Tuesday, October 27, 2015

「奇妙なナショナリズム」研究に学ぶ(7)

明戸隆浩「ナショナリズム批判と立場性――『マジョリティとして』と『日本人として』の狭間で」山崎望編『奇妙なナショナリズムの時代』
明戸はエリック・ブライシュ『ヘイトスピーチ』(明石書店)の翻訳者であり、この間、ヘイト・スピーチについて積極的に発言している社会学者である。理論研究もやっているが、ヘイト・スピーチに対するカウンター行動の現場で実態調査も続けている。私たちのヘイト・クライム研究会でも活躍している。
本論文で、明戸は、1995年以後の加藤典洋と高橋哲哉の間の論争を取り上げて分析している。その問題意識は<「エスニック・ネーション」日本におけるナショナリズム批判>である。当時の、歴史認識や戦争責任論、国民国家論、ナショナリズム批判、ポストコロニアリズム、カルチュラル・スタディーズにおける議論の方法が、「エスニック・ネーション」としての日本を念頭に置いたものであったがゆえに、「シビック・ネーション/エスニック・ネーション」の区分が前提とされていなかったと言う。このため、「日本人であること」と「マジョリティであること」の区分けのないままに議論が進められたと見る。日本では、「マジョリティ/マイノリティ」と「日本人/外国人」が重なり、混同されてしまうのだ。

明戸は、加藤と高橋の議論のすれ違いに踏みこむ。さらに、高橋と徐京植の議論や、上野千鶴子の議論も射程に入れて、90年代のナショナリズム批判の文脈自体を問い返す。この問題を、在特会的ナショナリズムが跋扈する現在の文脈との差異をどのように測定し直すのかと言う課題を提起する。ザイトクの排外主義とヘイト・スピーチ状況に対して、「日本人として」向き合うことと、「マジョリティとして」向き合うこと、の必要性と困難性の間に身を置くことでもある。