Monday, November 30, 2015

朴裕河訴追問題を考える(2)被害の有無について

(2)被害の有無について

*前回、抗議声明を出したグループを「日本人」として一括したが、日本人以外の人物も含まれる。ここでは抗議声明に加わった日本人を対象として批判するが、(特に国籍や民族の差異が関連する場合以外の)基本的内容は日本人以外にも妥当すると考える。

「知識人」声明は、「何よりも、この本によって元慰安婦の方々の名誉が傷ついたとは思えず、むしろ慰安婦の 方々の哀しみの深さと複雑さが、韓国民のみならず日本の読者にも伝わったと感じています。」と述べる。

このように「知識人」声明は被害を否定する。しかも、理由を何一つ示さない。長い声明の他の箇所でも被害については何も言及していない。

本件は、「慰安婦」とされた被害女性たちが、名誉毀損であるとして告訴したことに始まる。告訴を受けた検察が名誉毀損の嫌疑があると判断した。それにもかかわらず、「知識人」声明は、理由すら示さずに被害を否定する。

朴裕河の著述が被害者に対する名誉毀損であり、侮辱であるということは、韓国内で以前から指摘されてきた。民事裁判でも名誉毀損が問われた。

日本国内でも朴裕河による名誉毀損や侮辱の疑いはかねてから繰り返し指摘されてきた。

また、2015年11月29日朝日新聞記事によると、11月28日、VAWW RAC主催のシンポジウムで 「鄭栄桓・明治学院大学准教授が『……慰安婦にされた女性たちの名誉が侵害されている』と批判した。」という。

このように被害者及び複数の人間が名誉毀損と判断してきた。

「知識人」たちは、被害女性たちに対して、「お前が被害を受けたかどうかはお前が判断することではない。日本人知識人が判断することだ」と言っているに等しい。「そんなことは言っていない」という弁解は成立しない。「それしか言っていない」と言うべきであろう。

自分たちが、かつての「慰安婦」問題の加害側に属することすら忘れた驚くべき傲慢さである。

被害者による告訴・告発があり、一定の嫌疑があれば、起訴するのは自然なことである。もちろん、「慰安婦」とされた女性たちが被害を感じても、日本刑法では保護法益は「被害感情」ではない。従って、本当に法的に保護するべき被害があったのか否か、被害者の特定ができるか否かを、裁判所が判断するであろう。刑事裁判では、ごく普通のことである。

次に重要なのは、被害とは何か、である。

日本刑法における名誉毀損では、「公然と」「事実を摘示」して「人の社会的評価を下げる」ことが「名誉毀損」とされる。

「慰安婦」被害者を、人道に対する罪の被害者や性奴隷制の被害者ではなく、日本軍人と同志的関係にあったとか、売春婦であると非難することは、「人の社会的評価を下げる」ことに当たるであろう。

しかし、検討するべきことは「社会的評価」だけではない。本件で問われるべきは「人間の尊厳」である。

「慰安婦」被害女性たちは、20年以上にわたって「尊厳の回復」を求めて闘ってきた。

人間の尊厳は現代国際人権法の基本概念である。1945年の国連憲章前文は、第2次大戦における戦争の惨害に言及し、基本的人権と人間の尊厳を掲げた。1948年の世界人権宣言前文は「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳」と表現した。同宣言第1条は「すべての人間は・・・尊厳と権利について平等である」とする。女性差別撤廃条約も拷問等禁止条約も子どもの権利条約も障害者権利条約も人間の尊厳を掲げる。

「慰安婦」問題では、1990年代に国連人権委員会などの人権機関で議論が行われ、人間の尊厳の回復が求められた。被害女性自身が一貫して「尊厳の回復」を訴えてきた。韓国の支援団体も、日本の多くの市民団体も「尊厳の回復」を唱えてきた。

ところが、名誉毀損被害を否定する「知識人」声明は、人間の尊厳について一切語らない。ここに「知識人」声明の正体を見て取ることができる。


第2次大戦期に奪われた人間の尊厳の回復が求められている「慰安婦」問題について、あれほど饒舌に語りながら、人間の尊厳については一切語らない「知識人」とは、いったい何者なのか。彼らには、「慰安婦」問題のような歴史的重大人権侵害かつ性奴隷制という問題について発言する資格がないだろう。

Sunday, November 29, 2015

朴裕河訴追問題を考える(1)虚偽の事実について

朴裕河訴追問題を考える(1)

『帝国の慰安婦』の著者である朴裕河を韓国検察が名誉毀損の嫌疑で訴追した件について、日本ではおよそ事実に基づかない批判が行われている。

朴裕河の著書自体が事実に基づかずに他人を誹謗中傷してきたが、朴裕河を持ち上げる日本人「知識人」たちも事実を無視して、韓国検察を批判する。「類は友を呼ぶ」の好例であろうか。

私は韓国刑法についての専門的知識がないため本件にはコメントするつもりはなかったが、日本「知識人」の誤った主張がマスコミを通じて広められたので、最低限のことは提示しておく必要がある。

本件について検討するべき点は多いが、その全体に言及する余裕はない。「知識人」たちの声明には疑問点が多いが、そのすべてに言及することもしない。とりあえず、以下の主要な論点だけに限定する。

(1)  虚偽の事実について
(2)  被害の有無について
(3)  学問の暴力について
(4)  言論の責任について
(5)「アウシュヴィツの嘘」処罰について
(6)  在宅起訴について
(7)  植民地主義について

*註)当初、6項目だったが、12月1日に7項目に変更した。12月4日に表現を修正した。

なお、「知識人」声明は下記参照。

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(1)「虚偽の事実」について

「知識人」声明は「検察庁の起訴文は同書の韓国語版について「虚偽の事実」を記していると断じ、その具体例を列挙していますが、それは朴氏の意図を虚心に理解しようとせず、予断と誤解に基づいて下された判断だと考えざるを得ません。」と断定している。

 この文章は理解しがたい。「虚偽の事実」であるか否かと、著者の「意図」とは関係がない。(韓国刑法でどのように解釈・運用されてきたか知らないが)、日本刑法の名誉毀損では、「事実の摘示」(真実も含むが、特に虚偽の事実)と著者の故意とは別概念である。著者の故意がいかなるものであるかと、「事実の摘示」がなされたか否かとは、直接の関連がない。まして、事実の認識を中心とする故意を超えた「意図」によって左右されるわけではない。「故意」に「事実の摘示」をして「被害者の社会的評価」を下げれば「名誉毀損」が成立する。「真実性の証明」を抜きに、著者の「意図」によって正当化することはできない。もっとも、これは日本刑法の話である。韓国刑法において「真実性の証明」がどのように理解されているのか私は知らない。

 朴裕河『帝国の慰安婦』における「虚偽の事実」については、すでに鄭栄桓による詳細な分析がある。

 11月28日、VAWW RAC主催のシンポジウムで鄭栄恒が報告したことは、2015年11月29日朝日新聞が報道している。私は残念ながら参加できなかった。記事によると、「鄭栄桓・明治学院大学准教授が『本は事実認識の誤りや資料の恣意的解釈が多い。慰安婦にされた女性たちの名誉が侵害されている』と批判した。」という。もっともである。

 司会の金富子・東京外国語大学教授も「抗議声明に『歴史をどう解釈するかは学問の自由』とある。解釈は自由だが、問題なのは本の内容が事実かどうかということ」と述べたと言う。

 私が一番強く感じたのは、『帝国の慰安婦』が、重要な個所で事実認定する際に、日本人男性作家の小説を根拠にしていることだ。朴裕河は「史料に基づいた」などと言っているが、到底そうは言えない。日本人男性作家の記述から知ることができるのは、「日本人男性作家が慰安婦についてどう考えたか」である。ところが、朴裕河は「日本人男性作家がこう述べているから、慰安婦はこのような存在であった」とか、「慰安婦はこのように考えていたかもしれない」という推測をする。まともな歴史学の方法ではない。

『帝国の慰安婦』についての前田の書評


http://maeda-akira.blogspot.jp/2015/07/blog-post_13.html

ヘイト・スピーチ研究文献(44)レイシズムの計量的分析

高史明『レイシズムを解剖する――在日コリアンへの偏見とインターネット』(勁草書房、2015年)
帯の推薦の言葉は「ネットが加速させるレイシズムトヘイトスピーチ。膨大なデータの分析から明らかになる、深刻な現実とかすかな希望。――岸政彦さん」である。
目次を見れば、議論の立て方が良くわかる。
1章 問題と目的
2章 Twitterにおける言説の分析
 21 研究1 コリアンについての言説:誰が、どのような投稿をしているのか?
 22 研究1補足 レイシズム関連ツイートをさらに分析する
 23 研究2 中国人についての言説を用いた比較
 24 研究3 日本人についての言説:意識されるコリアン
 25 第2章のまとめ
3章 質問紙調査によるレイシズムの解明
 31 研究4 レイシズムは2つに分けられるのか?
 32 研究5 2つの“レイシズム”は“2つのレイシズム”か?
 33 第3章のまとめ
4章 インターネットの使用とレイシズムの強化
 41 研究6 インターネットの使用と右翼傾向に関係はあるのか?
 42 研究7 インターネットの何がレイシズムに関わるのか?
 44 第4章のまとめ
5章 集団間接触によるレイシズムの低減
 51 研究8 友達、友達の友達の効果
6章 全体考察
 61 本書の構成と研究結果
 62 在日コリアンに対するレイシズムの解明
 63 本書の意義
 64 本書の限界と今後の可能性
著者は、朝鮮人差別に関する歴史的分析の重要性、特に権利獲得運動の重要性をよくわきまえたうえで、それとはまったく異なるレイシズム分析を提示する。アメリカにおける黒人へのレイシズムの分析枠組みとして提唱された現代的レイシズムの概念を援用し、古典的レイシズムとの区別を踏まえて、レイシズム全体の現象を把握しようとする。
インターネットにおけるレイシズムについて、計量的な分析により、マスコミに対する不信感や、それに代わるインフォーマルなメディアへの傾倒を再確認する。ソーシャル・メディア上での言説の特徴を定量的に示し、過去における言説の文献研究との比較、ないし接合という次の課題にも言及する。
これまでのレイシズム研究とは異なる視点、方法、分析の呈示は魅力的である。古典的レイシズムと現代的レイシズムの異同、その歴史的由来の確認、両者の間の関係など、まだ十分に明らかとは言えないが、今後の研究を期待したい。

著者はコ・サミョンではなく「たか・ふみあき」という名である。「名前がコリアンであることを推測させるものであったために子どもの頃に繰り返し投げかけられた差別的な言葉」ゆえに、在日コリアンをめぐる問題に関心をもち、このような研究者になったと言う。

Saturday, November 28, 2015

ヘイト・スピーチ研究文献(43)ヘイト国家・日本と闘う

前田 朗「ヘイト国家・日本と闘う(一)(二)」『無罪!』2015年8月号、10月号
ヘイト・クライム、ヘイト・スピーチは新しい現象ではなく、ずっと以前から日本にあった。ヘイトとは、一定の属性を持つ集団に対する差別や暴力を煽動するという動機に着目した言葉であり、差別、暴力、排除、迫害につながる。暴力的側面に注目するとヘイト・クライム、言葉に注目するとヘイト・スピーチと呼ばれることが多い。いずれにせよ、差別の一形態である。
月刊イオ編集部編『高校無償化裁判――249人の朝鮮高校生たたかいの記録』(樹花社、2015年)は、朝鮮学校を高校無償化から除外する日本政府による差別を裁判に訴えた高校生を中心に、教員、父母、弁護士などの取り組みを詳しく紹介する。日本政府は朝鮮学校を差別しているが、同時にそれは差別の煽動であり、ヘイト・スピーチである。政府が上から国民に向かって「朝鮮人は差別してもいいんだ」と日々、教え込んでいるのだから。

同書第4章「民族教育をめぐる権利闘争のあゆみ」は戦後70年の朝鮮学校に対する差別と、教育の権利を求め、人権を求める朝鮮人の闘いの歴史を整理している。ヘイト国家・日本と闘う市民の歴史である。

ファシズムと闘う9人の男たち

『「開戦前夜」のファシズムに抗して』(かもがわ出版、2015年)
山口二郎「安倍的全体主義はどこから来て、どこへ行くのか」
想田和弘「『熱狂なきファシズム』に抵抗するために」
熊野直樹「『管理ファシズム』と現代日本政治」
成澤宗男「『日本会議』のルーツと国家神道」
森達也「多くの歴史的過ちは、こうして始まった」
白井聡「安倍首相とは何者なのか」
木村朗「『民主主義を装ったファシズム』の危機に直面する日本社会」
海渡雄一「原ファシズムの兆候を呈す安倍政権の排外主義と言論統制」
河内博史「『民族根絶やし』の危機」
政治学者、映画作家、政治家、弁護士など、それぞれの立場から日本政治に批判的に向き合い、発言してきた9人の男たちの最新の文筆の闘いである。本書企画を立案した木村朗は私と共編で『21世紀のグローバル・ファシズム』(耕文社)を出したが、続いていくつもの出版企画を立て、ファシズムの現在を解き明かす理論的営為を続けている。『21世紀』では、執筆者に男女をそろえ、日本人のみならず朝鮮民族や琉球民族の執筆者を選んだが、本書は日本人男性ばかりである。ジェンダーバランスが悪いが、私が次に予定している本も男ばかりなので人様のことをとやかく言えない。日本政治に責任を負う日本市民としての発言なので日本人ばかりにしたのかもしれない。

執筆者たちの問題意識は完全に共通であるが、分析視角や方法論はそれぞれ異なる。「安倍的全体主義」「熱狂なきファシズム」「管理ファシズム」「民主主義を装ったファシズム」といった認識が相互にいかなる関係にあるのかは必ずしも明らかではない。重なり合っているところもあれば、ずれるところもあるようだ。一つひとつの記述を見ていくと、異論のあるところも目立つことになるが、何よりも本気で安倍的現在と闘う9人の努力に敬意を表したい。

大江健三郎を読み直す(52)恩師の業績を語ること

大江健三郎『日本現代のユマニスト渡辺一夫を読む』(岩波書店、1984年)
1983年4~5月に開催された岩波市民セミナーにおける6回の講演記録である。セミナーへの参加を希望したが、直前に電話したところ満席でダメとのことだった。一年後に本書が出版されたので、すぐに購読した。
恩師・渡辺一夫について大江はいたるところで語ってきたといってもよいが、渡辺一夫の研究業績についてまとめて語ったものは意外に多くない。本書で多くを語ったからだろうか。
1回目は戦前エッセイと「敗戦日記」、2回目は寛容論などのエッセイ、3回目はフランス・ルネサンス、4回目は『乱世の日記』『太平の日記』、5回目はガルガンチュワとパンタグリュエル、6回目はガグリエル・デストレ。大江は、渡辺の文体と方法論に焦点を当てながら、渡辺が生きた時代と大江が生きる時代を交差させる。取り上げられた渡辺の作品をあまり読んでいない読者にも、なんとかついていけるのは講演記録のおかげだろうか。
渡辺=寛容論をもとに論じる大江=寛容論は、テロと紛争が激化する現在、いかなる意味を有するだろうか。渡辺「死者たちへの手紙」を大江はいま同じように読むのだろうか。

恩師の研究業績について公的に語ったことのない私だが、いよいよ還暦を迎えるので、来年は恩師の研究業績を再読し、これについて論じようと考えている。恩師の研究業績を読み解き、語ることとはどのようなことなのか。そういった関心から、本書は参考になった。

ヘイト・スピーチ研究文献(42)朝鮮人に対するヘイト・スピーチ小史

前田 朗「朝鮮人に対するヘイト・スピーチ小史(一)(二)」『部落解放』715号・716号(2015年)
ヘイト・スピーチが流行語になったのは2013年である。このこともあってか、最近ヘイト・スピーチについて言及する研究者の言説に「2013年にヘイト・スピーチが始まった」とか、「在特会が発足した2007年にヘイト・スピーチが始まった」といった趣旨の記述が出始めた。
しかし、日本におけるヘイト・スピーチはずっと以前からあった。ヘイト・クライムもヘイト・スピーチも一貫して存在してきたと言って良い。
アメリカでヘイト・クライム、ヘイト・スピーチという言葉が使われるようになったのは1980年代後半のことだが、この現象がそれ以前に存在しなかったわけではなく、研究論文を見ると、「アメリカ建国以来ヘイト・クライムがあった」として、アメリカ史におけるヘイト・クライムの歴史を記述している。
同様に日本におけるヘイト・クライムの歴史をきちんと記述する必要があるが、到底それだけの力がない。本論文では、筆者が「在日朝鮮人・人権セミナー」の一員として取り組んだ反差別と人権擁護闘争の中で出版した著作『いま在日朝鮮人の人権は』(1990年)、及び2冊のパンフレット『切られたチマ・チョゴリ』(1994年)、『再び狙われたチマ・チョゴリ』(1998年)をもとに、1987年、1989年、1994年、1998年に激化した朝鮮人に対する差別とヘイトを紹介した。

朝鮮半島の植民地化から現在に至る近代日本史における差別とヘイトの全体を射程に入れる必要があるが、それは歴史研究者にお願いするしかない。

Friday, November 27, 2015

ヘイト・スピーチ研究文献(41)アンチヘイト・ダイアローグ

中沢けい編『アンチヘイト・ダイアローグ』(人文書院、2015年)

作家・中沢けいが、8人の「リアリスト」と対談した記録である。中島京子、平野啓一郎、星野智幸、中野晃一、明戸隆浩、向山英彦、上瀧浩子、泥憲和。宣伝惹句は「ブレーキなき社会。壊れゆく政治。だが民主主義は、ここから始まる。」
多彩なメンバーをそろえた対談で、読んでためになると言うか、楽しい。2015年春の3か月ほどの間にこれだけの対談を実現したのは凄い。

Friday, November 20, 2015

渡れるはずの橋 「武蔵美x朝鮮大 突然、目の前がひらけて」

12日の朝日新聞でも報道されたが、武蔵野美術大学と朝鮮大学の学生たちのアートプロジェクト「武蔵美×朝鮮大 突然、目の前がひらけて」が開催中だ。


長年隣にありながらほとんど交流のなかった両大学学生たちがここ数年、一緒に美術展をやってきた。今年は、境界にある壁を超える橋をかけて、相互に行き来が出来るようにして、双方で展示をする美術展である。どちらの大学から入っても、橋を渡ることができる。私も橋を渡ってきた。交流の詳しい経過は、会場で配布されるパンフレットでよくわかる。

Tuesday, November 17, 2015

上野千鶴子の記憶違いの政治学(8)結論

1 上野千鶴子からの反論

11月11日、上野千鶴子が複数のMLに「Re:前田さんへの反論」を投稿した。400文字ほどの短い反論であり、次のような趣旨である。
  前田ブログ(7回)の内容は、最終回まで「かつての論文の再録というナツメロでした」。
  『ナショナリズムとジェンダー 新版』(岩波現代文庫、2012年)が出ていることを紹介し、「本MLの読者の方は、……、前田さんの上野批判を鵜呑みになさいませんように。」。
  「上野の『転向』に当たる部分は、前田さんの情報不足」と述べ、「『市民基金』が『国家賠償』の代替になると主張したことは一度もありません。」と主張。
  「何年も前の的外れの批判をくりかえされるのには心底うんざりです。」
上野からの反論は以上である。

2 事実の確認

  前田ブログ「上野千鶴子との記憶違いの政治学(1)~(6)」は「かつての論文の再録」であるが、それは「(1)」で明記したように、「上野からの抗議と謝罪要求に応答するための前提」である。そして、「(7)」では2015年の情報を2つ紹介して、上野を批判した。
それにもかかわらず、上野は「最終回まで……ナツメロ」として切り捨てている。内容への反論はしていない。
  前田は『ナショナリズムとジェンダー新版』を読んだが、今回は批判対象にしていない。そこまで射程にいれると分量が膨れ上がってしまい、時間がかかる。今回の批判の中心は、上野の「思想」と「方法論」がデタラメであることであり、そのために上野の著作全体を取り上げる必要はない。
   前田は「転向」という言葉で批判していないが、いずれにせよ「情報不足」ではない。的確な情報を提示している。
  前田は、2015年の上野の発言を取り上げて、批判した。「何年も前の的外れの批判」というのは事実に反する。

3 上野への批判の確認

前田は、2015年5月3日付『朝日新聞』上の上野発言、及び『I女のしんぶん』2015年11月10日付で紹介された15年10月21日の記者会見における上野発言を取り上げて、上野を批判した。
ところが、上野はこれを含めて「最終回まで……ナツメロ」とごまかした。

上野は半年前の自分の発言に対する批判を「ナツメロ」とごまかす。それどころか、1か月もたたない直前の発言にさえ頬かむりする。呆れ果てた無責任であるが、驚くべきことではない。これこそが上野千鶴子なのだ。

上野は、一方でアジア女性基金を正当化しながら、他方で、「謝罪と賠償を否定したことはない」などと、ごまそうとする。賠償を否定するアジア女性基金を正当化する上野は、自分が喋っていることの意味すら分かっていないのだろう。

経過を再確認しよう。

10月25日、上野千鶴子は、前田に対して「根も葉もないうわさレベルの中傷」と非難し、「謝罪」を要求した。

10月27日、上野千鶴子は、前田に対して「誤解と中傷以外のなにものでもありません。
あなたの『読解力』の不足でしょう。」と非難した。

11月7日、前田は、かつての論文を前提としつつ、今年の上野の2つの発言を取り上げて批判した。

これに対して、11月11日、上野は、「ナツメロ」と切り捨て、「心底うんざり」と捨て台詞を吐いた。

上野は、市民としての最低限のモラルすらわきまえていないのではないだろうか。

4 結論

先に「暫定的結論」として書いたことは完璧な内容であったので、「結論」として再録しよう。

(1)「慰安婦」に関する上野の主張は、数えきれない事実誤認と、皮相な「思想」と「方法論」によって成り立っている。
(2)上野は歴史修正主義を学問に祭り上げ、擁護する。
(3)「慰安婦」についての日本政府の責任を上野はあいまいにし、二枚舌を駆使し、責任逃れをする日本政府に奉仕し、すり寄る。

(4)それゆえ、前田の上野批判は的確であり、撤回すべき理由は皆無である。

Saturday, November 07, 2015

上野千鶴子の記憶違いの政治学(7)暫定的結論

 1、おひとりさまの偽装学問

上野が「慰安婦」問題について国際法、国際条約に依拠した議論を乱暴に非難し続けたことは、すでに(1)~(6)において何度も言及し、上野の「思想」と「方法論」の実態を明らかにした。

そもそも、藤岡や小林らの歴史修正主義を「実証史学」に祭り上げ、学問として扱う上野は失格である。上野は次々とデタラメを並べ立てて、歴史修正主義を学問に持ち上げた。必死になって歴史修正主義を粉飾し、その伴走者となった。

他方で、上野は、吉見や鈴木らを何の根拠もなしに引きずりおろし、歴史修正主義と同列に扱う。これによって、歴史修正主義の「外野席の応援団長」として大活躍した。

なお、当時の吉見義明の見解がネット上にアップされているので、吉見論文を参照されたい。


2.最近の上野の見解

本年5月3日の朝日新聞に掲載された上野千鶴子のインタヴューの一部をオンラインで見ることができる。

私は5月3日の記事そのものを見ていないが、以下ではネット上に引用された記事をもとに論じる。ネット上に5月9日にアップされ、半年間掲載されている。上野は訂正・撤回要求をしていないので引用の内容は正確であろうという、いちおうの推定をもとにしている(推定を覆す事情があれば、訂正する)。

なお、上記のサイトでは、上野を「国家賠償派」と呼んでいる。不正確な表現だと思うが、上野の自己宣伝を真に受けたのであろう。

(1)「なぜ基金に反対したのですか」と問われて、上野は次のように述べている。

「国の基金ではないし、日本政府の責任をあいまいにするものだった。代替案として、市民基金のようなものを作れなかったのかという思いはありますね。」

*それでは「日本政府の責任」とは何だろうか。上野の理屈からすると、法的責任ではない。となると、道義的責任を意味することになる。当時も今も、日本政府に法的責任があるのか道義的責任だけなのかが争われているのに、上野はそこを「あいまいにする」。今になって「謝罪と賠償を否定したことはない」などと取り繕っても無駄である。被害としての人権侵害を認めれば法的責任を認めるのが常識と言うものだ。

(2)さらに上野は次のように述べる。

「政府の公式謝罪を市民が代わってすることはできない。でも国家を背負っていない市民も共感を示すことはできる。NGOで市民基金が実現していたら、その共感をもっとうまく伝えられたかもしれない。できなかったのは運動の側に力量がなかったこともあるけど、支援者側には政府の責任追及が最優先でお金による解決に忌避感があった。」

*「政府の公式謝罪を市民が代わってすることはできない」のはその通りだが、そこからなぜ「市民基金」になるのか、意味不明である。「政府の公式謝罪を代わってすることはできない」から、市民には「国家に謝罪するように働きかける責務」「努力する義務」があるのではないか。上野は、20年間の妄想に過ぎない「市民基金」などを持ち出して、重要なことを「あいまいにする」。

(3)もう一つ、上野の言葉である。

「自社さ政権のもとで村山談話が出され、不十分ながらも戦後補償の枠組みが示された。アジア女性基金を推進した人たちが、こうした状況を千載一遇のチャンスだと考えた政治判断は、歴史的に見れば当たっていた。痛恨の思いをこめ、それは認めざるをえません。これほど政治や世論が右傾化するとは、当時は思ってもみなかった。」

*ネット上では、この言葉は上野の敗北宣言、失敗宣言と受け止められている。「アジア女性基金」の「政治判断は、歴史的に見れば当たっていた」ことを「認めざるをえません」と明確に述べているからである。

20年もの間、アジア女性基金を推進してきた和田春樹でさえ「国民からの基金で『償い金』を出すという政府の基本コンセプトに本質的な欠陥があることがわかった」と誤りを認めた。20年前から明々白々だったことに今頃気づくのが和田である。度し難い愚劣さに驚き、呆れるが、それはここでの本題ではない。

ところが、上野は今になって「アジア女性基金」の「政治判断は、歴史的に見れば当たっていた」などと頓珍漢な翼賛に励む。和田がアジア女性基金の「本質的な欠陥」を認めてしまったので、和田に代わって上野がアジア女性基金の正当性を唱え出した。アジア女性基金は、言うまでもなく日本政府の方針である。上野は懸命に日本政府にすり寄る。正体露見と言うべきか、相変わらずの知的退廃と言うべきか。


(4)『I女のしんぶん』2015年11月10日号の記事が、10月21日に参議院会館で行われた「緊急声明『慰安婦問題』解決のために」の記者会見の模様を伝えている。その一節を引用する(文章は上野のものではなく、同緊急声明呼びかけ人の一人である中村ひろ子によるものである)。

<上野千鶴子さん(社会学者・東大名誉教授)は「いま日韓関係は最悪の状態。関係改善には慰安婦問題が大きな”トゲ“だが、解決策はすでに提示されている。民主党・野田政権末期には解決目前まで来ていたと聞いた」。
 そして昨年「日本軍『慰安婦』問題アジア連帯会議」が出した日本政府への提言について触れ、「法的責任か道義的責任かの二項対立を回避し、『公的謝罪とその証としての賠償』という具体的解決策が、被害者と支援団体から示されたことが最も大きな前進」と強調した。…(以下略)>

*ポイントは上野が「法的責任か道義的責任かの二項対立を回避」する「解決策」を「最も大きな前進」と評価していることである。
上野は法的責任を主張せず、それどころか法的責任を主張する論者に対して猛烈な非難を加えてきた。法的責任か道義的責任かを一貫してあいまいにした無内容な「責任」を唱えてきた。だから、アジア女性基金を正当化してしまうのだ。このことを何度でも確認しておこう。


3.暫定的結論

(1)「慰安婦」に関する上野の主張は、数えきれない事実誤認と、皮相な「思想」と「方法論」によって成り立っている。
(2)上野は歴史修正主義を学問に祭り上げ、擁護する。
(3)「慰安婦」についての日本政府の責任を上野はあいまいにし、二枚舌を駆使し、責任逃れをする日本政府に奉仕し、すり寄る。
(4)それゆえ、前田の上野批判は的確であり、撤回すべき理由は皆無である。

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*1 今回は、上野からの批判に応答した2つの文章を公表し、及び最近の記事をもとに若干コメントした。


*2 上野の『ナショナリズムとジェンダー』はその後、岩波現代文庫に収められ、「新版」も出ている。この間、上野は関連する多くの文章を発表している。今回はそれらを対象としていない。必要が生じれば、それらを検討対象にすることになる。