならないと考えていたし、抗議自体も口頭によるもので、物理的な実力行使とは程遠いものであった。赤坂署に連行されるまでの間、私服刑事に「被疑事実は何か」と聞いても、具体的な被疑事実、罪名は答えなかった。後に被疑事実とされたのは警察官の胸を殴打したとのデッチ上げの公務執行妨害であった。

赤坂署での弁解録取では、逮捕自体が被疑事実すら告げられない違憲な逮捕だとして即時の釈放を要求した。「手続に異議があるので、六法全書を持ってくるよう」要求したが、「便宜供与になる」と言うので、「ならば便宜供与になるといった発言のみを録取書に記載せよ」と言ったが、取調刑事は拒否した。

署の前で仲間が抗議行動をしていたので、「接見させろ」のコールに呼応して、取調室でシュプレヒコールをあげたところ、数人がかりで体を押さえつけられ、ある刑事がひじでAの喉を圧迫した。数時間たって、弁護士接見が入ったので、押収品目録を宅下げするよう要求したが、「赤坂署は改装中の仮施設で留置設備がない、だから書式もないから無理だ」などと無責任なことを言うので、弁護士とともに抗議した。Aは喘息もちなので病院診察を要求し、慶応大学病院の診察を経て、三田署に移送された。

 

出房拒否戦術

 

イラク反戦以降付き合いのある仲間は、市民運動家、いわゆるノンセクト、あるいはアナキストだったりするが、街頭闘争で多く逮捕されてきた。仲間が逮捕されれば救援するし、救援された仲間は次の弾圧の救援をするといった相互救援のなかで経験を共有してきた。「黙秘」の話が出た時に「そもそも取調自体を拒否すれば、あの長時間の苦痛はないのではないか」、「取調したって何も話さないんだから、黙秘権っていうならそもそも出ていかなくてもいいんじゃないか」という雑談をしたことがある。興味を持って調べた仲間から、包括的黙秘権と取調受忍義務という概念を教えてもらい、さらに調べてみたらどうもその点を争った判例もないようなので、「次に入ったらやってみるか」と笑いあっていた。そこで、Aは三田署に留置されるや、取調拒否を宣言したのである。

Aは「供述は任意であり、そもそも黙秘を公言しているのだから、取調室に行く必要がない。強制的に引きずってでも連れて行くつもりなのか。もしそうするなら徹底的に争うぞ」と言った。すると、留置担当官は「強制的には連れて行けないけど、取調べの刑事さんに直接言ってもらえる?」と言うので、 「言うために出て行ったら、なし崩しに取調べになる。行かない」と返すと、それで終わった。他の日も呼びには来るが、「出ない」と言えばそれまでであった。

警察側は何を聞きたがっているのか探りを入れようと思って一度出房したが、人定程度のことしか聞かれなかったので、早々に切り上げさせて房に戻った。救対に警察の動向を知らせるために出たわけだが、無意味だと思い直して、以降はやめて、出房拒否を貫いた。

取調室に入れば、長時間にわたって身体的精神的苦痛を受けるから、そもそも出ないというのは非常に健康にいいという。

検察庁での検事調べに対しては「黙して語らずとだけ書くように」と言い、すぐに終わった。その後、三田署に検事が調べに来たが、出房しないでいたら、留置担当官は警察の調べとは違う困った様子で、「頼むから直接検事に言ってくれ」と言われ、取調室ではなく弁護士接見に使う面会室でやるというので面白がって出てみた。もちろん被疑事実については何も述べず、逆に「写真や映像を見ても被疑事実が確認できない」という言質をとった。

Aは、仲間に出房拒否を勧めている。実際に 九・一一弾圧と竪川弾圧では何人か出房拒否を実践した。警察の対応はまちまちで、「引きずり出すよ」と留置係に言われた者もいれば、捜査担当刑事が留置場に入ってきて「引きずりだしてやる」と言われた者もいる。前者は無理せず、結局は出房したようだが、後者は拒否を貫徹した。

Aは「当然権力の反撃もあるので楽観できませんが、転向強要・自白強要の温床である密室から自由であることの意義は大きく、自白中心主義を解体するための強力な武器になると思います。新たな捜査手法として黙秘の不利益推定も目論まれていますから、これまで以上に黙秘の意義を強調すべきです」と語る。

以上がAの取調べ拒否の実践である。これまで黙秘権行使の重要性が唱えられてきたが、黙秘権行使にはそれなりの覚悟が必要でもある。取調室で刑事に囲まれて、延々と嫌がらせ攻撃にさらされ、黙秘を貫くのは容易ではない。黙秘権を行使するということは、取調べの質問には答えないことである。答える必要がないのだから、そもそも取調室に行く必要もない。それならば、出房拒否をするのが穏当かつ効果的な黙秘権行使である。そこで、次回は取調拒否権の確立のために検討を加えたい。

 

救援連絡センター『救援』519号(2012年7月)