Thursday, July 30, 2015

ブラック企業批判ふたたび

今野晴貴『ブラック企業2――「虐待型管理」の真相』(文春新書)
「ブラック企業」批判の先頭を走る著者、POSSE、ブラック企業被害弁護団の協働の成果がまとめられている。前著ゆえに、ブラック企業から攻撃されてきた著者だが、事実に基づいて徹底批判を続けている。
「ブラック企業」とたたかう 今野晴貴『ブラック企業――日本を食いつぶす妖怪』(文春新書)
ブラック企業にたかる「ビジネス」批判 今野晴貴『ブラック企業ビジネス』(朝日新書)

本書の最初の問いは、ブラック企業が世に知られて、世論の批判も上がっているのに、なぜ若者たちが「ブラック企業に入ってしまうのか」。被害が拡大し続けているのか。「なぜ辞めないのか」である。就職情報は企業の宣伝なので、良い面しか見えない。ブラック企業であるとは見抜けない。それでも、入った後に気づけば辞めればいいのに、辞めないのはなぜか。そこに「虐待型管理」の恐ろしさがある。被害者の多くはブラック企業に積極的に入社し、また、自ら「辞めない」で働き続けている。この謎を解き明かすことで、著者は、ブラック企業だけではなく、若者が置かれた状況、日本社会論、日本的労働論を鮮やかに解明していく。読み応えのある新書だ。

Wednesday, July 29, 2015

世界でもまれな軍国主義国家 ヘイト・ジャパンの病理

日本国憲法は平和憲法で、前文の平和的生存権と9条があるから、日本は平和主義と言う誤解がいまだに一部にあるようだが、日本は世界でもまれな軍国主義国家になりつつある。この一年間、アベシンゾーを先頭に、安全保障法案だの積極的平和主義だのと言葉をごまかしながら、議論しているのは、ひたすら軍事力の増強と、積極的行使である。防衛費(軍事費)は世界有数であり、人口密度ならぬ「軍人密度」も世界有数の高さだ。米軍と自衛隊という世界最強の軍隊が蟠踞している。
世界を見渡せば、スコットランドでは独立を目指す国民投票で議論が沸騰し、ギリシアでは経済停滞と債務問題で紛糾し、キューバはアメリカとの国交改善で沸き立っている。グルジアは西側への接近策の一環として国名発音をジョージアに変えて喜んでいるし、コスタリカではエコツーリズムに拍車をかけケツールの保護と宣伝にいっそう力が入っている。韓国はMERS騒ぎからようやく立ち直り、アメリカは大統領選挙に向けて各党候補者のさや当て戦が始まっている。
世界広しと言えども、日本のように年がら年中、軍事力の行使を正当化する好戦的議論にふけっている国は、紛争地のウクライナやシリアくらいだろう。

アベシンゾーは国会の場で特定の国を名指しに集団的自衛権行使を論じ、誹謗中傷を繰り返している。メディアはそれを疑うこともなく、むしろ議論を沸騰させる役割を果たしている。国家とメディアが上からヘイトを煽り、差別、憎悪、暴力を呼び込もうと躍起になっている。ヘイト・スピーチがインターネットから出て来たとか、ザイトク集団がはじめたというのは間違いで、国家とメディアが懸命になって特定国、特定民族に対するヘイトを煽り続けている。クール・ジャパンという目先のごまかしにもかかわらず、実態はヘイト・ジャパンだ。ナショナリズム、レイシズム、ミリタリズムに染まった日本で、あらためて憲法の平和主義を活性化していく課題は大きい。

Sunday, July 26, 2015

希望を求めるナビ(蝶)の羽ばたき

中原道子『歴史は墨でぬりつぶせない――アジアの歴史と女性の人権』(スペース伽耶)
HOWS(本郷ワーカーズスクール)での講義・講演の記録をまとめた1冊。メインは「日本軍『慰安婦』問題の法的解決を」。四半世紀にわたる、日本性奴隷制の解決を求めるハルモニやロラたちの闘いを、ともに闘い続けた著者の日本政府批判は厳しく、鋭い。
だが、著者は政府や政治家だけの責任とは見ない。「慰安婦」問題を許し、放置し、解決しないままやり過ごしてきた日本社会批判、さらには自己批判をも含めた問いかけである。アベシンゾーやハシモトトオルらの暴言を許してきた日本社会の意識を徹底批判しなければ、何も前進しない。著者は、もはや「日本」に何も期待していないが、それでも諦めるわけにはいかない。日本社会構成員の一人として、日本女性の一人として、アジアの女性の一人として、著者は、「慰安婦」被害者が求める解決を追求し続ける。

ソウルのハルモニたちは、「慰安婦」問題の解決を求め、世界中の女性に対する暴力の解決を求めて、ささやかな希望をナビ(蝶)に託して、新たな歩みを踏み出した。ナビの羽ばたきは小さいが、かき消されることなく、いつか世界に達するだろう。夢も涙も、希望も絶望も、信頼も不信も、愛も憎しみも、すべてを内に包み込みつつ、そこから新しい人と人のつながりを求めるハルモニの闘いが続く。彼女たちの闘いを、自らの責任として引き受けてきた著者も、心を込め、願いを込め、ひたむきに羽ばたき続ける。後に続く無数の羽ばたきを信じて。

ヘイト・クライム禁止法(96-2)ルクセンブルク

政府が人種差別撤廃委員会に提出した前回(2004年)の報告書(CERD/C/449/Add.1. 15 May 2004)によると、刑法第四五七―一条は、口頭、文書又はその他オーディオビジュアル・メディアを通じてなされた、憎悪又は人種主義暴力の煽動を処罰する。同様に、自然人、法人、集団又はコミュニティに対する憎悪又は人種主義暴力を煽動することを計画した文書をルクセンブルク及び国外において、制作、所持、送付及び流布することを処罰する。刑事制裁は八日以上二年以下の刑事施設収容、及び/又は二五一以上二五〇〇〇ユーロ以下の罰金である。
結社の自由は憲法第二六条において保障される。ルクセンブルクは条約第四条の要請するように人種主義団体を特に禁止していない。しかし、一九二八年の非営利団体・基金法第一八条は、公共法秩序を乱す活動を行った結社を解散させる可能性を規定している。解散手続きは検察官又は第三者の申し立てにより民事訴訟を通じて行われる。刑法第四五七―一条は、差別、憎悪、人種主義暴力を煽動することを目的とし、又はその活動を行った団体に属するすべての者を処罰する。それゆえ、諸個人も直接刑事責任を問われる。刑事制裁は、八日以上二年以下の刑事施設収容、及び/又は二五一以上二五〇〇〇ユーロ以下の罰金である。

刑法第四五六条は、公の当局に雇用された者、公的サービスの職務を担う者が違法な差別を行った場合、自然人に対するものであれ、法人、集団、コミュニティに対してであれ、特に厳しい刑罰を科すとしている。一月以上三年以下の刑事施設収容、及び/又は二五一以上二五〇〇〇ユーロ以下の罰金である。

ヘイト・クライム禁止法(96-1)ルクセンブルク

政府が人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/LUX/14-17. 29 May 2013)によると、条約第四条については次の僅かな記述しかない。「犯罪の人種的動機はルクセンブルクでは刑罰加重事由としていない。というのも、ルクセンブルク刑法にはそもそも刑罰加重事由を認めていない。」

人種差別撤廃委員会はルクセンブルク政府に次のような勧告をした(CERD/C/LUX/CO/14-19. 13 March 2014)。刑法が人種的動機を刑罰加重事由としていないという事実に関心を有する。委員会は、人種的動機を刑罰加重事由とするべきという勧告を強調する。ルクセンブルクでは人種差別を煽動する団体をアプリオリに禁止することができ、裁判所の判決によって処罰し、解散させることができるという説明に留意する。刑法が法人を処罰し、それには人種差別を煽動する団体が含まれる、という説明に留意する。しかし、遺憾なことに、人種差別を煽動する団体を特別に禁止し、違法とする法律を採用していない。委員会の一般的勧告第一五号及び第三五号を想起し、委員会はルクセンブルクが条約第四条の全ての要素を法律に導入するよう勧告する。人種憎悪を煽動する団体を禁止し、解散させた司法手続きに関する情報を提出するよう要請する。

Saturday, July 25, 2015

ヘイト国家と闘う高校生


月刊イオ編集部編『高校無償化裁判――249人の朝鮮高校生たたかいの記録』(樹花舎)
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ここ数年、日本社会ではヘイト・スピーチが社会問題となってきたが、在日朝鮮人をはじめとする外国人の人権擁護のために活動してきた立場から言えば、第1に、ヘイト・クライム、ヘイト・スピーチはずっと以前から長期にわたって続いてきた現象であって、ザイトクによって始まったわけではない。第2に、ヘイト・クライム、ヘイト・スピーチの主犯は、ネット右翼ではなく、日本政府である。文部科学省が朝鮮学校潰しのために、どれほど差別に専念してきたかを見れば明らかである。
高校無償化における朝鮮学校差別は、文部科学省と自民党政治家の連係プレーの下、強行されてきた。これは悪質な差別であるが、差別一般ではなく、差別を煽るヘイト・スピーチである。文部科学大臣や文科官僚の発言が繰り返し大きく報道されてきたが、これは政府が「朝鮮人は差別してもよい」と大々的に宣伝して来たのであって、文科省や自民党は紛れもないヘイト団体である。ヘイト国家が「差別のライセンス」を発行し、社会において堂々と朝鮮人差別が行われる。国家公認、国家煽動によるヘイト・スピーチである。
それゆえ、国際人権機関から何度も是正勧告が出ている。2010年の人種差別撤廃委員会、2013年の社会権規約委員会、2014年の人種差別撤廃委員会から、日本政府に対して差別是正の巻勧告が出されてきた。しかし、朝鮮学校差別にアイデンティティを見出しているヘイト団体が勧告を履行することはない。
本書は、差別是正を求める高校生、元高校生、教員、父母たち、そして弁護士や支援の会の人々の共同による、ヘイト国家による差別つとの闘いの記録である。多くの知り合いが写真つきで登場するので、楽しく読める1冊だ。

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目次

「高校無償化裁判 249人の朝鮮高校生~たたかいの記録」もくじ
●無償化裁判って? きほんのQ&A
●第1章 無償化の始まりから省令改悪まで
1 ドキュメント 朝鮮学校はこうしてはじかれた
2 朝鮮学校排除し無償化がスタート、迷走する審査
3 安倍政権の発足と省令改悪
4 国連からも是正勧告   
●第2章 2013年、無償化裁判闘争へ
1 無償化裁判は、愛知、大阪から
2 省令改悪後は広島、九州でも
3 首都東京でも、東京朝高生62人が国賠訴訟
4 論点すりかえる日本政府
5 補助金裁判も闘う大阪、府と市を提訴
6 座談会 民族教育の権利、裁判闘争でどう勝ち取るか      
●第3章 無償化差別と日本社会
1 朝鮮学校支援の全国ネットワーク
2 無償化実現、補助金復活運動の現場
3 海を越え広がる支援の輪
4 無償化とメディア
●第4章 民族教育をめぐる権利闘争の歩み
1 194549年 産声上げた朝鮮学校、吹き荒れる弾圧の嵐
2 50年代 受難の時代を経て、新たな出発と発展
3 6070年代 法的認可の獲得、「外国人学校法案」、広範な闘争で廃案に
4 8090年代 進む社会的認知、各方面で差別是正
5 2000年代~ 変わらぬ差別と排除の論理、闘いの中で新たな支援の形も
6 在日朝鮮人の民族教育権とは何か―無償化問題が突きつける課題
●資料
東京無償化裁判訴状

無償化問題に関連し、国連人権条約審査委員会から出された総括所見など

ヘイト・スピーチ研究文献(28)ヘイト・スピーチを受けない権利

前田朗「国連人権理事会ヘイト・スピーチ報告書」『部落解放』711号(2015年7月)
雑誌『部落解放』に「ヘイト・スピーチを受けない権利」という連載を始めさせてもらった。
「ヘイト・スピーチ を受けない権利」は、日本国憲法13条の個人の尊重と幸福追求権、憲法14条の法の下の平等、憲法21条の表現の自由(特にマイノリティ の表現の自由の優越的地位)を根拠に、日本国憲法が保障している権利である。パナマ政府が人種差別撤廃委員会に提出した報告書の中でこの言葉を使っていたので、借用することにした。日本の憲法学者の多くは、まったく逆に「マジョリティがヘイト・スピーチをする自由。マイノリティがヘイト・スピーチを受忍する事実上の義務」を主張している。
連載第1回では、冒頭に、本年3月20日にNGOの国際人権活動日本委員会(前田朗)が、国連人権理事会で行った発言を紹介した。リタ・イザク「マイノリティ問題特別報告者」の最新報告書に、のりこえねっとの活動が紹介されていたので、これに感謝を表明して、情報提供を行った。その発言要旨を紹介したうえで、本論では、リタ・イザク報告書の主な内容を紹介した。

大江健三郎を読み直す(46)グロテスク・ファンタジーの試み

大江健三郎『現代伝奇集』(岩波書店、1980年)
「頭のいい『雨の木』」、「身がわり山羊の反撃」、「『芽むしり仔撃ち』裁判」の3作品を収録した短編小説集である。出版時、すぐに読んだつもりだったが、今回読み直してみて、「『芽むしり仔撃ち』裁判」を本当に読んだかどうかは怪しい感じがした。結末の転換をまったく記憶していないからだ。30年以上前に一度読んだきりだから、単に忘れただけかもしれないが、『芽むしり仔撃ち』の読者が「『芽むしり仔撃ち』裁判」に一番の関心を持って本書に向かったはずにもかかわらず、肝心のところを記憶していない。読みかけて中途で放棄したのかもしれない。そうだとすれば、おそらく変容過程にあった当時の大江文学の独特の分かりにくさが影響したのだろう。

『小説の方法』と『同時代ゲーム』で打ち出された大江世界を、その都度、書き換え、書き直していくようになる大江の手法はこの時期に本格化したはずだ。『個人的な体験』から『ピンチランナー調書』を経て、その後に至る変容と同様に、この時期の大江は、大きくではないものの、常に変容し続けていた。「雨の木」の着想がここから始まり、四国の森の奥からメキシコへ渡った偽医師の物語と、『芽むしり仔撃ち』の二組の 「兄」と「弟」の兄弟が交錯する物語。キーワードは「グロテスク」だ。

Thursday, July 23, 2015

思想の巨人、また一人逝く 鶴見俊輔

鶴見俊輔が亡くなった。93歳だったと言う。思想の科学、転向論、戦後思想論、大衆文化論、べ平連、9条の会に続く歩みは輝かしい。
今朝の朝日新聞は一面で鶴見逝去を伝えるとともに、第2社会面で「戦争体験、反戦の力に」を掲載。海老坂武の言葉も載せている。さらに文化欄には上野千鶴子の追悼文「どこにも拠らず考えぬいた」。思想の科学が光輝いて見えた世代の上野は、京都に出るや同志社大学の鶴見研究室を訪ねたが、不在で会えなかった。「アポをとってから行くという智恵さえない、18歳だった」という。可憐な乙女だったのよと言いたいのだろうか。事実かもしれないが、信じがたい(苦笑)。鶴見に育てられた人材として、佐藤忠男、高橋幸子、中村きい子、黒川創、加藤典洋、そして上野が列挙されている。なるほど。
私が鶴見を初めて知ったのは久野収との共著『現代日本の思想』(岩波新書)だった。私が生まれた翌年に出版されたベストセラーだ。読んだのは高校3年生だから出版後17年目だろうか。小さいが射程の広い本だ。アメリカ哲学研究者だった鶴見が、日本へ、そして同時に世界へ目を向けながら、久野と渡り合っているが、なんと34歳だ。

私は鶴見の著作を多く読んだわけではない。むしろ、主要著作をあまり読んでいない。「軽妙洒脱な知識人」である鶴見が、私には「軽薄な知識人」に見えていたからだ。不当な評価だが。夢野久作を読むきっかけを与えてくれたことは、鶴見に感謝しておかなくてはならない。合掌。

事例と対策ブラックバイト(朝日新聞)

このところ朝日新聞は週1でブラックバイトの特集記事を掲載している。

1 おでん100個「自爆営業」 コンビニ・専門学校生徒のケース(7月3日)

2 授業後の掃除ただ働き 学習塾・私大女子学生のケース(7月10日)

3 試験優先したら「クビ」 居酒屋バイト・男子学生のケース(7月17日)

4 忠誠示すため「ノルマ」 元コンビニ・オーナー男性のケース(7月24日)

最近のブラックバイトの実態がわかりやすく書かれている。また、毎回、「対策」編には弁護士のコメントがある。佐々木亮(ブラック企業被害対策弁護団代表)、笠置裕亮(横浜法律事務所)、嶋崎量(神奈川総合法律事務所)。いずれも若者向けの解説で、誰でもできる対処法をわかりやすく説明している。来週はアパレル業界のようだ。今年の授業では労働権を取り上げる余裕がなかったので、この記事を毎回コピーして学生に配布している。


ヘイト・スピーチ研究文献(27)北欧における反差別教育・文化政策

前田朗「差別と闘う教育(一)北欧における反差別教育・文化政策」『解放新聞東京版』863号(2015年7 月)

人種差別撤廃条約第7条は差別につながる偏見との闘いを打ち出している。教育、文化、情報の分野で差別と闘うことが締約国の義務であるが、これまで日本では条約第7条に関する情報があまり紹介されていない。

ヘイト・スピーチの刑事規制に反対するために「処罰ではなく教育が重要だ」と唱える無責任な論者があまりに多い。こうした論者は、どのような教育なのか、その対象やカリキュラムはどうあるべきか、について決して語らない。世界各国で人種差別やヘイト・スピーチと闘うためにどのような教育政策がとられてきたのかを決して語らない。


本稿では北欧諸国(アイスランド、フィンランド、ノルウェー、デンマーク、スウェーデン)が人種差別撤廃委員会に提出した報告書から、条約第7条に関する記述を紹介した。多彩な内容の教育・文化政策がとられてきた。成果を上げた例もあれば、そうでもない例もある。いずれにせよ、教育だけでヘイト・スピーチ対策なりえないことも明らかになるだろう。

Tuesday, July 21, 2015

Shall we 会議じゃないが

周防正行『それでもボクは会議で闘う』(岩波書店)
4月初旬に出たが、ようやく読んだ。当時の報道では、法務省が強引に推進した「新時代の刑事司法制度特別部会」答申に周防正行や村木厚子も賛成したことが報じられていたため、「なんだ中途半端な妥協をしたのか」と、やや肩透かしの思いもあって、本書を買ったものの読まずにいた。しかし、今回読んでみて、周防正行と村木厚子が、人権無視の警察官僚、屁理屈だらけの法務官僚、無責任極まりない御用学者たちを相手に、人権擁護とあるべき刑事裁判実現のために奮闘し、素晴らしい闘いをしていたことを確認できた。
拷問、拷問まがいの陵虐、人権審議、自白強要、長時間取調べ、黙秘権侵害による強制自白、誤判、冤罪の山にもかかわらず、一切反省しない警察官僚と法務官僚に刑事司法改革ができるはずがない。犯罪者に改革を委ねるのは笑い話でしかない。それでも、官僚相手に取調べの可視化を求め、人質司法の改革を求め、人間らしい社会を求める周防と村木の努力は貴重だ。頭が下がる思いだ。最後に周防は「なぜボクは妥協したのか」と題し、最後の会議の様子を伝える。なるほど妥協しているが、単なる妥協ではない。最大限の努力を積み重ねた末に、次の改革に向けた一歩を踏み出すために余儀なくされた妥協である。

周防が間違っているのは、警察官僚、法務官僚、司法官僚、御用学者を「専門家」「法律家」と呼んでいることだけだ。彼らは屁理屈と人権侵害の専門家であり、責任逃れと税金泥棒の専門家に過ぎない。人権を擁護した刑事司法の担い手の資格のないインチキ集団である。国際人権法の最低限の要請ですら一顧だにせず、市民の自由と人権を貶めることしかしない偽専門家が権力を握って好き勝手にやっているのは、日本だけと言うわけではないが、本当に情けない。

Sunday, July 19, 2015

ザ・ニュースペーパー第87回公演

今夜は銀座博物館ならぬ博品館劇場で、コント集団ザ・ニュースペーパーの第87回公演だった。1988年、昭和天皇ヒロヒトの下血騒ぎがデヴューのきっかけだったので、もう27年もザ・ニュースペーパーに笑わされてきた。
http://www.t-np.jp/
開演と同時に、銀座博品館劇場の椅子の点検と称して観客全員に起立を要請し、ほぼ全員が起立したとたんに、「規律多数と認めます。よって安全保障法案は成立いたしました」。冒頭から観客協力のもとの一発ギャグであった。続いて、安倍シンゾーの一人舞台。さらには菅、谷垣、小泉ら、いつもの面々。
新国立競技場問題では、直前の「白紙」を織り込んでいた。数日前までは、建設反対の声を反映するコントだったはずだが、後半を切り替えていたのはさすが。18歳選挙権問題。石原・猪瀬・桝添3代の知事の会話。周、正恩、オバマ、プーチン、鳩山兄弟も登場。ギリシア債務問題。さらには英国ロイヤル・ファミリーとさる高貴なご一家の掛け合いギャグ。

いつものことながら、最新ネタを取り上げて政治と世相を斬る社会派コント。谷本が抜けて音楽性が低くなったとはいえ、随所に歌あり踊りあり、楽しい2時間だった。

Friday, July 17, 2015

ヘイト・クライム禁止法(95)カザフスタン

政府が人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/KAZ/6-7. 5 August 2013)によると、刑法は人種的不寛容に動機のある犯罪の責任を定めている。
刑法第五四条によると、国民的人種的又は宗教的憎悪又は敵意に動機のある犯罪の実行は刑罰加重事由とされる。
刑法第一四一条は、市民の平等権侵害を犯罪としている。市民の平等権侵害は、出身、社会的、公的、財産的地位、性別、人種、国籍、言語、宗教的見解、意見、居住地、任意団体の構成員であること、その他の事情に基づいて、個人の権利及び自由を直接または間接に制限することである。
刑法第一六四条第一項は、社会的、国民的、民族的、人種的、又は宗教的敵意の煽動に当たる行為を列挙している。社会的、国民的、民族的、人種的又は宗教的敵意又は不和を煽動する行為、市民の国民的名誉、尊厳、宗教感情に対する侮辱、市民の排除、優越性又は劣等性の助長が、公然と又はマスメディアを通じて、又は文書その他の情報の流布によって、行われた場合である。
刑法第一六〇条は、ジェノサイドの処罰を定めている。
刑法第三三七条二項は、人種的、国民的、民族的、社会的、階級に基づいた、又は宗教的不寛容または排除を主張し、実行する任意団体の設立又は指導者になることを犯罪としている。
二〇〇九年~一二年前半期に刑法第一六四条の国民的不和の煽動は二〇件であった。二〇〇九年が七件、一〇年が八件、一一年が一件、一二年が四件であった。二〇件のうち、裁判で実体審理になったのが一二件、執行猶予が二件、中断が一件、強制医療措置処分が一件、係争中が四件である。

二〇〇九年三月二一日、ある男性が携帯電話で「カザフ人よ、ロシア人を叩き出せ」と書いて、テレビ局のSMSに送付し、一時間、そのメッセージが放映された。テミルタウ裁判所は、被告人を刑法第一六四条違反の罪で有罪とし、三〇か月賃金相当の罰金とした。二〇一〇年一月、三人の女性がウイグル民族団体の名前で行動し、アルマティ市の複合住宅の壁に、カザフ人の代表の名誉と尊厳を侵害する言語をスプレーで書いた。二〇一〇年四月二四日、アルマティのメデオ裁判所は、三人を刑法第一六四条二項違反とし、二年の刑事施設収容を言い渡した。

Wednesday, July 15, 2015

集団的自衛権の国際法論を/眠れぬ豪雨の夜に

7月15日、衆議院特別委員会で安倍暴走政権による戦争法案強行採決がなされた。憲法を破壊し、民主主義を否定する暴挙である。戦後日本の平和国家への希求を葬り去り、平和的生存権を押しつぶす横暴である。東京は深夜から激しい雨が降り続く。
森英樹編『集団的自衛権行使容認とその先にあるもの』別冊法学セミナー(日本評論社、2015年)
編者のほかに、浦田一郎、本秀紀、愛敬浩二、倉持孝司、青井未帆、城野一憲、清水雅彦といった憲法学者や、加えて政治学者、ジャーナリストの論文が収録されている。いずれも重要な論文であるが、特に重要なのは、松井芳郎「国連の集団安全保障体制と安倍内閣の集団的自衛権行使容認」であろう。
松井論文から、国際法における自衛権概念の登場、国連憲章51条の自衛権の意味、ウエブスター・フォーミュラから「武力攻撃」へ、自衛権主張の挙証と認定、以上を踏まえての国連憲章の集団的安全保障体制における集団的自衛権の位置をめぐる議論の重要性が分かる。さらに、安倍首相の提示する議論の枠組み、集団的自衛権容認の論理、自衛の「権利」と「義務」のすり替え、が指摘される。国際法上の論点の一部を記述したにとどまるが、それでも重要な指摘がなされている。

衆議院の議論では憲法論(合憲か、違憲か)に議論が集中した。とはいえ、議論が尽くされたわけではない。安倍首相は意図的にごまかし答弁に終始したからだ。憲法論は第一歩からやり直す必要がある。と同時に、松井が指摘する国際法上の論点は衆議院では正面から議論されていない。集団的自衛権はもともと日本国憲法が想定していない国際法上の概念であるのに、国際法の議論が置き去りにされているのは疑問である。

被爆後を生きるということ/井上ひさし『父と暮らせば』

心が震え、身体が震える。
涙が溢れ、思いが揺れる。
優しくも、哀しい、辛く、そして極上の時間。
紀伊國屋サザンシアターで『父と暮らせば』を観劇した。井上ひさし原作、演出は鵜山仁、出演は辻萬長と栗田桃子。
二人芝居の凄味に肺腑が抉られ、いつまでもゆすぶられる。
「被爆者たちは核の存在から逃れることのできない二十世紀後半の世界中の人間を代表して、地獄の火で焼かれたのだ」(井上ひさし)
人間はどんな絶望の中においても生き抜かなければならない。
今から70年前の夏、ヒロシマに投下された原子爆弾。
残された膨大な被爆者の手記の中から編まれた今こそ語り継ぎたい井上戯曲。
生き地獄のヒロシマを舞台に繰り広げられる父と娘の優しくも壮絶な命の会話を通して
平和の尊さを後世に語り継ぐこまつ座渾身の作品。
2008年から栗田桃子の娘・美津江と辻萬長の父・竹造で数々の賞に輝き、
演出家・鵜山仁が希望への祈りを込めて、幸せとは何か、平和な日常を取り戻すとは何かを問う。(こまつ座ホームページより)
井上ひさしが遺した『父と暮せば』(初演1994年)、
『木の上の軍隊』(蓬莱竜太・作/2013年)、
『母と暮せば』(山田洋次・監督/2015年冬公開予定)
戦後70年、『戦後命の三部作』ここに完成。(こまつ座ホームページより)

従来、一部のファンの間で、『父と暮らせば』『紙屋町さくらホテル』『少年口伝隊1945』が「ヒロシマシリーズ」「ヒロシマ3部作」と呼ばれていた。「東京裁判3部作」や「昭和庶民伝」のように、井上ひさしが命名したわけではない。こまつ座は、沖縄戦を題材とした『木の上の軍隊』、ナガサキを舞台とした『母と暮らせば』と合わせて「戦後命の三部作」と命名したと言う。『木の上の軍隊』は初演を見た。『母と暮らせば』も観よう。

大江健三郎を読み直す(45)骸骨に連なる死と危機のイメージ

大江健三郎『表現する者――状況・文学**』(新潮社、1978年)
前著『言葉によって――状況・文学*』に続く本だが、前半は『大江健三郎全作品』第期全6巻(1966~67年)に収録された文章なので、前著よりも古い。後半は『大江健三郎全作品』第期全6巻(1977~78年)に収録されたもの。
内容面では、前著でラブレー、金芝河、ポール・ラディン、山口昌男、バフーチン。トリックスター、グロテスク・リアリズム、祝祭などを取り上げ、形成中だった大江文学の、文学理論が、本書ではあまり目立たない。本書前半では、ギュンター・グラス、ガルシア・マルケス、ノーマン・メイラー、ジェームズ・ボールドウィン、フォークナー、ハックルベリー・フィン、ル・クレジオ等に言及していたが、後半では、教員としてメキシコ在留中であったことから、メキシコを中心にしてラテン・アメリカの情報、『ピンチランナー調書』関係の文章、詩についての考察(オーデン、レイエス)などが取り上げられている。

もっとも、初読時にどのように感じたかは記憶していない。記憶しているのは表紙だけだ。というのも、表紙には、ホセ・ガダルーペ・ポサダ(1851~1913年)の版画が使われているが、骸骨がテンガロンハットをかぶり、アルコール壜を持って歩いている様子で、司修が彩色を加えている、大江の著書にしては珍しいどぎつい絵であり、印象に残る。その印象だけがあった。骸骨に連なる詩のイメージ、銃殺のシーン、そして「民衆芸術」――ここから始まる文学。

***

4月から週8コマの授業で、多忙だったため、大江文学の読み直し作業が中断していた。

Tuesday, July 14, 2015

ヘイト・スピーチ研究文献(26)『創』シンポジウムにおける山田健太発言への疑問

特集「ヘイトスピーチにNOを!」『創』2015年8月号
6月11日に『創』編集部が開催したシンポジウム「ヘイトスピーチとナショナリズム」の記録である。300人 以上が参加したという。私も参加したかったが、日程の都合から参加できなかったので、誌上で読めるのはとてもうれしい。8人の発言が記録されている。
安田浩一「社会的少数者差別の先にあるもの」
有田芳生「今も毎週末に差別扇動のデモが・・・」
佐高信「ヘイトスピーチの背後の弱肉強食」
香山リカ「アイヌに対するヘイトスピーチ」
雨宮処凛「かつて感じた言語化できない怒り」
鈴木邦男「ヘイトスピーチと右翼の内情」
小林健治「ヘイトスピーチと差別表現」
山田健太「『表現の自由』と法規制の是非」
それぞれにコメントしたいところだが、時間の余裕がない。一番注目されるのは、刑事規制反対の論陣を張ってきた山田健太(専修大学教授)の主張である。山田健太とは30年以上前の国家秘密法反対運動にいっしょに取り組んで以来の仲であり、敬愛するメディア法研究者である。しかし、この問題では見解を異にする。にもかかわらず、山田は、私の本『ヘイト・スピーチ法研究序説』出版記念会に出席して、発言してくれた。大変感謝している。上記の創シンポジウムでも、山田は規制反対派の役割を引き受けて、冷静に議論をする努力をしている。
さて、創シンポジウム記録によると、山田は、「公的な差別が公然と行われていること」が問題であると指摘し、「メディアの対応にも問題がある」と述べた。その通りである。そのうえで山田は、人種差別を禁止するという点では国際人権法も日本も同じ道を歩んでいるが、その方法には違いがあると指摘した。山田の主張は次の言葉に顕著である。
「日本国憲法は世界に稀な例外を持たない憲法なんですね。/表現の自由の規定は一切例外なしです。『表現の自 由はこれを保障する』――このような例外を持たない憲法は世界中でもごくわずかなんです。そのような選択肢をとったわけですね。」
そのうえで、山田は日本のメディアの自主規制について論じ、さらにヘイトスピーチ対策のための差別救済法や 人権委員会設置、報道倫理の確立の必要性を指摘した。
私は山田の意見の大半に同意する。これまでも山田の著作に学んできた。しかし、上記の引用個所については、疑問を指摘せざるを得ない。いくつかあるが、今回は2点。
第1に、山田は、憲法21条だけを引用しているが、憲法12条を無視するのはなぜか。
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」
このように憲法12条は明らかに「例外」を定めている。「例外を持たない」というのは山田の誤解ではないだろうか。このことは、多くの憲法学者が指摘してきたことである。ほとんどの憲法教科書が「表現の自由は絶対的ではなく、優越的地位である」としている。芦部信喜も佐藤幸治も、辻村みよ子も長谷部恭男も、表現の自由は絶対的ではないとしている。最高裁判例も、表現の自由は絶対的ではないとしている。日本政府も、人種差別撤廃委員会の審査の際に、委員に詰め寄られて、表現の自由は優越的地位にあるが、絶対的ではないと、認めざるを得なかった。
にもかかわらず、山田は「例外なき表現の自由、絶対的な表現の自由」という特異な見解を述べる。それはなぜか。どこに根拠があるのだろうか。山田の独自の思想であって、日本国憲法の立場ではないのではないか。
第2に、山田の主張する表現の自由とはマジョリティの表現の自由であって、マイノリティの表現の自由が無視されているのではないだろうか。憲法12条、14条(法の下の平等、非差別)、21条を踏まえるならば、マイノリティの表現の自由こそ最も尊重されるべきではないだろうか。表現の自由が優越的地位にあるのは、人格権と民主主義に根拠があるからであり、それはマイノリティの表現の自由の尊重を意味しているのではないだろうか。そもそも、マジョリティは権力を保有し、望む政策を実現できる立場にあり、表現の自由はふんだんに保障されている。日本国憲法がそのようなマジョリティの表現の自由を、わざわざ絶対的に保障するなどということはあり得ないことではないだろうか。マジョリティの表現の自由を唱えることは、差別の自由、差別表現の自由を認める人権無視の憲法論に堕する危険性はないだろうか。私は「マイノリティの表現の自由の優越的地位を保障せよ」と主張してきた。この点を、山田はどのように考えているのであろうか。

ヘイトスピーチ刑事規制がもたらすかもしれない弊害についての山田の指摘には同意する面もあるが、憲法解釈については疑問である。次の機会には、山田から教示を受けたいところである。

Monday, July 13, 2015

日本政府の国連安保理改革提案

『マスコミ市民』557号(2015年6月)

拡散する精神/委縮する表現(51)
日本政府の国連安保理改革提案

 日本政府が、ドイツ、インド、ブラジルと共同で国連安保理改革提案を国連に提出したと言う。
提案内容は、安保理事会を現在の一五カ国から二五~二六ヶ国に、常任理事国を現在の五から一一に、非常任理事国を現在の一〇から一四~一五に拡大するというものである。一〇年前の二〇〇五年に提出したものと基本的に同じであるが、非常任理事国を一四としていたのを、今回は一四~一五として、一ヶ国増やす可能性を明示した点が異なる。増加分はアフリカに割り当てるとし、国連内でアフリカ諸国の賛同を得ることを目的としている(『朝日新聞』五月九日)。
今回の提案は、安倍晋三首相が昨年九月の国連総会で常任理事国入りの立候補表明をしたことに始まる。国連創設七〇年の今年から、日本国連加盟六〇年の二〇一六年にかけての二年間を「具体的な行動の年」と位置付けて、安保理改革を呼びかける。さらに、アフリカ開発会議(TICAD)、カリブ諸国首脳にも支持を求めたうえ、今年四月二八日、安倍首相訪米に際してアメリカが日本の常任理事国入りを支持することを確認したと言う。
しかし、朝日記事も的確に指摘しているように、安保理改革の先行きは不透明である。安保理改革の必要性については広く共通認識が形成されているが、具体案となると利害関係が錯綜するからである。日本政府がどのような感触を得ているのかは不明だが、一〇年前の失敗を教訓としたとは到底考えられない。
第一に、〇五年改革提案は各国の間でも大きな話題となり、安保理改革の必要性が支持されたにもかかわらず、常任理事国を増やしたくないアメリカや中国の意向によりあっという間に潰れた。今回、安倍首相はアメリカの支持を確認したというが、果たして具体案を提示して賛成投票をすると約束を取り付けたのだろうか。そうは思えない。
第二に、〇五年改革提案の際は小泉首相、外務省、マスコミが前のめりになって、いよいよ常任理事国入りなどとはしゃいでいたが、私は「絶対なれない」と断言していた。小泉靖国参拝で中国を刺激しながら常任理事国入りを訴えても相手にされるはずがない。国連の「旧敵国」であるにもかかわらず、アジア諸国と和解を実現できていない日本に常任理事国の資格があるのか。この一〇年で状況はかえって悪化した。安倍政権の中国敵視政策はもはや歯止めがきかない状態になっている。
第三に、さすがに各国政府筋は口にしないが、国際NGOの多くが「アメリカの言いなりの属国が常任理事国に入って何の意味があるのか」と指摘していた。ますます属国ぶりを発揮している日本の現状は世界中に知られている。
第四に、経済援助ばらまきによって賛成を取り付ける日本政府の手法は限界にきている。一〇年前、膨大な援助約束にもかかわらず実際の支持を得られなかった理由を反省する必要がある。
第五に、日本、ドイツ、インド、ブラジルの四ヶ国を選定する根拠が不明確である。欧州諸国との和解を実現したドイツは衆目の一致するところかも知れない。しかし、日本には韓国、ブラジルにはアルゼンチン、インドにはパキスタンが牽制の動きを強める可能性がある。「イスラム圏やアフリカからの代表を」という声が出れば押しとどめるのは難しいだろう。まして中国が常任理事国となっている東アジアから二ヶ国とする理由がない。日本を除いてドイツ、インド、ブラジル、南アフリカとする方が説得的である。それだけに日本政府も焦っているのだろう。

前回、安保理改革は流れたが人権理事会を創設するという別の改革が実現したように、国連改革の力学は意外な展開を示すことがあるから、日本政府としては、ともかく手を挙げ続け、流れを作り出すことを考えているのかもしれない。とはいえ、東アジアの平和と安定に貢献できない、ビジョンなき日本が国際平和と安全に責任を有する常任理事国にというのは、国際社会で十分な支持を得られる話ではないだろう。

どちらが捏造なのか--吉田証言をめぐる報道の検証


*『マスコミ市民』556号(2015年5月)

拡散する精神/委縮する表現(50)


今田真人『緊急出版・吉田証言は生きている――慰安婦狩りを命がけで告発! 初公開の赤旗インタビュー』(共栄書房)は、昨年八月以後、朝日新聞や赤旗が「吉田証言は虚偽だから記事を取り消す」としたのに対して、一九九三年一〇月の吉田清治氏へのインタビュー全文を公開し、解説を加える。吉田証言の一部を切り取って、その証言価値を否定する詐欺的手法を批判し、吉田証言全体を読めば証言は虚偽とは言えず、むしろ多くのことを教えてくれることが分かるという。時代背景や現地の具体的状況に照らして納得できる証言だからである。
著者は当時、赤旗記者として吉田氏に取材した。その取材資料の中にあったワープロ用のフロッピーを保存していて、本書第一章に全文を収録している。九三年一〇月四日のインタビューでは、「慰安婦狩り」の実態について、国家犯罪という点について、労務報告会とは何か、済州島の現地訪問について等の質問をしている。続く九三年一〇月一八日のインタビューでは、産経新聞の攻撃への反論について、イヤガラセの卑劣な具体的内容、戦後直後の証拠焼却、かかわった慰安婦の数、著書に書いた年月日について、フィクションの所はどこか、吉田氏の本名等について、質問している。
第二章では、インタビュー時の時代状況を説明したうえで、吉田証言で言及されている事実を分析し、「裏付け得られず虚偽と判断」という認識論は大きな誤りと述べる。民間業者が戦争末期の朝鮮で慰安婦狩りをすることはできず、国家的行為でないとできなかったと言う吉田証言の合理性を指摘し、その他数々の論点を取り上げて、虚偽や捏造と言う非難に根拠がないことを明らかにする。
第三章では、吉田証言を取り消した朝日新聞と赤旗の「検証記事」を検証し、適切な検証がなされていないことを明らかにする。
第四章では、吉田証言を虚偽とし、吉田氏を「詐話師」と非難した秦郁彦『慰安婦と戦場の性』を検証する。秦の手法は「自分を棚に上げ、相手の人格を貶める手法」、「ウソをつきながら、相手を『ウソつき』と断定する手法」、「裏どり証言がないだけで、証言を『ウソ』と断定する手法」、「電話取材での言質を証拠に、『ウソつき』と断定する手法」、「白を黒と言いくるめるための、引用改ざんの手法」であると特徴づけ、さらに「何人もの研究者が秦氏の著作のデタラメさを指摘」とし、三人の研究者(前田朗、南雲和夫、林博史)が秦の論著を批判していることを紹介し、秦を徹底批判する。
私の名前が出てくるのは、私が作成した図を秦が盗用したことを批判したためである。私が公表した文章のうち『マスコミ市民』三七〇号(九九年一〇月)と『季刊戦争責任研究』二七号(〇〇年春季号)の論文が紹介されている。もう一つ『Let’s』二九号(〇〇年一二月)にも秦批判を書いた。秦の歴史学とは盗用、捏造、憶測の歴史学だ、というのが私の結論であった。これに対して秦は弁解にならない弁解を並べた挙句、もう歳だから、などと述べた。噴飯ものであるが、それ以上続けると「個人攻撃」となりかねないこともあって、私は追撃しなかった。そのままになっていた文章を、著者が思い出させてくれた。
吉田証言をどう見るかはなかなか難しい問題であるが、吉田証言を批判した秦郁彦こそ憶測や捏造の歴史学者の疑いがあり、きちんと検証する必要があるのは間違いない。
秦だけではない。吉方べき「『朝日』捏造説は捏造だった」(『週刊金曜日』一〇三五号)によると「朝日新聞や日本の弁護士が騒ぎ始める前は、韓国では『従軍慰安婦』問題など出ていなかった」という渡辺昇一(渡部昇一の誤り)等が広めた話こそが捏造であるという。一九五〇年代から九〇年代の韓国メディアで、様々な時期に様々な形で「慰安婦」問題が報道されていたからである。
秦郁彦、渡部昇一をはじめとする歴史修正主義者が、憶測や捏造を繰り返してきたのではないか。きちんと検証する必要がある。


植民地解放闘争を矮小化する戦略

植民地解放闘争を矮小化する戦略
――朴裕河『帝国の慰安婦――植民地支配と記憶の闘い』(朝日新聞出版)
*『社会評論』169号(2015年4月刊)に掲載
一 ねじれにねじれを重ねるプロジェクト

 賛否両論が分かれる本だ。賛成・支持する論者の中に、日本の道義的責任を果たすべきという論者と、「慰安婦」問題などなかった、日本に責任はないという論者の両方が含まれ、奇妙な同床異夢状態ができあがっている。批判する論者も一様ではない。その意味で「問題提起」的な著作である。
 書評の難しい本だ。「慰安婦」問題でねじれた日韓関係をさらにねじれさせるために書かれたとしか思えない。加害国側の日本男性である評者が、被害国側の韓国女性の本書を批判しても、ねじれが解消するどころか、いっそうこじれるだけで生産的でない。それでも書評をする理由は、日本側の事情の変化にある。第一に、二〇一四年八月の朝日新聞記事訂正に始まる一連の狂騒によって「慰安婦」問題をめぐる議論が混迷を深めているからである。第二に、一部とはいえ本書礼賛が常軌を逸しているからである。
日本側の事情が変更になったから書評をするというのも奇妙な話だ。しかし、本書は二〇一三年八月に韓国で出版された著作の「日本語版」と宣伝されているが、実は<WEBRONZA>連載の日本語版から書き始められた。最初から日本に向けて発信されたメッセージである。そうであれば本書をどのように読むのか、日本の読者にストレートに問いかけられている。日韓の双方を行きつ戻りつしながら、あえてねじれにねじれを重ねようと奮闘する著者のプロジェクトとは何であるのだろうか。少し考えてみたい。
なお、評者の認識について、『「慰安婦」バッシングを越えて』(大月書店)、『「慰安婦」・強制・性奴隷』(御茶ノ水書房)、『日本人慰安婦』(現代書館)参照。

二 練り上げられた方法論の特徴

 本書の方法にはいくつもの特徴がある。WEB連載、韓国語版を経て、改めて日本語版がまとめられた経緯から言って、本書が採用した方法は意識的自覚的に選び取られ、練りあげられたものである。その方法論的特徴を確認していこう。以下に列挙する方法論的特徴はそれぞれ独立しているのではなく、相互に密接に関連し、補完しあう性格のものである。まずは分説してみよう。
 第一に<物語化>である。「帝国の慰安婦」という表象が「戦争犯罪の犠牲者=生存者」という表象に対する批判として提示され、「慰安婦」たるべく前向きに生きた「主体」が仮構される。そのために「主体の語り」が選定され、著者の論旨に沿わない語りは剪定される。それゆえ著者は千田夏光の「画期的な仕事」である『従軍慰安婦”声なき女”八万人の告発』(一九七三年)に依拠し、千田が「慰安婦」を<愛国>的存在として理解していたことを発掘する。そこに「慰安婦」証言の中から好都合な語りを縫合していく。
ここに本書の言う「記憶の闘い」の特殊な意味が明らかになる。著者は次のような表象を全面批判する。「慰安婦」を利用し、抑圧し、戦後は戦地に放置し(場合によっては殺害し)、戦後も沈黙を余儀なくさせた男性中心的価値観による「慰安婦」イメージの押しつけ、歴史の否認と記憶の抹消を図ってきた日本国家と日本男性(男性的価値観を共有してきた女性も含む)による「記憶の消去」に抗って、韓国をはじめアジア各地で日本国家の責任を追及する「主体」として登場した「慰安婦」被害者=生存者たち――こうした従来の認識枠組みを否認すること。これが本書の戦略目標である。記憶を消去・占有しようとする国家権力に対して抗う被害女性の「記憶の闘い」は無化される。
本書は、「被害者」イメージを強調してきた韓国挺身隊問題対策協議会(以下「挺対協」)などの補償要求運動によって構築された「記憶」に、<愛国>のために生きた女性たちの「記憶」を対置する。これによって二つのことが可能となる。一つは、「記憶」の抑圧が日本国家によってではなく、補償要求運動によってなされたと描き出す。その結果として日本国家の責任を解除する橋頭堡を確保する。二つには、異なる「記憶」を有する女性たちの「記憶の闘い」を主戦場とすることによって、次に指摘する<相対化>を招き寄せる。
第二に<相対化>である。「性奴隷か、売春婦か」、「強制連行か、国民動員か」といった二者択一が次々と繰り出される。いずれかの決着をつけることが目指されているわけではない。二者択一を提示しつつ、双方に一応の根拠があると言えば、著者の論述は「成功」を収める仕掛けになっている。それゆえ著者は概念定義もせず、判断基準も提示しない。定義や基準を明示することは自殺行為となりかねないからである。
同じ理由から、著者は<()権利(ヒト)>を否認する。国内法であれ、国際法であれ、著者の行くところ見事に刈り取られて残骸のみが横たわる。国内法で言えば、従来何度も指摘されてきたように、植民地時代の朝鮮半島に適用された日本刑法には国外移送目的誘拐罪の規定があった。帝国の外に連れ出す目的で行われた誘拐であるが、朝鮮半島で誘拐され、人身売買された女性の事件に適用できた刑法第二二六条を日本政府は適用しなかった。適用しないために国家的努力を積み重ねた。著者はそのことを知悉しているはずだが、軽視する。国際法について従来、一九一〇年の白色奴隷条約(醜業条約)、一九二六年の奴隷条約、国際慣習法としての奴隷の禁止、一九三〇年の強制労働条約、そして人道に対する罪などが議論され、国連人権委員会でもILO条約適用専門家委員会でも、日本政府の責任が問われてきた。ところが、著者は内容の検討抜きに、「日本に法的責任はない」と断定する。定義も基準も検討しないが、結論だけは明快である。<()権利(ヒト)>の否認は徹底しており、理念や規範が瀕死状態となる。
 <法>の否認の背後には、植民地時代の帝国が勝手に制定した法に過ぎないという認識がある。だが、当時の法にさえ違反していたことが内外で確認されているのに、そのことは重視されない。また、当時の法は法として、そこに人権論を読み込む法律家の努力が積み重ねられてきたのに、一顧だにしようとしない。極端な「法ニヒリズム」である。
 しかし、奴隷条約を単なる「帝国の法」と特徴づけることはできない。奴隷条約に至るまでに百年以上の奴隷解放を求める民衆の闘いがあった。カリブ地域の民衆による独立運動と奴隷解放運動(ハイチ革命、グレナダ革命等)に始まり、各地で成果を上げた。最後にアメリカ合州国の奴隷解放につながり、国際連盟での奴隷条約に結実したのである。「帝国」に抗する民衆が新しい「法」を形成する運動のメカニズムこそが重要である。しかし、「慰安婦」は帝国に従って<愛国的>に振る舞わなければならないという本書のテーゼにとって不都合な真実は消去される。
 第三に<主観化>である。<物語化>と<相対化>に呼応し、これらを支えるのが<主観化>である。「慰安所」政策の歴史や背景、その客観的事実とは別に、「慰安所」に置かれた女性たちの体験は主観的に「記憶」され、「証言」されてきた。そうした証言を再び客観的状況に照し合せ、位置づけ直して、その意味を検証するのが歴史学の役割である。ところが、本書における<主観化>は、主観的に構築された物語の絶対化を意味する。それゆえ、主観と記憶を根拠に客観的条件を<相対化>することが可能となる。個別の女性の思いが歴史認識の根拠とされる。しかも、田村泰次郎、古山高麗雄など日本人男性作家が書いた小説が根拠になる。このことを指摘しても批判にならない。著者は最初から物語を語っているのであって、小説に依拠するのは「正しい」作法なのだから。
第四に<分断>と<個別化>である。著者によって、「主体」は「他者によって争奪戦を繰り広げられるべき戦場」に変容される。「記憶の闘い」は「主体をめぐる闘い」に移行し、亀裂と分断がフィールドを覆う。このフィールドで著者はふつふつと滾る憎悪を込めて挺対協を糾弾する。挺対協こそが歴史認識を歪めた元凶であり、運動方針を誤った愚者であり、「実質的」に謝罪した日本政府を根拠もなしに非難して解決の糸口を失った責任者であり、被害女性を利用している、と論難する。
著者の論理は明快である。日本政府を説得しなければならないのに挺対協はそれに失敗したのだから運動を失敗に陥らせた責任がある。著者は、被害女性にもいろいろな考えがあると、被害者の要求を分断しつつ、被害者と「被害者を利用する」挺対協を分断していく。韓国の被害女性とアジア各地の被害女性も分断される。
挺対協の論理は、国連人権委員会に受け入れられ、ILO委員会に受け入れられ、日本の戦後補償運動にも、台湾やフィリピンの被害者団体や支援者にも受け入れられ、そして二〇〇七年にはアメリカ、EUなど世界各国の議会や政府にも受け入れられた。これだけの支持を得たことは、通常は、その論理の正しさの傍証と理解される。しかし、本書によれば、日本政府を説得しなければならないのだから、挺対協の失敗は明白である。つまり、日本政府が絶対の判断基準であり、それと異なる判断をした全世界がすべて誤っている。
批判的読者はこの主体の争奪戦に参入しないように用心しなくてはならない。本書韓国語版に対して被害女性たちが、名誉毀損であるとして出版差し止めと損害賠償を求めて提訴したが、著者は「原告は元慰安婦の方々の名前になっています」としつつ、「実質的」にはそうではないとして、被害女性の主体性を著者の都合に合わせて整形する。分断線を引く権利は、著者にある。「実質的」や「本質」の論定も、誰が主体となるかも、著者の権限で決まる。
 かくして、責任を問われずに済む日本人男性の語りが始まる。「朝日文化人」が欣喜雀躍して本書を歓迎し、著者をハンナ・アーレントに比肩する珍無類の解釈が登場する。九〇年代に「知識人」と自称した人々が国家と一体となって設立した「アジア女性基金」を絶賛する著者は、「男性知識人」たちの「女神」として降臨する。同時に、日本の責任を全否定する歴史修正主義者たち、植民地主義に開き直る論者たちもスタンディング・オベーションで迎える。『和解のために』の前例から言って、著者自身も十分予測していたであろう現象である。「本書が右翼に利用される」という危惧を述べる論者がいるが適切ではない。利用されるのではなく、主体的に確たる自信を持ってハーモニーを奏でているのである。
 <相対化>や<主観化>と結びついた<個別化>が見事に猛威を奮う。個別の「慰安婦」女性にはそれぞれの思いがあり、記憶があり、闘いがあるのだから、一般化を拒否する権利もある。しかし、歴史認識や国家責任を問うフィールドで<個別化>とは何を意味するか。アウシュヴィツ収容所におけるすべての被害者の思いや記憶が同じということはありえない。旧ユーゴの「民族浄化」やルワンダ・ジェノサイドの渦中でも人々の思いは限りなく多様であった。だからこそ一般化しなければ歴史も国家責任も語ることはできない。個別の思いを重ね合わせつつ、いかに一般的認識を形成し、共有するかが重要である。

三 分断の彼方で再び

 本書の特徴は、正当な指摘が不当な帰結を生み出すアクロバティックな思考回路にある。例えば、「慰安婦」強制の直接実行者が主に民間業者であったことは、当たり前の認識であり正しい。ならば民間業者の責任を問う必要があるが、著者はそうしない。民間業者を持ち出すのはひとえに日本政府の責任を解除するためだからである。
 本書は、「慰安婦」問題を戦争犯罪から切り離して、植民地支配の問題に置き換える。植民地であれ占領地であれ交戦地であれ軍事性暴力が吹き荒れた点では同じだが、植民地であるがゆえに「慰安婦」政策を貫徹できた限りで、本書も正しい。ならば植民地支配の責任を問うべきであるが、著者はそうしない。植民地に協力した<愛国的>努力を勧奨するからである。植民地の現実を生きるのだから<愛国的>に植民地支配に協力せざるを得ないこともある。しかし、その体験と記憶を根拠に歴史を裁断すれば、カリブ海でもアルジェリアでもナミビアでも、世界は「善き植民地」に覆われることになる。
 <法>を否認する本書は「人道に対する罪としての性奴隷制」についての法的考察を棚上げし、植民地解放闘争の理論と実践や、国連国際法委員会で審議された「植民地犯罪」論や、人種差別反対ダーバン世界会議で議論された「植民地責任」論も脱色してしまう。植民地支配の責任を問う法論理が出てこない(人道に対する罪について、前田朗『人道に対する罪』青木書店)。
 「慰安婦」問題を日韓関係に閉ざして挺対協叩きに励んでも、問題解決を遠ざけるだけである。植民地支配に抗し、人道に対する罪や戦時性暴力と闘う世界の民衆の法思想は、「慰安婦」、旧ユーゴ、ルワンダ、シエラレオネ、コンゴ民主共和国、アフガニスタン、イラクの現場で、おびただしい犠牲と底知れぬ悲しみに襲われ、翻弄されながら、徐々に鍛えられてきた。「慰安婦」問題の法的解決がリーディング・ケースとなると期待しながら、世界を引き裂いてきた分断の彼方で人々が再び出会うために、謝罪と被害補償を求める運動はさらなる闘いを続けるであろう。