Thursday, October 31, 2013

反論権の理論を学ぶ

曽我部真裕『反論権と表現の自由』(有斐閣)――ヘイト・クライム、ヘイト・スピーチ関連の議論の中で、対抗言論や反論権が取りざたされることがある。しかし、ごく一般的な意味で言葉を使っていて、不正確な議論が多い。というか、反論権については、憲法教科書のごくありきたりの説明しか知らないので、少し勉強しなくては、と思っていたところ、本書が今春出版されていたので、読んでみた。著者は京都大学大学院准教授の憲法学者。本書は反論権を重んじてきたフランス法の専門研究書であり、難しくて理解が及ばないところもあったが、私なりに勉強になった、と思う。第二章の「プレス反論権法の現代的展開」で、新しい反論権や、ルペンショックの解説の部分は特に面白かった。第三章「視聴覚メディアの自由と反論権法の展開」では、プレスの場合と、視聴覚メディアの場合で、反論権の適用方法が違うことを知った。差異について、納得はできていないが。フランス反論権法から著者が引き出してきた「自己像の同一性に対する権利」はよくわかるが、日本の議論の文脈にうまく乗るのかどうかは良くわからない。むしろフランス的特殊性と言われて終わるのではないだろうか。終章「反論権と表現の自由」で、著者は「本書の検討の結果をもう一度まとめなおせば、フランスにおいては、反論権法は、手続的に理解された『自己像の同一性に関する権利』の保護という、日本と比較すればきわめて広範な人格権ないし人格的利益の保護を図りつつも、メディアの自由との関係では原理的には強度の緊張関係に立っており、この緊張関係を経験的な楽観論によって現実的に解決するという均衡の上に立っているといえる。また、委縮効果との関係についても、反論権法は、その機能による多様かつ『噛み合った』議論の流通の促進効果と反論権法による委縮効果との均衡の上に成立しているといえよう」としている。なるほど。本書は、個人に即した反論権法の議論を検討しており、人種や民族に関わるヘイト・クライム、ヘイト・スピーチとは別論ではあるが、考え方を学ぶという意味ではいい本だ。また、対抗言論とはほとんど重なりがないこともよくわかった。

人権委員会一般的意見35号審議(2)

31日午前、人権委員会(HRC、国際自由権規約委員会)は、一般的意見35号の審議だった(CCPR/C/107/R.3)。前回の継続で、5章「不法又は恣意的拘禁からの釈放手続きの権利」の訂正条文草案の審議と、7章規約9条とその他の条文との関係」の審議だった。報告者のニューマン委員が順次説明し、他の委員が質問や意見。ほとんどシャニィ委員、ブジ委員、ファタール委員、ケーリン委員が発言した。マジョディ委員も時々。大半の委員は発言なし。どうでもいいことを一言発言するくらい。これでいいのかと思うが、「人身の自由と安全」で、基本的に刑事手続きに関する議論なので、刑事法専攻でない委員はあまり発言しないのだろう。拘禁の際の裁判官面前引致の議論の途中で、裁判所courtとは何かをめぐる議論が少々紛糾した。ニューマン委員が、自分は独自のcourt概念には関心ない、あくまでも自由権規約9条のcourtを念頭に置いているとして、当たり前のことを述べていたが、議論では、拘禁命令権限を有するのがcourtなのか、それとも被拘禁者がアピールしうるのがcourtなのか、という形になり、tribunalはいつcourtになるのかと言っていた。ちょっと理解できず、議論についていけなかった。軍事法廷その他各種の法廷を念頭に置いての議論だろうが、結局、ニューマン委員が粘って説得して、規約9条を前提とした議論に戻った。おもしろかったのは、パラグラフ58の議論で、規約9条と規約6条(生命権)との関連について、ニューマン委員がoverlapという表現をした。「9条と6条の射程範囲が重複する」という意味だと思っていた。ところが、いろんな意見が出たすえ、スペインの委員が「スペイン語にはそれに対応する言葉がない」と言い出し、スペイン語で適切な言葉を示していた。他の委員が「それはcollateralだろう」と言うと、ニューマン委員も「私もcollateralならすっきりする」と言った。実に興味深く、かつ悩ましい対話だった。日本語で「重複」と考えていたが、途中で「競合」か「連合」かなと思ったが、collateralと言われると「付随的って、どいうことだ」と悩んでしまう。各言語における言葉のイメージの差異を痛感させられた。審議は結局、パラグラフ58で時間切れとなった。残り59~71は来年3月の会期になる。議長は、できれば3月会期でまとめたいと言っていた。

Wednesday, October 30, 2013

ヘイト・クライム禁止法(39)ポーランド

拷問禁止委員会に提出されたポーランド政府第5・6回報告書(CAT/C/POL/5-6. 15 November 2012)にヘイト・クライムの法と政策に関連する記述があるので、簡潔に紹介する。『ヘイト・クライムとの闘いに関する法執行官プログラム(LEOP)』が2006年以来実施されている。プログラムは内務省が組織し、欧州安全協力機構(OSCE)民主的制度・人権局の協力で、警察で実施されている。2008年9月、スルプスカの警察学校で「反差別・警察フォーラム」が開催され、警察及び、マイノリティ団体代表やNGOからも参加した。プログラムは2つの内容。1つは、警察官のための多面的な教育訓練システムで、2009年9月、警察の指揮官レベルに行われた。中央レベルで、トレーナーのためのヘイト・クライムと闘う5日間の専門コースである。専門コースは、4種類のコースとなっているが、50人の警察官が受講した。もう1つは、警察専門家、OSCE専門家、NGOなどが講師となる、地方レベルの1日訓練で、警察官対象である。ポーランド各地で行われ、これまでに2万人の警官が受講した。さらに、『ヘイト・クライム――トレーナーのためのガイドライン』を出版した。他方、2007年、「差別と効果的に闘うための検察官の役割」というプロジェクトを立ち上げ、人種、民族的出身、宗教、宗派、年齢、性的志向に基づく差別と闘う検察官育成を行い、ワークショップに240名の検察官が参加した(以上、報告書58~59頁、パラグラフ263~270)。差別の予防に関連して、現在、刑法改正の議論をしている。刑法草案119条「その国民、民族、政治又は宗教的意見の故に、又は宗教的信念がないことの故に、並びに、性別、ジェンダー、年齢、障がい又は性的志向に基づいて、人の集団、又は特定個人に対して、暴力を用い、又は不法な脅迫を行った者は、3月以上5年以下の自由剥奪刑に処する」。刑法草案256条「ファシストまたはその他の全体主義国家システムを公然と促進し、又は、国籍、民族的出身、人種、宗教ないし宗教的信念のないこと、性別、ジェンダー、年齢、障がい又は性的志向における差異を理由に、憎悪を煽動し、流布し、又は侮辱した者は、罰金、自由制限罰、又は二年以下の自由剥奪刑に処する」。刑法草案257条「その国民、民族、政治又は宗教的意見、宗教的信念のないこと、の故に、並びに、性別、ジェンダー、年齢、障がい又は性的志向、あるいは他人の神聖不可侵性を侵害するその他の理由に基づいて、人の集団又は特定個人を公然と中傷した者は、三年以下の自由剥奪刑に処する」(以上、報告書88頁、パラグラフ432)。

拷問禁止委員会傍聴(ポーランド報告書審査)

30日午前の拷問禁止委員会CATはポーランド政府第5・6回報告書審査だった。ポーランド政府代表団は10人ほど。NGOは30名弱。政府題補油が「議長Chiarman、ありがとうございます」と言って報告を始めようとしたところ、グロスマン議長がただちに「私はChiarmanではなくChiarpersonです」。ポーランド政府報告書は99頁495パラの充実した内容で、リスト・オブ・イッシューごとにまとめて回答している。政府報告では報告書の内容には一言も触れず、報告書に記載していないこととして、自由権規約選択議定書を批准したこと、欧州人権条約第一三議定書を批准したことなどを説明した。マリノ・メネンデス委員が、素晴らしい報告書とプレゼンテーションだと言っていた。どの政府にも社交辞令でいう事になっているのとは違って、明らかにほめていた。ただし、過剰拘禁の実態について厳しい質問をしていた。ワン委員(中国)は、監獄の医療、無国籍者の処遇を質問した。ゲア委員は、2012年の監獄の置ける自殺が100件以上として、その内容を質問した。ドマ委員は、刑法246条の拷問罪の規定は条約の定義と異なるとして、その理由を問いただした。刑法246条と247条は、これでは条約が求める水準と言えないと指摘していた。2010年改正による新刑法246条「公務員、又はその命令下で行動する者が、特定の供述、説明、情報又は言明を得るために、他人に対して、実力、不法な脅迫、又は責苦を用いた場合、それが身体的であろうと精神的であろうと、1年以上10年以下の自由剥奪刑に処する。」

Tuesday, October 29, 2013

拷問禁止委員会傍聴

29日は爽やかな秋晴れ。晩秋で風は冷たいが。午後の人権委員会は秘密会議になっていたので、拷問禁止委員会のモザンビーク政府報告書審査を傍聴した。   司法大臣が、昨日の委員からの質問に回答し、また委員が質問し、再回答して終わり。回答は全て司法大臣が一人で行った。他の男性スタッフ6人はついに一言も話さなかった。NGOの傍聴は30数名。回答の最初は、「刑法には拷問罪の規定はないが、暴行罪、傷害罪その他の規定で処罰することが出来る」というものだ。日本政府と同じパターンだ。監獄における暴力事件の統計がないことを認め、今後調査すると言っていた。その他、多くの点での不備を認めつつ、長い戦争や内戦の遺産であるとして、将来に向けて是正を約束していた。オンブズマンや国際人権機関のないことについて、国内人権委員会が亜ルト説明していたが、行政の一機関であって、独立性も専門性もない。マリノ・メネンデス委員は、監獄における拷問や暴力を誰が捜査するのかやはり明らかでないと繰り返しの質問。女性に対する暴力の不服申し立ても不備と指摘。グロスマン委員は、拷問を犯罪と定義できない理由を追及した。トグシ委員は、NGOによると過剰拘禁は260%と指摘。過剰拘禁についてはいろんな数字が挙げられていたが、いずれにしても200%を超えている。再回答で司法大臣は、新しい刑務所建設を進めていると始めたので、分かっていない、と思ったが、続けて刑期の短縮化を図っていること、家族との面会を増加させたことを説明していた。

Monday, October 28, 2013

拷問禁止委員会51会期はじまる

10月28日、ジュネーヴのパレ・ウィルソン(国連人権高等弁務官事務所)で、拷問等禁止条約に基づいて設置された拷問禁止委員会(CAT)51会期がはじまった。11月22日までの日程である。政府報告書の審査は、モザンビーク、ウズベキスタン、ポーランド、ラトビア、ベルギー、ブルキナファソ、ポルトガル、アンドラ、キルギスタン。そのほかに、個人通報申立ての秘密審理や、拷問予防小委員会との合同会議などが予定されている。パレ・ウィルソンでは、国際自由権規約に基づく人権委員会(HRC)もまだ開催中なので、同時に両方に出ることが出来ない。今日は拷問禁止委員会を傍聴した。まずはモザンビーク政府第一回報告書の審査。モザンビークはつい先日、人権委員会でも第一回報告書の審査だった。レバイ司法大臣(*女性。以下、*は女性)率いる代表団は7人。NGOは40人以上いて満席状態だった。大半が白人だ。アフリカ系の人は一部のみ。そして、過半数が女性だ。マリノ・メネンデス委員(スペイン)は、刑法に拷問罪がないことを指摘、拷問の捜査と訴追が適切になされていないのではないか(特に監獄における拷問)、外国人の移送手続きがノンルフールマン原則に違反していないかと指摘した。グロスマン委員(チリ)は、性的アイデンティティに関してLGBTに対する拷問、またテロリスト捜査マニュアルにおける拷問予防の有無、拷問に関する不服申立ての実効性を質問した。ブルニ委員(イタリア)は、過去の戦争の遺産として拷問が残されていると指摘し、244%の過剰拘禁の理由を質問した。ドマ委員(モーリシャス)は、警察、検察の捜査官の数や、拷問関係で有罪となった人員数を質問した。ベルミー委員(*モロッコ)は、過剰拘禁と拘禁条件について質問。スヴェアス委員(*ノルウェー)は、拷問被害者のリハビリテーションや、イスタンブール・プロトコルの位置づけを質問。トグシ委員(グルジア)は、メンタルヘルスに関する法と政策の不備を指摘した。ゲア委員(*アメリカ)は、被収容者間の暴力事件や、戦時における子ども兵士をいかに社会統合しているのかを質問した。回答は29日午後だが、その時間は、人権委員会の一般的意見35号の審議なので、そちらに行かなければならない。夜は、La Republique, Epesses Lavaux,2010. 1552年から続くPatrick Fonjalllazだが、う~ん、期待ほどではなかった。

Saturday, October 26, 2013

女たちのサバイバル作戦を読む

上野千鶴子『女たちのサバイバル作戦』(文春新書)――「総合職も、一般職も、派遣社員も、なぜつらい?」/「追いつめられても手をとりあえない女たちへ」/「ネオリベ時代を生き抜くために」。女性学、ジェンダー研究者で、東大名誉教授、NPO法人WAN理事長の著者の最新刊だ。初期の『家父長制と資本制』『近代家族の成立と終焉』、中期の『ナショナリズムとジェンダー』、そして近年の『おひとりさま』『男おひとりさま道』など、著者の本を随分と読んで学んできた。「慰安婦」問題については全く立場が異なり、著者の見解を批判したこともあるが、他の問題では一方的に学ばされてばかりだ。本書は雑誌『文學界』に12回連載したという。文學雑誌に、この内容を連載というのもユニークだが、文学もあらゆる人間生活や意識に関わるのだから、当然なのかもしれない。フェミニズムの旗手として驀進邁進突撃してきた著者も、ついに「高齢者」の仲間入りだと言うが、本書でも「上野節」はますます健在だ。均等法から現在までの30年間の日本社会の変化、とりわけ労働市場の変化と、女性たちの労働、暮らし、意識を追いかけている。それを「ネオリベ改革」の30年と特徴づけ、同時に著者が「働いてきた30年間」だという。「そのときどきに、わたしが怒ったり、笑ったり、してやられたと悔しがったりした同時代の記録でもあります」。なるほど、第1章「ネオリベ/ナショナリズム/ジェンダー」、第2章「雇用機会均等法とは何だったか?」から、第11章「ネオリベの罠」、第12章「女たちのサバイバルのために」に至る歩みは、この30年の労働市場の変貌を総合的に扱っている。欧米諸国の労働市場/女性の社会進出の変容と、日本の逆行現象が見事に対照的なのも、欧米と日本のネオリベへの対応の仕方の差異による。そこで日本企業は成功をおさめ、女性を抑え込んだ。しかし、それが日本企業のアキレス腱にもなっている。そのことを著者は徹底解剖し、そこに女たちのサバイバルのための突破口を見出そうとしている。それにしても、読めば読むほど、男社会の狡猾さ、卑劣さ、駄目さがよくわかり、暗澹たる気分になるのは私が男だからだが、たぶん、女が読んでも、本書の読後感は暗く、暗く、ただ暗澹としているのではないだろうか。最後のサバイバル作戦も、せいぜい「ひとりダイバーシティ」と「持ち寄り家計」だ。これは著者のせいではなく、日本国家と社会のせいだが。340頁の充実した新書で、定価800円は格安、お得だ。ざっと読み飛ばすのではなく、1章ごとにゆっくり読むと本当に勉強になる。もっとも、いつも勉強させられ、なるほど、なるほど、と呟いてばかりなのも癪に障るので、一つだけささやかな抵抗をしておこう。第7章「オス負け犬はどこへ行ったのか?」は、女ではなく、男の話だ。ここが一番面白いともいえる。著者は「男おひとりさま」の「社会的孤立」を取り上げて、「あなたは正月三が日誰にも会いませんでしたか?」にイエスと答えたのが前期高齢者男性61.7%、後期高齢者男性46.8%という調査記録を紹介し、「正月は家族の時間。ひとりものがもてあます地獄の時間」だと決めつける。果たしてそうだろうか。仕事も雑用もなく、全く自由な年末年始の1週間に、ふだんは忙しくて読めない本をひたすらまとめ読みするのは「至福の時間」ではないだろうか。

Friday, October 25, 2013

人権委員会一般的意見35号審議(人身の自由と安全)

24日午後3~6時、ジュネーヴのパレ・ウィルソン(国連人権高等弁務官事務所)で開催中の人権委員会(Human Rights Committee、自由権規約委員会)は、「一般的意見35号草案、第9条:人身の自由と安全」の審議を行った。人権委員会は、各国政府の報告書を審査した結果として、それぞれの国に対して勧告的意見を出す。日本政府に対しても、代用監獄の廃止や死刑の廃止・制限などさまざまな勧告的意見を出してきた。それとは別に、特定の国を相手としたものではなく、一般的意見を出すことができる。これまで例えば、34号は2011年に出された意見・表現の自由、19号は2008年の家族の保護、15号は2008年の外国人の地位などについて、34の意見を出してきた。今回は35号の草案を審議している。審議は10月17日、18日にも行われ、24日が3回目だった。今後、29日、31日にも審議が予定されている。草案(CCPR/C/107/R.3)は人権高等弁務官事務所のウェブサイトに掲載されている。草案は全7章71パラグラフからなる。A4版で21頁。229もの註がついた、詳細な意見である。註の大半は、これまでの人権委員会の一般的意見や各国への勧告的意見である。目次を示すと、Ⅰ総論、Ⅱ恣意的拘禁と不法拘禁、Ⅲ逮捕及び刑事訴追の理由の告知、Ⅳ刑事訴追と結びついた拘禁の司法的統制、Ⅴ不法又は恣意的拘禁からの釈放を求める手続きをとる権利、Ⅵ不法又は恣意的逮捕・拘禁の補償の権利、Ⅶ自由権規約9条とその他の諸規定との関係。24日の審議はパラグラフごとの逐条審議形式で行われた。担当の報告者はアメリカ政府推薦のニューマン委員。本人が国連に届け出たプロフィルによると、ニューマンGerald Neumanは1952年生まれのアメリカの法律家で、ペンシルバニア、コロンビアを経て現在ハーバード・ロー・スクール教授(人権、アメリカ憲法、比較憲法)。著書は『人権』、『憲法に対する外国人:移民、国境、基本法』がある。60歳にもなるのに、なんと2冊しかない! 大丈夫かと少し心配になる。審議は、Ⅳ刑事訴追と結びついた拘禁の司法的統制、に始まり。Ⅴ不法又は恣意的拘禁からの釈放を求める手続きをとる権利、の途中まで進んだ。ニューマン報告者が各パラグラフについて少し説明し、他の委員が質問や意見を出しながら進める。シャネ委員(フランス)がフランスの情報や欧州人権裁判所の情報を提起していた。ケリン委員(スイス)も欧州人権裁判所の判例に触れていた。ブジ委員(アルジェリア)もアフリカの経験を話していた。ナイジェル・ロドリー委員は一言も発言しなかった。パラグラフ32から46まで消化した。一例として、日本にとっても非常に重要なパラグラフ37を示しておく。37. Once the individual has been brought before the judge, the judge must decide whether the individual should be released or remanded in custody, for additional investigation or to await trial. If there is no lawful basis for continuing the detention, the judge must order release -- in this respect the hearing required under paragraph 3 also performs the function of proceedings under paragraph 4. If additional investigation or trial is justified, the judge must decide whether the individual should be released pending further proceedings because detention is not necessary, an issue addressed more fully by the second sentence of paragraph 3. In the view of the Committee, detention on remand should not involve a return to police custody, but rather to a separate facility under different authority, because continuing custody in the hands of the police creates too great a risk of ill-treatment. 逮捕後すみやかに裁判官面前に引致して、身柄拘束について裁判官が決定するが、その後、警察留置場に連れ戻してはいけないという当たり前のことである。なお、最後のbecause以下は若干修正されたが、ちゃんとメモをしていないので、ここに紹介できない。

Thursday, October 24, 2013

日本NGOブリーフィング(人権委員会)

24日午後2~3時、ジュネーヴのパレ・ウィルソン(国連人権高等弁務官事務所)会議室で、「市民的政治的権利に関する国際規約ICCPR」に基づく人権委員会(Human Rights Committee)委員に対する日本関連NGOによるブリーフィングが行われた。日本政府報告書が提出され、2014年に審議される。NGOレポートも多数提出され、すでに人権高等弁務官事務所のウェブサイトに掲載されているが、今回は直接のブリーフィングでアピールした。参加した委員は、フリンターマン、マジョディナ、マタディーン、モト、ニューマン、シェニィ、ウォーターヴァル、ザイベルト・フォア(委員の顔と名前を覚えていないため、不正確かも)。NGOは14人参加。最初に、反差別国際運動IMADRと部落解放同盟が、橋下大阪市長が部落出身であることを侮蔑的に取り上げた週刊朝日事件を手掛かりに、日本における部落差別の現状を報告した。次に日弁連代表が、朝鮮学校差別(無償化問題、助成金など)、最近のヘイトスピーチ状況(新大久保、鶴橋)、死刑問題などについてアピールした。さらに、国際人権活動日本委員会JWCHRが、日本航空客室乗務員不当解雇問題や、学校における日の丸君が代強制問題を報告した。国境なき人権は、宗教の自由を報告。さらに、言論表現の自由を守る会が、最新の問題として秘密保全法などを取り上げた。最後に、監獄人権センターCPRが拘禁条件について報告した。私は資料係と写真係をしていたので、質疑応答をきちんと聞いていないが、日の丸君が代問題について教師だけでなく子どもへの影響について、刑事裁判における99%有罪という実態について、部落差別は日本だけかアジア地域の問題か、女性に対する暴力について(「慰安婦」問題も一言)等の質疑応答がなされた。終了後、パレ・ウィルソンのレストランカフェでコーヒーを飲みながら、ほんのわずかの時間だけど委員に直接訴えることができて、わざわざジュネーヴに来てよかったと、お互いに労をねぎらった。

日本と中国の普通の人々の日常から

中島恵『中国人の誤解 日本人の誤解』(日経プレミアシリーズ)――『中国人エリートは日本人をこう見る』のジャーナリストが、抗日や反中の不幸な関係を読み解くために、政治や経済の対立ではなく、市民生活の中で普通の人々がどのような知識と意識をもっているのかを明らかにして、無用な誤解の構図を乗り越えようとする。日本と中国で燃え上がるナショナリズムの対立が、政治やメディアで取りざたされ過激なる一方で、庶民は意外に冷静だ、などと済ますのではなく、目でチアに踊らされる庶民もいれば、さしたる関心を持たない庶民もいれば、日本にあこがれる中国の庶民もいる。反日は、日本批判というよりも、実際には中国政府批判だったり、生活への不満だったりする場合もある。そうした局面を、中国人留学生、ビジネスマンだけでなく、中国の大学生や、日常生活を営んでいる市民から聞き取りを行い、すれ違いの中身に迫ろうとする。相互の誤解のも渦を明かり身に出すことで、次の「理解へのステップ」となる。

Wednesday, October 23, 2013

自由権規約委員会の新しい審議方式

23日、パレ・ウィルソンで開催された、「市民的政治的権利に関する国際規約」に基づく人権委員会(Human Rights Committee、自由権規約委員会)は、ウルグアイ政府第5回報告書(CCPR/C/URY/5)の審議を行ったが、その際、従来と異なる、新しい方式を採用した。新しい審理方式を、岩沢委員はlist of issues firstと呼び、他の数人の委員はlist of issues priorityと呼んだ。「リスト・オブ・イッシュー優先方式」である。リスト・オブ・イッシューLOIとは、政府報告書が提出された後、人権委員会委員が当該政府に対して特に重視して質問する事項をまとめた文書であり、実際の審議の際にもLOIを中心に質疑応答が行われてきた。とはいえ、政府報告書、NGO報告書、LOIなどのやり取りの手間がかかり、文書が増える一方であった。文書は翻訳しなければならないので、その手間と経費もかかる。そこで手続きの簡素化と経費節減が求められ、合理化したのが新しい「リスト・オブ・イッシュー優先方式」である。すべての国に適用されるのではなく、国家の側が選択できることになっていて、ウルグアイ政府が初めて選択した。22日までのモザンビークなどは旧式で審議が行われ、23日のウルグアイが初めて新方式であった。ウルグアイ政府報告書は、LOIごとに政府の回答を記載している。23日の審議でも、各委員は、「LOIの5番と6番と10番について質問します」という具合に、LOIを中心に質問した。岩沢委員は、この方式が、国連にも委員会にも締約国にも有益である、と説明していた。なるほどと思ったが、一つ抜けている。国連にも委員会にも政府にも有益だが、NGOにとっては有益とは限らない。23日の審議を聞いただけなので、問題点はまだ明らかとはなっていないが、直ちにわかるのは、「LOIに取り上げられなかった事項は、審議の際に取り上げられる可能性がほとんどない」ということであり、したがって、NGOとしては「LOIに取り上げてもらうためにいっそうの努力を傾けなければならなくなる」ということである。つまり、NGOの間で「LOIの椅子取りゲームが熾烈になる」。ウルグアイ政府の審議には、政府から6人ほどが来て、フィデリコ・ペラサ大使らが説明していた。傍聴は30人ほどだが、うち10人が日本人だった。4人は岩沢委員のところの大学院生。残りはNGOだ。ウルグアイは、人身売買、DV、自由を奪われた女性(被拘禁者)、被収容者の健康衛生、マイノリティ保護、難民などを詳しく取り上げた。質疑では、その前に、条約の裁判所による履行・適用があるか否か、国内人権機関とオンブズマンはどうなっているかが重視されていた。また、ICC法が制定されているが、「ICCローマ規程の国内法化」と言えるのか否かも質問が出ていた。夜はJWCHRメンバーで会食。Cornalin,Claudy Clavien, Valais 2012.

Tuesday, October 22, 2013

国際自由権規約の人権委員会傍聴

22日午前中、ジュネーヴは凄い霧だった。10メートル先が真っ白状態。午後から晴れたので、パレ・ウィルソン(国連人権高等弁務官事務所)で開催中の人権委員会(Human Rights Committee)に傍聴に出かけた。「市民的政治的権利に関する国際規約」に基づいて設置された人権委員会である。わかりやすく国際自由権委員会と呼ぶこともある。以前は、国連人権委員会(Commission on Human Rights)があったので、両者を混同する人も多かった。後者は今は、人権理事会(Human Rights Council)で、やはりHRCなので誤解を招きやすい。Human Rights Committeeの略称はCCPRだ。22日はモザンビーク政府第一回報告書の審査だった。政府代表は7人いて、うち4人が女性。報告も女性が担当した。モザンビークはタンザニアと南アフリカの間にあるが、ポルトガルの植民地だったので公用語はポルトガル語だという。内戦が続いたこともあって、今回初めての報告書だ。死刑はない(死刑廃止条約を批准)、拷問もないと始めて、男女平等についてジェンダー政策を説明していた。国会議員は女性が40%だという。1997年には28%しかなかったという。「28%しか」と言うのなら、日本はどうするのかという数字だ。女性に対する暴力や、教育におけるジェンダー、出産後のケアのことも報告していたのは珍しい。委員からは、国際人権条約の適用事例はないのか、人権侵害被害者の賠償請求権の内容が不明だ、国内人権機関はどうなっているのか、過剰拘禁や刑事施設の収容条件はどうかなどの質問が相次いだ。傍聴席は、最前列にアフリカ系の人がいたが、3列目に白人が6人ならんで座った。隣の女性に聞くとポルトガル系だった。他方、2列目に日本人の若い男性が4人座っていた。背広にネクタイで、どう見ても人権NGOではないな、と思っていたら、日本政府推薦で委員となっている岩沢委員があれこれ話しかけて指導していた。大学院生か学生だろうか。夕方は、人権委員会で日本の人権状況についてロビー活動をするためにジュネーヴに来た国際人権活動日本委員会JWCHRのメンバーと打ち合わせ。

エピソード金正恩

髙英起『金正恩』(宝島社新書)――著者は、共著『いまだから知りたい不思議の国・北朝鮮』『金正恩の北朝鮮』のある在日コリアン2世のジャーナリスト。朝鮮学校出身だが、朝鮮学校、朝鮮総連、金日成・正日を厳しく批判してきたようだ。本書も、金正恩と朝鮮の政治・経済・社会に徹底した批判の目を向ける。この種の本は、圧倒的多数が、ひたすら朝鮮非難に終始する。一部の本は、「そうはいっても、日本植民地支配や戦後の分断に原因がある」という形で冷静な思考を求める。その程度でも「北を擁護するな」と猛烈な攻撃が集中する。本書は、朝鮮を厳しく非難してはいるが、一面では著者の「愛情」ともいうべき「思い」も伝わってくる。米ロ中日韓に取り囲まれた半島北部の政治と経済が、いかなる制約の下にありつつ、いかなる「主体」によって、今日の状況に至っているのかを問う。また、政治や経済だけではなく、「権力闘争」の経過や、後継者伝説のつくられ方も解説する。第3章「お笑い!金正恩伝説」では、苦境に立つ3代目を権力者として安定させるための必死の努力を、さまざまに分析する。市民生活の激変にも目を向け、消費生活の状況を伝える。近年、ピョンヤンでは携帯電話が急速に普及していることは、他の著作でも伝えられてきたが、本書でも確認できる。新しい音楽集団(アイドル)としてのモランボン楽団の紹介も楽しいが、それ以上に、日本におけるK-POPとNK―POP(North Korea Pop)の対決イベントのエピソードがおもしろい。著者は自身のことを、「北朝鮮当局からすれば変節者の一人に過ぎない」としつつ、最後に次のように述べている。「もし、あなたが祖父や父と違った近代的な指導者として、北朝鮮を近代的な国家に変わらせたいという思いがあるのなら、まずは住民のための政治、すなわち『先民政治』を行い、人民大衆の息子として生まれ変わるべきである。」

Monday, October 21, 2013

伝統アート「アフリカの記憶」

パレ・デ・ナシオン国連欧州本部新館で、アフリカ連盟主催の「アフリカ伝統アート:アフリカの記憶」(アフリカ連盟50周年記念)が開かれている。「われわれはアフリカ人であることに誇りを持っている。行動する男性や女性のように思考せよ。思考する男性と女性のように行動せよ。兄弟姉妹たちよ、いまこそあなたたちの時である。いまこそアフリカの時である。その瞬間を捕まえよ」。展示されているのは、大半が、立像(人間、動物)、坐像、頭部、仮面である。小さなものを入れて100点近く。大きいものでも等身大以下。木製、ブロンズ、テラコッタ、ミックスト・メディア。マリ、ガーナ、コートジボアール、シエラレオネ、リベリア、ギニア、ナイジェリア、カメルーン、ガボン、コンゴ。象のマスクがおもしろかった。

世界の宗教見取り図

橋爪大三郎『世界は宗教で動いている』(光文社新書)--世界の宗教一覧とか、世界の紛争地地図とか、この種の本は昔からよく出ている。地図やカラー写真つきの豪華本もよく見たように記憶している。本書が少し違うのは、社会学者が、ビジネスパーソンの基礎教養として語った記録ということだろうか。地図や写真はない。著者はこのところ『ふしぎなキリスト教』『なぜ戒名を自分でつけてもいいのか』『世界がわかる宗教社会学入門』などを出しているそうだ。著者の本は昔、何冊か読んだが、この20年ほど読んでいなかった。私とは関係ない本だからだ。成田空港の書店でまとめ買いしたときに、「まえがき」に<さまざまな宗教の「相互関係」を考えなければならない。・・・この点を掘り下げてみる>と書いてあったので、購入した。もっとも、「掘り下げている」とはとても思えない。「第一講義 ヨーロッパ文明とキリスト教」では、一神教としてのキリスト教の形成と思想を略説している。それはわかるが、キリスト教の現場はいわゆる中近東だ。後にローマが舞台となり、はるか後にヨーロッパでプロテスタントが登場する話も出て来るが、第一講義は「ヨーロッパ文明とキリスト教」というタイトルにふさわしい内容になっていない。なぜか一つだけ掲載されている図「ユダヤ教成立当時の周辺状況」も、エジプト、パレスチナ、メソポタミアの歴史だ。キリスト教がいかにしてヨーロッパを形成したのかにもっと焦点を当ててくれるとよいのだが。第三講義の「イスラム文明の世界」は、よくあるイスラム紹介の焼き直しだ。個人的に面白かったのは、中国の儒教の解説で、EUと中国を対比している部分だ。これも著者の独創とは言えないが。全体として、小さな新書で世界の大宗教をごく大雑把に概説するという意味では、なるほどという著書ではある。

Tuesday, October 15, 2013

ただただスタンディング・オベーション

こまつ座『ムザシ』(井上ひさし作、さいたま芸術劇場)を観た。あっという間に終わった3時間の公演に感動し、ただただスタンディング・オベーション。演出の蜷川幸雄に泣かされてしまった。ちょっと悔しい。音楽担当の宮川彬良も素晴らしい。武蔵(藤原竜也)、小次郎(溝畑淳平)、乙女(鈴木杏)、沢庵(六平直政)、柳生(吉田鋼太郎)、まい(白石加代子)、平心(大石継太)らの演技もお見事。初演の話題の時に、「武蔵を藤原竜也?」と思ったのは、愚かだった。藤原竜也の武蔵、大した役者だ。溝畑淳平は今回初参加ということだが、若手らしくまっすぐに、しかものびのびと役にぶつかっているのが、なんとも爽快だった。そもそも井上ひさしの『ムサシ』という話を聞いた時に違和感があった。文学者評伝シリーズ、昭和庶民伝3部作、広島もの、そして東京裁判3部作と続いた井上ひさしのテーマとは異なると勝手に勘違いした。このため、今回初めて『ムサシ』を観た。しかし、21世紀の「テロとの戦争」の時代にふさわしい「殺すな」というメッセージが溢れんばかりの武蔵と小次郎の物語は、想像できなかった。原作を読んだ時に、一応理解したが、舞台で見て初めて本当に理解できた。長年の井上ひさしファンなのに、我ながらお粗末。いつもながら井上ひさしに脱帽。

Wednesday, October 09, 2013

日本の沖縄植民地支配を問い続ける

知念ウシ『シランフーナーの暴力』(未来社)                                                     『ウシがゆく――植民地主義を探検し、私をさがす旅』(沖縄タイムス社)、共著『闘争する境界――復帰後世代の沖縄からの報告』(未来社)で、沖縄の歴史と現状を根底的に考える視点と思索を提示した著者の「政治発言集」は、シランフーナー(知らんふり)の日本人の意識と行動を鋭く鮮やかに分析する。「日本人よ、沖縄の基地を引き取りなさい!」というストレートな問題提起にたじろぐ日本人は、シランフーナーに逃げ込むか、話題をすり替えるしかできない。日本の平和運動が沖縄の平和運動に連帯しているという姿勢では、「沖縄に米軍基地を押し付けているのは日本であり、日本人であり、そこには日本の平和運動も含まれる」という当たり前のことを見忘れる。忘れた方が楽だからだ。著者は「知らないふりは暴力であり、攻撃である」と踏み込む。日米同盟論に立ち、中国敵視政策を進めている日本政府や政策決定エリートだけの問題ではない。沖縄に癒されたがる観光客も、沖縄の平和運動を指導したがるヤマトの平和運動家も、沖縄米軍基地を撤去するための闘いの場であるはずの東京で何をしてきたか。何を成し得たか。何もなしえない日本人は、シランフーナに逃げ込むことで、実は「無意識の植民地主義」(野村浩也)に安住している。先住民族、朝鮮半島、台湾、アジア太平洋諸地域に対する植民地支配と侵略の歴史を直視せず、責任回避を続けてきた日本への重要な問いかけである。沖縄の米軍基地撤去は「日米の帝国主義の要をはずす」闘いである。日本帝国主義、植民地主義、そして人種差別との闘いが続く。日本で広く読まれるべき著作である。

Monday, October 07, 2013

ヘイト・スピーチと闘うために

有田芳生『ヘイトスピーチとたたかう!』(岩波書店)                                                               昨日は京都朝鮮学校襲撃事件民事訴訟で、京都地裁が、在特会の差別街宣は人種差別撤廃条約にいう人種差別に当たり、不法行為であり、高額の損害賠償と街宣差止を命じるという、非常に良い判決を出した。今朝の朝日新聞、毎日新聞、東京新聞、京都新聞、琉球新報、沖縄タイムズ、岐阜新聞などが社説で取り上げている。しかし、朝日新聞社説をはじめ主流は「表現の自由か、ヘイト・スピーチの規制か」という奇妙な二者択一を掲げる。毎日新聞に登場している識者もこの二者択一を唱える。これでは議論にならない。思考停止状態だ。「表現の自由を守るためにヘイト・スピーチを規制しなければならない」。こう考えるべきだ。「表現の自由だから規制できない」というのなら、EU加盟国すべてが処罰していることをどう説明するのか。EU諸国には表現の自由がなく、日本にだけ表現の自由があるとでも言うのだろうか。ヘイト・スピーチという言葉は今年になって日本で普及し始めた。議論の蓄積がない。このため初歩的知識すら持っていない法律家が多い。ジャーナリストも条件反射のごとく表現の自由と唱える。現場を知らず、被害実態を無視した議論である。本書は著名なジャーナリストで参議院議員の著者の、在特会などによる異常な差別街宣、ヘイト・スピーチとのたたかいの記録である。差別の現場へ行き実態を把握し、国会内で2度にわたって討論集会を開催し、国会質問でも取り上げ、研究者の意見に耳を傾けながら、著者はヘイト・スピーチといかにたたかうのか、思索し、議論し続けている。表現の自由は大切だが、ヘイト・スピーチの問題は必ずしも表現の自由の文脈で考えるべきではないことも指摘されている。人種差別撤廃条約を批准しながら条約の実施に後ろ向きの日本政府と法律家の限界を乗り越えるため、実態把握と、諸外国の法規制の調査を進め、公的な議論を呼びかける。とりあえず罰則のない人種差別禁止法をつくり、人権機関や救済機関をつくる。そのためにまず調査委員会をつくる。その前提としてヘイトスピーチ研究会を発足させると言う。著者は最後に、「法的規制は必要ないという専門家には、ぜひ各地の『現場』へ足を運び、デモの異様さを感じていただきたいのです。・・・そして被害者の声を直接聞いていただきたい」と述べる。巻末には、在特会を取材し続けてきたジャーナリスト安田浩一、ヘイト・スピーチ法に詳しい専門家・師岡康子との座談会が収録されている。

「それからのブンとフン」を見る

昨日は天王洲銀河劇場で、井上ひさし「それからのブンとフン」(こまつ座、ホリプロ)だった。1970年の井上ひさし小説出版デビュー作『ブンとフン』を、1975年に演劇用に脚本を作ったものだ。売れない作家・大友憤の小説「ブン」の主人公である4次元世界の泥棒ブンが小説から現実世界に飛び出て来て暴れる。次から次と盗みを働き、できないことはない大泥棒だが、やがて、形あるものではなく、人間の記憶を盗み、いやなやつからいやなところを盗み、重病人からその病を盗む。そして、人間が大切にしている「権威」を盗む。国家権力、社会的権威に対する公然たる挑戦である。『ブンとフン』を読んだのは大学2年か3年の時だ。その後も井上作品を読むと、かつて上智大学学生だった井上ひさしが東京四谷近くに住んでいたことがあるため、四谷、しんみち通り当たりがよく出てきた。当時、私は新宿区若葉町、四谷駅から徒歩5分のアパートに住んでいたので、まさに小説の現場だった。そんなこともあって、ますます井上ひさしを読んだ。その後、『吉里吉里人』の大ブレイクで、トップランナーになった井上ひさしは小説だけでなく、戯曲でも大活躍するようになった。その最初期の作品「それからのブンとフン」だ。紛争世代の学生運動、アポロ月着陸など、70年の時代背景が出てくるが、痛快軽快なドタバタ演劇では、ブンとフンの闘いにもかかわらず、結局、権威と権力が勝利を収め、「元に戻ってしまった」と呟くしかない状況になる。まさに「元に戻ってしまった」。時代状況の悪化に落胆した井上ひさしは、暗く冷たい地下牢に閉じ込められた作家・フンを絶望させることなく、懸命に立ち上がらせようとする。そこで幕が下りるのだが、次の闘いは井上ひさし自身がそれから40年近くかけて続けて行ったことになる。井上ひさしの分身であるフンを市村正親、泥棒ブンを小池栄子、フンと敵対する悪魔を新妻聖子、クサキ・サンスケ警察長官を橋本じゅんが演じる。いずれも好演、熱演だ。演出は栗山民也、ピアノは朴勝哲。                                                   こまつ座 http://www.komatsuza.co.jp/ 

Thursday, October 03, 2013

福沢諭吉神話徹底批判完結

安川寿之輔『福沢諭吉の教育論と女性論――「誤読」による<福沢神話>の虚妄を砕く』(高文研)                                                 『福沢諭吉のアジア認識』(2000年)に始まり、『福沢諭吉と丸山真男』(2003年)、『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』(2006年)に続いて、本書において、著者の福沢諭吉批判、そして福沢を「民主主義者」であるかのごとく虚偽の神話を作った丸山真男批判、その神話を無批判に継承している論壇、研究者に対する批判が完結した。『福沢諭吉のアジア認識』は衝撃的だった。韓国人や在日朝鮮人から福沢批判を耳にして、少しは知っているつもりだったが、自分で調べていなかったので、やはり<福沢神話>を逃れることはできない。福沢諭吉の侵略的姿勢とアジア蔑視と激しい差別には愕然とした。その福沢を民主主義者と持ち上げている日本の思想界の腐敗ぶりも徹底的に暴露されている。その後、慶応義塾関係者が安川への反論を試みて、論争が行われたこともあったが、今では安川批判はなく、むしろ、一部の論者は、安川の議論を無視して、相変わらずの福沢神話流通に励んでいる。13年経った今でも同様に、都合の悪いことは無視して、恣意的な引用と誤読をもとに福沢を持ち上げる例が次々と登場している。本書には、西澤直子『福沢諭吉と女性』(慶応義塾大学出版会、2011年)や宮地正人『国民国家と天皇制』(有志舎、2012年)への批判が含まれている。安川の徹底批判の姿勢も見事だが、いくら批判しても無視する「研究者」も「見事」だ。「見事」という言葉にもいろんな意味がある。本書末尾では、司馬遼太郎の「明るい明治」と「暗い昭和」の図式に対して、安川は「明るくない明治」と「暗い昭和」の連続性を探り、その「お師匠様」としての福沢諭吉を確認する。明治日本がなぜ、いかにして帝国主義国家として「自立」し、アジア侵略を積み重ね、アジア人蔑視と差別に精を出し、虐殺や日本軍性奴隷制度の歴史に突き進んだのか。近代日本総体の最高の「お師匠様」が福沢諭吉であったのではないか。そして、いまもアベとかイシハラが福沢諭吉を持ち上げている。

パテク・フィリップ博物館散歩

時計会社パテク・フィリップの時計博物館は、ジュネーヴ市内、プランパレ公園やジュネーヴ大学の近くにある。15世紀のドイツはニュルンベルクやアウグスブルクでつくられたものから現代までの時計が陳列されている。ポケット時計(懐中時計)、腕時計、ペンダント時計、柱時計、置時計。いつに多彩な装飾時計の数々が並ぶ。金、銀、メノウ、貝など各種の装飾が見事だ。肖像画、キリスト教にちなんだ図柄も目立つ。古いものは一般販売ではなく、王侯貴族からの注文品だろう。ロシアの歴史やポーランドの歴史を描いたシリーズものもある。時計も精巧だが、図柄もさまざまに工夫を施してあり、精密だ。金、銀、真珠、宝石類をちりばめた見事な装飾品だ。時計が壊れて止まっても、装飾だけで意味がある。時計や時間の研究に関する書籍も多数陳列されている。また、時計づくり工房の様子を、当時使った専用机、工具、写真で展示している。今や電子時計の時代だが、逆に希少価値があって、一層素敵な装飾が求められる。一番気になったのはルソーの系譜だ。16~17世紀ジュネーヴの時計の歴史にルソーの名が刻まれている。1549年にジュネーヴにやってきたディディエ・ルソーの孫ジャン・ルソーは時計職人だった。その息子がダヴィド・ルソーで、孫がイザク・ルソー、ともに時計職人だ。3代続いた時計職人の家に1712年に生まれたのが、ジャン・ジャック・ルソー。職人としてはできそこないで口先ばかり達者だったジャン・ジャックは、パリに出て『人間不平等起源論』『社会契約論』の著者になる。著作ではいつも「ジュネーヴ市民」と名乗っていたが、啓蒙の旗手ルソーは一時、時の人として故郷に凱旋するも、やがて権力に追われる身となり、故郷では出版禁止の憂き目にあう。最後は「ジュネーヴ市民」と名乗るのを止めることになった。今、ルソーの生家はジュネーヴ旧市街に残され、観光客が訪れる。パテク・フィリップ博物館ではジャン・ジャックのことは名前しか出てこないが。