Tuesday, July 29, 2014

「慰安婦」ヘイト・スピーチ処罰法が必要だ(5)

三 東アジアにおける歴史否定発言犯罪の根拠                                             
                                                          
1 保護法益論                                
                                         
 「アウシュヴィツの嘘」罪の保護法益論に学んで、日本軍国主義による侵略と植民地支配の犠牲となった諸民族の歴史的経験をどのように考えるべきだろうか。                                    
 ここで確認しておくべきことは、第一に、日本軍国主義による被害が、犠牲を被った人々にとって非常に重要で深刻な歴史的体験であったことである。第二に、それにもかかわらず、第二次大戦後の国際情勢の下で、被害者に対する謝罪も補償も何一つ行われることがなかった。第三に、一九九〇年代以後、被害者たちが立ちあがったことによって、ようやくこの問題が国際的に取り上げられるようになり、重大人権侵害の被害者の補償を受ける権利が議論されるようになった。第四に、それにもかかわらず、日本政府は誠実な謝罪と補償を行うことなく、さまざまな弁解をし続けている。そして今日、安倍晋三政権は村山談話の見直しや、河野談話の見直しなど、歴史修正主義の立場から、歴史の事実を否定しようと躍起になっている。このため二〇一三年には、経済的社会的文化的権利に関する国際規約に基づく社会権委員会は、日本政府に対して「慰安婦」に対するヘイト・スピーチに適切に対処するように勧告を行った。                                           
 つまり、侵略の事実の否定、植民地支配の事実の否定、南京大虐殺の事実の否定、「慰安婦」の否定は、これらの巨大な歴史的犯罪の被害を受けた人々の「人間の尊厳に対する攻撃」となるのではないか。この点を今後きっちりと議論していく必要がある。                                
 その際に気をつけなければならないことは、古典的刑法理論の保護法益論に囚われる必要はないことである。刑法理論では保護法益を個人的法益、社会的法益、国家的法益に分類してきたため、ヘイト・スピーチや「アウシュヴィツの嘘」の保護法益もこれに強引に押しこんできた面がある。                                              
 しかし、「慰安婦の嘘」処罰を検討するならば、そこではアジア各国の被害者とその子孫の法益が焦点になるはずである。もちろん在日朝鮮人をはじめとする在日・在留の外国人に対するヘイト・スピーチも規制が必要であるが、「慰安婦の嘘」に関してみると、古典的な保護法益論では説明がつかなくてもやむを得ない面があるのではないだろうか。                                     
 「慰安婦の嘘」発言は、被害を受けた人々の歴史的アイデンティティを否定し、同時に彼ら彼女らを嘘つき呼ばわりすることで二重に傷つけている。そのことを通じて彼ら彼女らの社会参加の機会を奪い、制限する。被害者は日本という地理的空間に存在するのではなく、日本が侵略と植民地支配を行った全域に存在している。次項で見る第二次大戦の戦後処理の文書も国際文書であり、連合国、そして国連による文書が基礎になっている。その意味で、国際的法益についても検討する必要がある。                                    
 国際的法益については、すでに一九九七年の国際刑事裁判所規程の採択、それに基づいた国際刑事裁判所の開設と運用実務によって、国際刑法が飛躍的に展開を示してきたのであり、個別国家においても刑法が国際的法益を保護する諸規定を有する例が増えている(前田朗『戦争犯罪論』、『ジェノサイド論』、『侵略と抵抗』、『人道に対する罪』いずれも青木書店)。                                                
                                                 
2 第二次大戦の戦後処理                                                 
                                                 
 それでは、保護法益の中核を成す歴史的事実、被害者集団の国際的・歴史的体験をどのように把握するべきであろうか。この論点になると、侵略や「慰安婦」問題の歴史認識をめぐる議論が巻き起こりがちである。                                      
 もちろん、歴史的事実をめぐって歴史研究を進化・深化させることは非常に重要である。侵略の事実について、安倍首相は「事実」を否定したり、「国際法」を否定したり、その議論は融通無碍に変化するが、とにかく都合の悪いことは次々と否定する姿勢である。安倍首相以外の論者も、都合の悪いところを見つけては否定してみることを繰り返している。その際に、あたかも歴史研究に基づいたかのようなポーズをとるために、あれこれの論文をつぎはぎすることになる。                                          
 しかし、そうした議論に拘泥しても筋違いの議論を繰り返すことになりかねない。ここでは端的に、第二次大戦時に行われた侵略や、それ以前からの植民地支配、そしてそこにおける非人道的犯罪を、当時の国際的評価の中で確認することが重要である。                                           
 第一に、カイロ宣言(一九四三年一二月一日)は「三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ」とした上で、「右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ」、「日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ」とし、最後に「前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス」としている。カイロ宣言は三大国による一方的な宣言であるが、次のポツダム宣言において、カイロ宣言の「条項ハ履行セラルヘク」と明示・確認されている。                                           
 第二に、ポツダム宣言(一九四五年七月二六日)は「無分別ナル打算ニ依リ日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ日本国カ引続キ統御セラルヘキカ又ハ理性ノ経路ヲ日本国カ履ムヘキカヲ日本国カ決意スヘキ時期ハ到来セリ」とした上で、「我等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス」、「吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ」として、日本政府に無条件降伏を迫った。日本政府は八月一四日、ポツダム宣言受諾を決定し、第二次世界大戦が終結した。                                         
 第三に、日本国の降伏文書(一九四五年九月二日)は「『ポツダム』宣言ノ条項ヲ誠実ニ履行スルコト」と明記している。                                           
 第四に、極東国際軍事裁判所憲章(一九四六年一月一九日)は「極東ニ於ケル重大戦争犯罪人ノ公正且ツ迅速ナル審理及ビ処罰ノ為メ茲ニ極東国際軍事裁判所ヲ設置ス」(第一条)とし、次の三つの犯罪について裁くことを明示した。                                         
(イ)平和ニ対スル罪 即チ、宣戦ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戦争、若ハ国際法、条約、協定又ハ誓約ニ違反セル戦争ノ計画、準備、開始、又ハ遂行、若ハ右諸行為ノ何レカヲ達成スル為メノ共通ノ計画又ハ共同謀議ヘノ参加。                                        
(ロ)通例ノ戦争犯罪 即チ、戦争ノ法規又ハ慣例ノ違反。                                     
(ハ)人道ニ対スル罪 即チ、戦前又ハ戦時中為サレタル殺人、殲滅、奴隷的虐使、追放、其ノ他ノ非人道的行為、若ハ犯行地ノ国内法違反タルト否トヲ問ハズ、本裁判所ノ管轄ニ属スル犯罪ノ遂行トシテ又ハ之ニ関連シテ為サレタル政治的又ハ人種的理由ニ基ク迫害行為。                                     
 これに基づいて極東国際軍事裁判所が設置され、東条英機ら被告人らの犯罪を裁く「東京裁判」が行われた。これとは別に横浜裁判や、アジア各地での「BC級戦犯裁判」も行われた。なお、東京裁判では人道に対する罪は明示的に適用されていないが、横浜裁判などでは人道に対する罪も適用された。                                         
 第五に、サンフランシスコ講和条約(一九五一年九月八日)は「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする」として、東京裁判を受諾することを定めている。                                        
 なお、国連憲章の敵国条項(第五三条、第一〇七条)も確認しておこう。安保理事会による強制行動を定めた国連憲章第五三条は、その第二項で本条1で用いる敵国という語は、第二次世界戦争中にこの憲章のいずれかの署名国の敵国であった国に適用される」としている。さらに、第一〇七条は「この憲章のいかなる規定も、第二次世界戦争中にこの憲章の署名国の敵であった国に関する行動でその行動について責任を有する政府がこの戦争の結果としてとり又は許可したものを無効にし、又は排除するものではない」としている。これは経過規定の一種であるが、東京裁判もこれに含まれるであろう。                                 
 日本政府は敵国条項の削除を最優先課題と唱えてきたが、国連憲章は改正されることなく、今も敵国条項が残っている。                                                
 以上をまとめると、日本が東アジア各地で行った戦争と植民地支配、その期間における戦争犯罪や人道に対する罪は、無責任な軍国主義による侵略であり、世界征服を狙った過誤であり、朝鮮人民は奴隷状態に置かれたのである。それゆえ、責任者は厳重に処罰される必要があった。                                        
 これらの事実を否定する発言は、悲惨で過酷な歴史的体験を余儀なくされた東アジアの被害者とその子孫の歴史的アイデンティティを否定し、彼ら彼女らを、侵略されても仕方のない人、奴隷状態に置かれてもやむを得ない人として位置づけることになる。それは被害者の人間の尊厳に対する攻撃であり、被害者の社会参加の機会を奪うことにもつながる。                    
 とりわけ、責任ある地位にある政治家や影響力のある人物がこれらの発言を繰り返すことは、被害者の人間の尊厳への攻撃となるばかりでなく、カイロ宣言、ポツダム宣言、東京裁判憲章及び判決などによって形成された戦後国際秩序の基礎に対する攻撃になる。このようなことを許していると、国際社会はカイロ宣言、ポツダム宣言などを何度も繰り返さなければならなくなるだろう。                                                       
 現に、一九八九年、北方領土返還交渉に際して、ソ連が北方領土領有の根拠として国連憲章の敵国条項を援用したことがある。二〇一二年、尖閣諸島問題に関連して、中国が国連総会で「日本が盗んだ」と繰り返し発言したのは、明らかにカイロ宣言を念頭に置いている。                                                   

ソ連や中国の発言の当否はともかくとして、日本が、第二次大戦後の国際秩序に挑戦的な姿勢を示すならば、国際社会は必然的にカイロ宣言、ポツダム宣言、東京裁判、あるいは敵国条項を想起することになるであろう。