Sunday, August 16, 2015

大江健三郎を読み直す(48)中期連作短編時代の始まり

大江健三郎『「雨の木」を聴く女たち』(新潮社、1982年[新潮文庫、1986年]
「レイン・ツリー」を主題とした連作短編集だが、それは人の生と死、あるいは人間世界の再生、さらには宇宙論的なメタファーが主題という意味である。個人的な暴力から、核兵器という暴力に至る、現代の暴力と、それに怯え、傷つく人間の苦悩と再生が提示される。5編の短編から成るが、冒頭の「頭のいい『雨の木』」、それに続く3編「『雨の木』を聴く女たち」「『雨の木』の首つり男」「さかさまに立つ『雨の木』」、そして最後の「泳ぐ男――水のなかの『雨の木』」の3部構成と考えることができる。
「泳ぐ男」は、それまでの4篇と違って、ハワイの「雨の木」をめぐる想念が前面に出ることがなく、著者が通っていたスイミング・プールでの「事件」を中心に、話が進行する。作品冒頭にも書かれているが、前4編を受けつつも、シチュエーションも登場人物も大きく異なり、「雨の木」は背景に退く。その意味で異質な作品ともいえるが、大江は、そのことを意識しつつも、本作を連作短編集の締めの作品として書いている。初めて読んだ時は、この点に違和感を抱いたりした。再読してみて、主題の連続性において本作品が締めの位置にあることはそれなりに納得できる。
他方、冒頭の「頭のいい『雨の木』」は、その発表の仕方や、内容から言って、当初から「連作」を想定して書かれたものではないだろう。大江自身は、2作以後において、書かれるはずだった「雨の木」をモチーフとした長篇小説からスピンアウトした作品群であると位置づけて、「頭のいい」が当初から連作を意識していたものと断っている。
文庫版の解説を担当した作家の津島祐子も、大江の言説に従って、「ごく久し振りに、自然な成り行きとして、一連の短篇が生み出されるようになった」、「長らく長篇を書き続けていた作者が短篇を書き始めた。その最初の一冊の本が、この短篇集なのである」と「解説」している。
津島祐子の「解説」は誤りとまでは言えないかもしれないが、かなり不正確であると言わざるを得ない。というのも、「頭のいい」は、『「雨の木」を聴く女たち』の巻頭に収められる前に、大江健三郎『現代伝奇集』(岩波書店、1980年)の巻頭に収められていたからである。この時点で、「頭のいい」はグロテスク・ファンタジー短編集の一部を成していたのである。後に「『雨の木』を聴く女たち」を書く際に、大江は「頭のいい」の位置づけを変更したと見る方が正確である。それまで大江作品をほとんど読んでいなかった津島が、いわば「作家」であると言うただそれだけの理由で文庫解説の執筆を引き受けたために、位置づけ変更後の大江自身の説明をそのまま引き写したものとみられる。この時期の大江の「短篇集」の「最初の一冊」は『現代伝奇集』であるが、大江自身、『「雨の木」を聴く女たち』に言及することはあっても、『現代伝奇集』を自分の作品群に位置づける作業を放棄している。

些細なことだが、再読して気づいた点の一つが、「さかさまに立つ『雨の木』」のラストに、「アメリカに対して核実験被災の補償訴訟をおこしているマーシャル諸島の人びとや、ベラウの反核運動の進め手たちの話は聞いているでしょう」と書かれ、著者の元友人だった高安カッチャンの妻ペニーが「高安の灰と骨」をサモアに撒いたことになっていることだ。1982年に、この部分を読んだ記憶を持っていない。あまり考えずに読み飛ばしたのだろう。それ以前、マーシャル諸島やベラウ(パラオ共和国)のことを聞いたことはあっても、関心を持っていなかったためだ。2006年1月に、マーシャル諸島、ミクロネシア連邦、パラオ共和国を訪問した時のことは、『軍隊のない国家』(日本評論社、2008年)に収めた文章に記録しておいた。かつて「南洋諸島」として日本が支配した地域のこれら3カ国に国軍がないことと、これら3カ国が米軍の核戦略と、それぞれ違った形で向き合ってこざるを得なかったことを書き記しておいた。しかし、その時に『ヒロシマ・ノート』の著者である大江の文章を思い出すことはなかった。読者として迂闊だ。