Saturday, November 07, 2015

上野千鶴子の記憶違いの政治学(7)暫定的結論

 1、おひとりさまの偽装学問

上野が「慰安婦」問題について国際法、国際条約に依拠した議論を乱暴に非難し続けたことは、すでに(1)~(6)において何度も言及し、上野の「思想」と「方法論」の実態を明らかにした。

そもそも、藤岡や小林らの歴史修正主義を「実証史学」に祭り上げ、学問として扱う上野は失格である。上野は次々とデタラメを並べ立てて、歴史修正主義を学問に持ち上げた。必死になって歴史修正主義を粉飾し、その伴走者となった。

他方で、上野は、吉見や鈴木らを何の根拠もなしに引きずりおろし、歴史修正主義と同列に扱う。これによって、歴史修正主義の「外野席の応援団長」として大活躍した。

なお、当時の吉見義明の見解がネット上にアップされているので、吉見論文を参照されたい。


2.最近の上野の見解

本年5月3日の朝日新聞に掲載された上野千鶴子のインタヴューの一部をオンラインで見ることができる。

私は5月3日の記事そのものを見ていないが、以下ではネット上に引用された記事をもとに論じる。ネット上に5月9日にアップされ、半年間掲載されている。上野は訂正・撤回要求をしていないので引用の内容は正確であろうという、いちおうの推定をもとにしている(推定を覆す事情があれば、訂正する)。

なお、上記のサイトでは、上野を「国家賠償派」と呼んでいる。不正確な表現だと思うが、上野の自己宣伝を真に受けたのであろう。

(1)「なぜ基金に反対したのですか」と問われて、上野は次のように述べている。

「国の基金ではないし、日本政府の責任をあいまいにするものだった。代替案として、市民基金のようなものを作れなかったのかという思いはありますね。」

*それでは「日本政府の責任」とは何だろうか。上野の理屈からすると、法的責任ではない。となると、道義的責任を意味することになる。当時も今も、日本政府に法的責任があるのか道義的責任だけなのかが争われているのに、上野はそこを「あいまいにする」。今になって「謝罪と賠償を否定したことはない」などと取り繕っても無駄である。被害としての人権侵害を認めれば法的責任を認めるのが常識と言うものだ。

(2)さらに上野は次のように述べる。

「政府の公式謝罪を市民が代わってすることはできない。でも国家を背負っていない市民も共感を示すことはできる。NGOで市民基金が実現していたら、その共感をもっとうまく伝えられたかもしれない。できなかったのは運動の側に力量がなかったこともあるけど、支援者側には政府の責任追及が最優先でお金による解決に忌避感があった。」

*「政府の公式謝罪を市民が代わってすることはできない」のはその通りだが、そこからなぜ「市民基金」になるのか、意味不明である。「政府の公式謝罪を代わってすることはできない」から、市民には「国家に謝罪するように働きかける責務」「努力する義務」があるのではないか。上野は、20年間の妄想に過ぎない「市民基金」などを持ち出して、重要なことを「あいまいにする」。

(3)もう一つ、上野の言葉である。

「自社さ政権のもとで村山談話が出され、不十分ながらも戦後補償の枠組みが示された。アジア女性基金を推進した人たちが、こうした状況を千載一遇のチャンスだと考えた政治判断は、歴史的に見れば当たっていた。痛恨の思いをこめ、それは認めざるをえません。これほど政治や世論が右傾化するとは、当時は思ってもみなかった。」

*ネット上では、この言葉は上野の敗北宣言、失敗宣言と受け止められている。「アジア女性基金」の「政治判断は、歴史的に見れば当たっていた」ことを「認めざるをえません」と明確に述べているからである。

20年もの間、アジア女性基金を推進してきた和田春樹でさえ「国民からの基金で『償い金』を出すという政府の基本コンセプトに本質的な欠陥があることがわかった」と誤りを認めた。20年前から明々白々だったことに今頃気づくのが和田である。度し難い愚劣さに驚き、呆れるが、それはここでの本題ではない。

ところが、上野は今になって「アジア女性基金」の「政治判断は、歴史的に見れば当たっていた」などと頓珍漢な翼賛に励む。和田がアジア女性基金の「本質的な欠陥」を認めてしまったので、和田に代わって上野がアジア女性基金の正当性を唱え出した。アジア女性基金は、言うまでもなく日本政府の方針である。上野は懸命に日本政府にすり寄る。正体露見と言うべきか、相変わらずの知的退廃と言うべきか。


(4)『I女のしんぶん』2015年11月10日号の記事が、10月21日に参議院会館で行われた「緊急声明『慰安婦問題』解決のために」の記者会見の模様を伝えている。その一節を引用する(文章は上野のものではなく、同緊急声明呼びかけ人の一人である中村ひろ子によるものである)。

<上野千鶴子さん(社会学者・東大名誉教授)は「いま日韓関係は最悪の状態。関係改善には慰安婦問題が大きな”トゲ“だが、解決策はすでに提示されている。民主党・野田政権末期には解決目前まで来ていたと聞いた」。
 そして昨年「日本軍『慰安婦』問題アジア連帯会議」が出した日本政府への提言について触れ、「法的責任か道義的責任かの二項対立を回避し、『公的謝罪とその証としての賠償』という具体的解決策が、被害者と支援団体から示されたことが最も大きな前進」と強調した。…(以下略)>

*ポイントは上野が「法的責任か道義的責任かの二項対立を回避」する「解決策」を「最も大きな前進」と評価していることである。
上野は法的責任を主張せず、それどころか法的責任を主張する論者に対して猛烈な非難を加えてきた。法的責任か道義的責任かを一貫してあいまいにした無内容な「責任」を唱えてきた。だから、アジア女性基金を正当化してしまうのだ。このことを何度でも確認しておこう。


3.暫定的結論

(1)「慰安婦」に関する上野の主張は、数えきれない事実誤認と、皮相な「思想」と「方法論」によって成り立っている。
(2)上野は歴史修正主義を学問に祭り上げ、擁護する。
(3)「慰安婦」についての日本政府の責任を上野はあいまいにし、二枚舌を駆使し、責任逃れをする日本政府に奉仕し、すり寄る。
(4)それゆえ、前田の上野批判は的確であり、撤回すべき理由は皆無である。

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*1 今回は、上野からの批判に応答した2つの文章を公表し、及び最近の記事をもとに若干コメントした。


*2 上野の『ナショナリズムとジェンダー』はその後、岩波現代文庫に収められ、「新版」も出ている。この間、上野は関連する多くの文章を発表している。今回はそれらを対象としていない。必要が生じれば、それらを検討対象にすることになる。