Monday, March 04, 2013

ヘルマン・ヘッセ博物館

ヘルマン・ヘッセ博物館                                                                           *                                                                                               ルガーノからバスで15分のモンタニョーラにヘルマン・ヘッセ博物館があるので、行ってきた。ヘルマン・ヘッセといえば『車輪の下』『郷愁』『デーミアン』だ。青春時代の読書。というか、それしか知らない。まったく無知だったので博物館で勉強してきた。                                                                                *                                                                                          ヘッセは、1919年から1931年にかけてモンタニョーラのカーサ・カムッツィの4部屋に住んだ。普通の一軒家だ。それが1997年に、地元のヘルマン・ヘッセ財団の努力により博物館になった。                                                                                                  モンタニョーラは小さな山の上にあるので、ヘッセは部屋の窓からルガーノ湖を見下ろした。当時は部屋からルガーノ湖が見えたと言うが、現在は他の建物があって、見えない。南スイスの温暖な気候と、ティチーノの山々と湖の風景がヘッセにはあっていたようだ。ヘッセはこの地で40歳代の主要な作品を書いた。『シッダールタ』『ナルシス・・』『ガラス玉遊戯』など。また、色彩豊かなティチーノの風景を水彩画で描き始め、千枚もの作品を残したという。かなり早い時期にベルンでヘッセ絵画展も開かれている。「早い時期」というのは、ヘッセがドイツでは嫌われ貶められていた時期があり、ノーベル文学書を受賞したのは1946年で、ヘッセ中期以降の作品がドイツで普及したのもそれ以後だ。第二次大戦中のドイツではヘッセの本は出版できなかった。『ガラス玉遊戯』はスイスで出版されている。つまり、世界的作家として知られるようになるよりもずっと以前に、ヘッセの水彩画の個展が開かれていた。                                                                                       年譜によると、ヘッセは父親がバルト系ドイツ人でエストニアの出身のため、出生時はロシア国籍だったという。のちにドイツ国籍に。家庭の事情もあって学校になじめず、教育を受ける機会が制限され、後に15歳で学校に通った時に6歳児のクラスだったとか。書店に勤務した時期に読書に励み、独学で文章を書き始め、それが出版されて、作家になっていく。南ドイツやスイス(バーゼルやベルン)で青少年時代を過ごしたが、作家として自立したのち、ティチーノにやってきてモンタニョーラに居を構えて主要作品を書いたので、スイス市民権も取得した。                                                                                        第一次大戦時に一度は志願兵になろうとしたが、戦争の現実を知って反戦派になり、反戦の文章を書いた。本名では出せなくなっても、別のペンネームを駆使して書きまくった。ナチスの時代には当局に疎まれ、ヘッセ作品はドイツでは出せなくなった。その時期ヘッセはユダヤ人救出に努力を傾けたという(博物館の説明に書いてあったが、日本語ウィキペディアには書かれていない)。1946年にノーベル文学賞を受賞したのも、作品の評価とともに、反戦とユダヤ人救出に励んだドイツ人作家としての評価もあったのではないだろうか。                                                                                                                           博物館には、ヘッセの水彩画、使った絵具、クレヨン、机、文具、傘、麦わら帽子、直筆手紙、写真などが展示されている。アジア旅行のお土産品も。水彩画は絵葉書として販売しているが、他に、エルンスト・ヴュルテンベルガーが描いたヘッセ(1905年)、ハンス・シュツルゼネッガーが描いたヘッセ(1912年)があり、ハーディ・コールがヘッセの写真(1935年)をもとに描いたヘッセ像(1995年)があり、いずれも絵葉書になっている。どれもよく特徴を表現した人物画だ。コール画は麦わら帽子姿で好感が持てる老人だ。また、1962年に亡くなった時、モーツアルトを聞きながら静かに息を引き取ったということになっている。家族がモーツアルトをかけたのは事実かもしれないが。                                                                                                                                                                                                                   博物館は、時々、地元のアーティストと協力した企画展、講演会、映画鑑賞会、コンサートもやるそうだ。