Tuesday, July 29, 2014

「慰安婦」ヘイト・スピーチ処罰法が必要だ(4)

*『統一評論』584号                                      
                                         
東アジアにおける歴史否定犯罪法の提唱(二)                               
――「アウシュヴィツの嘘」と「慰安婦の嘘」                                  
                                            
一 はじめに                                       
                                       
 前回は西欧における「アウシュヴィツの嘘」処罰法、歴史否定発言処罰法の紹介を行った。その要点は、第一に、「アウシュヴィツの嘘」のような一定の歴史否定発言はヘイト・スピーチの一種である犯罪とされていること。第二に、ドイツだけでなく、一〇カ国もの刑法に規定されていること、である。                                  
 それを受けて今回は次の諸点について考えたい。第一に、なぜ「アウシュヴィツの嘘」を犯罪とするべきなのか。その保護法益論である。第二に、東アジアで同様の刑事立法をするべき積極的根拠である。「慰安婦の嘘」犯罪を制定するべき国際法及び歴史上の理由である。西欧の経験と努力の成果に学びつつ、東アジアでいかなる努力をなすべきかである。第三に、東アジアで制定するべき「慰安婦の嘘」犯罪の条文案である。最後に、この種の犯罪規定を設けることの現在的意義を考えたい。                                               
                                                           
二 なぜ「アウシュヴィツの嘘」を犯罪とするべきか                                          
                                                
 「アウシュヴィツの嘘」を公然と主張すると犯罪とされるのはドイツだけではなく、フランス、スイス、スペイン、ポルトガルなど多くの諸国に共通である。それではその根拠はどのように説明されているか。これまでこの点についての研究は、ドイツ刑法に即したものしかないと言ってよいであろう。                                          
 前回紹介したように、スイスでは、アルメニア・ジェノサイド否定事案について、最高裁が、当該犯罪は公共秩序犯罪であるとした。スペインでは、罪質に関連して、人間の尊厳に反するか否かが問われ、単なる伝達は人間の尊厳に反するとしても犯罪とはならないと限定している。しかし、処罰根拠や保護法益についての具体的な紹介がなされていない。
 他方、ドイツに関しては櫻庭総(山口大学専任講師)による周到な研究がある。以下では、櫻庭総『ドイツにおける民衆扇動罪と過去の克服――人種差別表現及び「アウシュヴィッツの嘘」の刑事規制』(福村出版、二〇一二年)に依拠して、ドイツの議論状況に学ぶことにする。                                                   
 櫻庭によると、民衆扇動罪の保護法益について、ドイツでは二つの見解が唱えられている。                                          
 第一は保護法益を「公共の平穏」と理解する。理由は、刑法第一三〇条の位置が刑法典各則第七章「公共の秩序に対する罪」の中に置かれているからである。従って、民衆扇動罪は、個人的法益を保護する侮辱罪とは性格が異なることになる。この見解に対しては、公共の平穏概念は不明確であるといった批判が差し向けられる。                                     
 第二は保護法益を「人間の尊厳」とする見解である。民衆扇動罪は第一義的に人間の尊厳を保護するものであり、公共の平穏は間接的に保護されると見ることになる。                                     
 実際には多くの論者が、人間の尊厳と公共の平穏の両方を保護するものと見ているようだが、両方を保護するにしてもどちらを優先して理解するかでさまざまに見解が分かれている。                                         
 刑法第一三〇条第三項の「アウシュヴィツの嘘」罪については、一九九四年改正に際して「人間の尊厳に対する攻撃」という文言が削除されたため、人間の尊厳を保護法益とすることでは説明がつかないとされ、第三項については公共の平穏で説明する見解が多いと言う。                                               
 他方、「歴史的事実」を保護法益とする見解も唱えられた。櫻庭によると、オステンドルフは次のように述べていると言う。                                           
 「ナチス犯罪という歴史的事実の否定を処罰する場合、犠牲者の追憶を保護するためにそれが行われるのは、ナチス体制の犠牲者の利害のためだけでもなければ、生き延びた当事者の利害のためだけでもない。ナチス支配により何らかの形で暴力及びテロを体験したすべての生存者が、自らの受苦への真実要求、つまり歴史的アイデンティティーのなかで保護されるべきなのである。それ以上に、この事実、そしてこの事実を知ることが、[過ちを]繰り返さないための最大の防止策なのである。それゆえ、意見表明の自由の制限に対する個人の利害関心を考慮することだけではなく、ナチス専制の再発防止という一般的利益も考慮されねばならない。」(櫻庭一六二~一六三頁)                                           
 櫻庭は「この見解はホロコースト否定表現の刑事規制の本質を言い表している点で注目に値しよう。しかしながら、それを保護法益と理解するかどうかは別問題である」とする。 その上で、櫻庭は人道に対する罪に着目する。                                            
「民衆扇動罪における『人間の尊厳への攻撃』に『過去の克服』を読み込む別の方法としては、それをナチス犯罪の典型である『人道に対する罪』の延長上に位置づけることも考えられよう。つまり『人間の尊厳への攻撃』概念における『共同体における同等の人格としての生存権を否定され、価値の低い存在として扱われる』という部分に着目し、民衆扇動罪をナチス犯罪である『人道に対する罪』の第一段階を防止する規定として理解するのである。」(櫻庭一七一頁)                                    
櫻庭はドイツにおける判例・学説を検討した結果、最後に次のように述べている。                                          
「ドイツの刑法第一三〇条をめぐる議論は、マイノリティに対する差別扇動行為をナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺の原因と言う構造的側面から把握し、『過去の克服』を内面化する試みに基づく刑法規範として結実した点に注目すべき意義がある。しかし、それは一九六〇年代の創設時のように、刑罰法規以外の精神的、政治的取組と一体化したものでなければ、実効性の観点からも、濫用の危険性の観点からも、批判を生むこととなるのである。」(櫻庭一七九頁)。                              
楠本孝(三重短期大学教授)は、ドイツにおける民衆扇動罪に関する判例を検討して、「個人の人格権として把握されるのは、人が主体的に作り上げてゆくものとしての人格であって、このような意味での人格について、人は価値尊重欲求を有しており、これを侵害するのが侮辱であり名誉毀損である。これに対して、人間の尊厳への攻撃とは、その人自身によってもどうしようもなく決定されている人格の中核部分も含めた人間存在そのものを否定し又は相対化しようとするものである。人間の尊厳は、人間それ自体に固有のものとして内在しているものであって、個人の業績を基準にして尊厳が割り当てられるといったものではない」とし、「さらに、人間の尊厳への攻撃とは、いわば人間の尊厳を破壊し尽くし、否定しさる場合だけを包含するものなのか、これを下回る攻撃は、人間の尊厳を傷つけても、『人間の尊厳への攻撃』とみなされないのか、ということも問題になる。人間の尊厳を尊重することの中に表現されているのは、人間を人格、すなわち、その素質に応じて自分自身をその特性において意識し、自由に自己決定し、自らの環境を形成し、かつ他者と交際しうる存在として認知することである。平等者が他の平等者と交際する可能性は、彼が平等者であることを否定された場合だけでなく、他者が彼に率直に、偏見なくかつ先入観なしに出会う可能性が深刻に制限されている場合も、既に侵害されている。他者を重大な犯罪的寄食者として表示することによって、他者との率直で、偏見なく、かつ留保なく交際し得る可能性は深刻に侵害される」と解説する(楠本孝「ドイツにおけるヘイト・スピーチに対する刑事規制」『法と民主主義』四八五号、二〇一四年)。                                                
他方、金尚均(龍谷大学教授)は、「ヘイトスピーチは、単に『公共の平穏』を害するから処罰されると解するべきではない。それは、一般的に社会におけるマジョリティからマイノリティに対して向けられる。民主主義は、全ての社会構成員が自分の存在する社会におけるさまざまな決定に参加することができるというのが基本である。しかし、ヘイトスピーチは、一定の属性を有する個人又は集団に向けられることによって、当該集団に属する個々の人々を蔑むことになる。それが意味するところは、彼らを同じ社会の民主制を構築する構成員とは認めないということにあり、それにより、民主制にとって不可欠な社会参加の平等な機会を阻害することになる。ヘイトスピーチの有害性は、主として、社会のマイノリティに属する個人並び集団の社会参加の機会を阻害するところにあり、それゆえ、ヘイトスピーチを規制する際の保護法益は、社会参加の機会であり、それは社会的法益に属すると再構成すべきである」と主張する(金尚均「名誉毀損罪と侮辱罪の間隙」『立命館法学』三四五・三四六号、二〇一二年)。                                                         

 保護法益を人間の尊厳と見るか、社会参加の機会を中心に理解するべきか、さらに議論が必要と思われるが、他の可能性も検討するべきである。