Tuesday, March 22, 2016

大江健三郎批評を読む(6)フィールドワーク:<四国の森>

大隈満・鈴木健司編著『大江健三郎研究――四国の森と文学的想像力』(リーブル出版、2004年)
おもしろい本だ。つい最近まで知らなかったが、古書で入手した。
初期の『芽むしり仔撃ち』、代表作の『万延元年のフットボール』、『同時代ゲーム』、『懐かしい年への手紙』、さらには『燃え上がる緑の木』に至るまで、大江の主要作品に登場する<四国の森>は大江の故郷の大瀬をモデルにしたものであることは明らかである。とはいえ、現実の大瀬がそのまま描かれているわけではなく、大瀬の歴史や現在をもとに、大江が作家的想像力で改変し、物語を構築してきたことも当たり前ではあるが、当然、前提として理解されてきた。
ところが、本書は、そうした前提に立ちつつも、現実の大瀬に立ち入って調査し、報告する。高知大学教授の鈴木健が、授業の「総合社会文化研究」で大瀬を調査することにして、学生とともに大瀬に行き、現地で取材・調査を行った。愛媛大学教授の大隈満も加わった。その結果報告が本書第一部に収録されている。
例えば、大瀬の地理・街並み・住居と、大瀬作品に登場する地理・街並み・住居の対応関係が明らかにされる。
あるいは、『万延元年』に登場する「地獄図絵」が、大江家の菩提寺の「地獄極楽掛物四幅容」として実在し、内容も対応していること、それが源信の『往生要集』に由来することを実証的に調査している。
第二部には、そうした報告をもとに、現実と小説作品を見据えながらの分析が展開されている。「虚構と現実の媒介としての音楽室」「倒立する<谷間の村>」「念仏踊り考」など、どれも新知見をもちに考察を加えている。
調査結果の全部ではなく、ごく一部しか収録されていないようなのが残念だが、おそらく執筆者たちがほかの場所で、それぞれ執筆・報告しているのだろう。

活字になった大江作品だけをもとに想像を広げ、思考することもできるし、本書のように現地調査をもとに議論することもできる。現地調査結果によって、読者の自由な想像が制約されることもありうるかもしれないが、逆に、より空想の幅を広げることもありうる。大瀬を訪れたことのない私には、とても楽しい本であった。

アイヌ文化史の複雑性と多様性

瀬川拓郎『アイヌと縄文――もうひとつの日本の歴史』(ちくま新書)
第1章 アイヌの原郷―縄文時代(アイヌと縄文文化、アイヌと縄文人、アイヌと縄文語)
第2章 流動化する世界―続縄文時代(弥生・古墳時代)(弥生文化の北上と揺れ動く社会
古墳社会との交流、オホーツク人の侵入と王権の介入)
第3章 商品化する世界―擦文時代(奈良・平安時代)(本州からの移民、交易民としての成長、同化されるオホーツク人)
第4章 グローバル化する世界―ニブタニ時代(鎌倉時代以降)(多様化するアイヌの世界
チャシをめぐる日本と大陸、ミイラと儒教)
第5章 アイヌの縄文思想(なぜ中立地帯なのか?、なぜ聖域で獣を解体するのか)
日本史では、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代の軸区分が用いられ、これを基準として北海道の歴史を解釈していた時代があった。しかし、北海道には弥生時代や古墳時代は見られない。今では、北海道には続縄文時代、オホーツク文化、擦文時代、アイヌ文化(本書著者はニブタニ時代と呼ぶ)があるとされている。本州以南が縄文から弥生への道をたどったのに対して、北海道では縄文時代が変容しながらも続き、独自の発展を経て、今日のアイヌ民族が形成されてきた。
しかし、縄文人からアイヌ民族に至る過程で、彼らは世界から孤立していたわけではない。屋用時代の日本との接触もあり、交易もあった。北のニブヒ(ギリヤーク)の南下によるアホーツク文化との交流もあった。商品化する世界では、サッケ、オオワシ、アワビ、アシカなどの交易が盛んであった。経済、社会、家族、宗教など複雑な歴史がある。最新研究成果をもとにアイヌ民族形成に至るまでの古代・中世の世界を見せてくれる。

札幌に生まれ育ち、少年時代に教わったアイヌ史のイメージがすっかり様変わりしていることは知っていたし、これまでもいくつか読んできたが、本書でかなり整理がついた。

Monday, March 21, 2016

ワルシャワ・ゲットーで読んだ済州島4.3事件

金時鐘『朝鮮と日本に生きる』(岩波新書)
植民地朝鮮で軍国主義日本の少年として教育を受けた著者が、8.15の解放、その後の済州島の政治的動乱、とりわけ4.3事件をどのように経験し、どのように生き延びて、日本へ脱出したか、を振り返り、4.3事件を問い直し、「在日」を問い直した自伝である。4.3事件については、文京『済州島四・三事件』、金石範・金時鐘『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか』があり、記録映画『レッド』もある。済州島現地フィールドワークにも行ったことがある。とはいえ、やはりなかなか理解できない点も多かった。前2著と合わせて立体的に見ることができる。
本書を購入した時に、「この本はワルシャワのゲットーで読もう」と思い付いた。思いついてしまったので、実際に週末はワルシャワへ行ってきた。中央駅の近く、スターリン時代にソ連がポーランドに贈った人民文化宮殿の近くのホテルに滞在し、その裏手側に広がっていたワルシャワ・ゲットーだった地域を2日かけて歩き回った。ワルシャワ蜂起記念碑を見てから、クラシンスキフ公園あたりで読もうかと思っていたが、ワルシャワはまだ寒い。喫茶店をはしごして、本書を読了。

ワルシャワで読もうなどと思い付いたのは、たぶん、ピアニストの崔善愛さんが、ショパンを書いた本の中で「花束の中の大砲」といった言葉を使っていたのが記憶にあったためだ。故郷を離れざるを得なかったショパンの美しい調べに潜む強い意志。指紋押捺拒否を貫いて日本に帰れなかったかもしれなかった崔善愛さん。故郷を捨てざるを得ず、命がけで日本に逃れてきた金時鐘。植民地や「在日」の歴史を知識で知っていても、一人ひとりの個人の思いや体験は測りがたい。そんなことを思いながら、860円の新書を1冊読むために飛行機に乗ってワルシャワへ行ってきた。そこまでしなくても良かったが、あえてそうして良かった。

Friday, March 18, 2016

グランサコネ通信16-09 人種差別撤廃国際デーの討論

18日、ジュネーヴで開催されている国連人権理事会31会期において、NGOの国際人権活動日本委員会(JWCHR、前田朗)は、「人種差別撤廃国際デーを記念しての世界中の人種差別に関するパネルディスカッション」において次のように発言した。
<人種差別撤廃国際デーを記念しての世界中の人種差別に関するパネルディスカッションの有益な議論を歓迎する。ダーバン宣言と行動計画は、人種主義および人種差別と闘うための国連の包括的枠組みと堅固な基礎を提供した。15年前、ダーバンの世界会議において認めたことは、植民地主義が人種主義、人種差別、外国人嫌悪、関連する不寛容をもたらすことであった。植民地主義が引き起こす苦痛を認識し、植民地主義を非難し、その再発を予防すべきことを認識した。また、人種主義と人種差別は武力紛争の根源の一部であることを認めた。今、われわれは新植民地主義と人種差別の密接な関係を認識するべきである。この点で、25年前に国連国際法委員会が行った植民地支配犯罪に関する歴史的議論を想起したい。1991年、ド・ティアム特別報告者は、国連国際法委員会第43会期に、人類の平和と安全に対する罪の法典草案を提出した。特別報告者は、植民地支配犯罪を平和に対する罪と特徴づけた。残念なことに、国際法委員会は1995年に植民地支配犯罪を採用しないことに決めた。今、われわれはこのことを想起し、新植民地主義と世界中の人種差別の不可分の結びつきを理解するために、このテーマを深く探究するべきである。>
国連70年、人種差別撤廃条約50年、ダーバン宣言15年の人種差別撤廃国際デー(3月21日)を記念してのパネルディスカッションだった。パネラーは
-Mr. Doudou Diène, Chair of the International Coalition of Sites of Conscience and former Special Rapporteur on contemporary forms of racism, racial discrimination, xenophobia and related intolerance
-Ms. Margarette May Macaulay, Commissioner, Rapporteur on the Rights of Women and Rapporteur on the Rights of Afro-descendants, Inter-American Commission on Human Rights
-H.E. Mr. Abdul Samad Minty, Chair of the  Ad Hoc Committee on the Elaboration of Complementary Standards and former Permanent Representative of South Africa to the United Nations Office and other International Organisations at Geneva
-Ms. Mireille Fanon Mendès-France, Chair-Rapporteur of the Working Group of Experts on People of African Descent
事務局が事前に用意したキーノートを見ると、植民地主義への言及がない。昔なら当然、植民地主義の話がメインだったはずなのに、と考えてみると、21世紀になってというか、9.11以後というか、文明の衝突やら、反テロやら、いろんな文脈で語られているうちに、植民地主義は過去のことにされつつある。4人のパネラーも植民地主義について語らなかった。政府発言の中で植民地主義に言及したのは中国、キューバ、ヴェネズエラくらいのものだ。そこで、NGO発言の中で、植民地主義と新植民地主義について言及した。
ダーバン宣言については、
植民地支配犯罪については、前田朗「植民地支配犯罪論の再検討」『法律時報』2015年9月号参照。
Syrah, Jean-Rene Germanier, Valais, 2014.




Thursday, March 17, 2016

**党NO.4だったと連呼する悲しさ

筆坂秀世『日本共産党と中韓』(ワニブックスPLUS新書)
成田空港の書店にあったので買ってきた。予想通りの内容だったのが残念。
副題が「左から右へ大転換してわかったこと」で、著者の肩書は「元日本共産党参議院議員・性策委員長」で、「元・日本共産党NO.4が保守派になったら驚いた!」と大きく書いてある。もう10年近く「NO.4」と連呼している。
内容は、かつての日本帝国主義時代、コミンテルンが日本革命ではなく、中国革命やソ連擁護を主たる関心としていたことから始まる。これが「左から右へ大転換してわかったこと」というのは、あまりにも奇妙だ。コミンテルンが中国革命やソ連擁護を主たる関心としたのは100%当たり前で、それがわからなかったという常識はずれの人間は世界に著者だけではないだろうか。
その後、本書は毛沢東批判、共産党野党外交批判、慰安婦問題での日本共産党の右往左往の批判と続く。さらに、東京裁判、靖国問題だ。
その内容はちょっとレベルが低すぎで引用する気になれない。呆れるほど古臭い「右翼」の所説を垂れ流しているだけだ。私が知る「右翼」に、ここまで旧態依然とした思考の持ち主はまれだと思うが。尊敬に値する「右翼」も多数いるが、著者はレベルが違い過ぎ。
左から右へ、上から下へ、縦から横へ、立場を変えるのは思想信条の自由であり、著者の発言も自由だ。日本共産党について知られざる情報を提供してくれるのなら、立場はどうであれ、有益なはずだ。
だが、共産党という言葉を見たら必死で叩くだけの信条は、いささか理解の外でもある。NO.4の大物になった著者としては、10年たっても、いまのご主人様に認めてもらうためには、ひたすら共産党叩きをしなくてはならない、ということか。
いつまでたっても「自分」を見つけられずにいるのだろう。まあ、いいけど。

マルセロ展散歩

世界の中のスイス博物館で「マルセロ展」をやっているので大喜び。
マルセロとフリブール美術館
マルセロはフリブール生まれの女性美術家で、Adèle d’Affryというが、当時は女性美術家は認められず、サロンに出展できなかったので、男の名前マルセロを使っていた。代表作の<Pithia>はパリにあり、フリブールにはレプリカがある。レプリカも素晴らしいが、本物を見に行こうと思っていたら、ジュネーヴで展示された。

フリブールのダフリー家、家族たち、少女時代、そして美術教育。その後ローマでの本格的修行、結婚、夫の死、そこから芸術家人生への歩み。ブロンズ、大理石、油彩、デッサンが多数あり、とてもよかった。お目当ての<Pithia>はやはり最後の展示室に置いてあった。それ以前に、ブロンズのヘレンや、マリ・アントワネットや、油彩のインド人など、フリブールでは見られない作品もいくつかあった。今年のスイスの美術館の授業で一番の目玉になるので、資料も入手。受付にはカタログのほかに、Caterina Pierre, “ Genius has no sex” The Sculpture of Marcello, infolio, 2010. という研究書があったので購入。著者はニューヨーク市立大学准教授、美術史研究者、本書が初の単著。

Tuesday, March 15, 2016

グランサコネ通信16-08 日本のヘイト・スピーチを国連に報告

15日、ジュネーヴで開催されている国連人権理事会31会期において、NGOの国際人権活動日本委員会(JWCHR、前田朗)は、マイノリティ議題(リタ・イザク特別報告者とのインタラクティヴ・ダイアログ)において次のように発言した。
<マイノリティに関するリタ・イザク特別報告者の素晴らしい報告書(A/HRC/31/56)が部落差別に言及したことを歓迎する。特別報告者が本年1月に日本を訪問したことを歓迎する。
 日本では、韓国との二国間関係に伴って、在日朝鮮人に対するヘイト・スピーチ・デモが増加している。右翼団体が、朝鮮人を「ゴキブリ」と呼び、「日本から追い出せ」「韓国人を殺せ」と叫んでいる。ところが、日本政府は表現の自由だなどと言って、ヘイト・クライム/ヘイト・スピーチを予防する措置を何ら講じていない。
 二〇一二年、国連人権理事会の普遍的定期審査において、複数の国々が、日本にヘイト・クライム法制定を勧告した。二〇一四年、人種差別撤廃委員会は、日本に人種差別禁止法を制定するように勧告した。
 二〇一三年、国際社会権規約委員会は、日本によって性奴隷被害を受けた「慰安婦」からの搾取について公衆に教育し、ヘイト・スピーチやスティグマを予防するように勧告した。今月七日、女性差別撤廃委員会は、指導者や公職にある者が性奴隷制についての日本の責任を否定し、被害者に再トラウマとなるような発言を控えるように勧告した。
 日本政府は速やかにマイノリティに対する差別予防の措置を講じ、ヘイト・スピーチ法を制定するべきである。リタ・イザク特別報告者が次回は日本に公式調査訪問するよう要請する。>

Comte de Geneve, Rose, 2015.

70年代フェミニストのヨーコ節

飯村隆彦編『ただの私 オノ・ヨーコ』(講談社文庫、1990年)
ジョンが亡くなって6年後の1986年に出版され、90年に文庫。
冒頭はオコ・ヨーコの人生を振り返った「わが愛、わが闘争」。幼年時代、アーティストとしての活躍、結婚と離婚、ジョンとの出会いなど。次の「日本男性沈没」は当時大笑いの文章だったが。男女関係が逆転した筒井康隆的世界。「母性社会の必然性」「女性上位万歳」「家も政治も女と交代したら」は70年代フェミニストのヨーコ節だ。今となってはやや古臭いところもないではないが。「未来は・・・未知数」はアバンギャルドとロックの合体に示されるアーティストの一面。「先ず母親、次にアーティスト」はジョンが殺され、ショーンを守らなくてはならない苦しい時期をどう乗り切ったか。最後に「女」、そして「明日またいくんだ」――ジョンの思い出に捧げられた珠玉のエッセイ。
「世界で一番多忙で有名な未亡人」と呼ばれたヨーコの当時を知ることのできる本だが、ジョンの思い出の部分はわずか。それでも懐かしく、感銘を受ける。性差別主義のルビがフェミニズムになりかねない現在の日本で、ヨーコのフェミニズムを想起する意味は大いにあるだろう。

編者の飯村隆彦は、当時ヨーコと同様、ニューヨークのアートシーンで活躍した映像作家で、『オノ・ヨーコ 人と作品』の作者でもある。ジョンと出会う前の、アーティスと・ヨーコを知ることのできる本。

Monday, March 14, 2016

ヘイト・クライム禁止法(105)ウズベキスタン

ウズベキスタン政府が人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/UZB/8-9. 13 May 2013)によると、憲法第57条は「戦争や、社会的民族的人種的宗教的対立を唱道すること、人員の健康道徳を低下させること、民族的宗教的基準で議会内党派や政党を結成することで、憲法体制を実力で変更さ使用とする政党や結社を禁止している」。1996年の政党法、1999年のNGO-NPO法、1998年の良心の自由と宗教団体法も同様の趣旨を盛り込んでいる。
2007年のマスメディア法改正は、戦争、暴力やテロ、宗教的過激主義、分離主義や原理主義、のためのプロパガンダ、又は国民的人種的民族的宗教的敵対を煽動する情報の流通を行ってはならないとしている。
刑法156条「民族的人種的宗教的憎悪の煽動」は、国民的出身、人種、民族的背景又は宗教に基づいて人の集団に向けられた敵意、不寛容、不調和を煽動し、直接又は間接に権利を制限し、国民的出身、人種、民族的背景又は宗教に基づいて直接または間接の特権を拡大しようとして、民族共同体の名誉と尊厳を攻撃し、支持者の感情を煽動することを、五年以下の自由剥奪としている。
刑法141条のもとで、性別、人種、民族集団、言語、宗教、社会的背景、信仰、個人の地位又は社会的地位に基づいて市民の権利を侵害、制限したり、特権を付与することは、最低賃金の五〇倍の罰金とする。
刑法97条2項は、故意の殺人が民族的又は人種的敵意を動機とした場合、一五年以上二五年以下、または終身自由剥奪刑とする。傷害罪についても刑罰加重事由としている。
2010年、2011年、2012年前期に、労働社会保護省は人種差別事案の申し立てを受け取っていない。
司法統計では、2010年、刑法156条の「民族的人種的宗教的憎悪の煽動」で有罪判決の言い渡しを受けたのは、刑事裁判の0.12%、2011年は0.1%、2012年前期は0.08%である。
人権コミッショナー(オンブズマン)が市民の権利侵害の申し立てを受け取る。ウズベク市民、在住外国人、無国籍者も申し立てできる。良心の自由に関して、オンブズマンは2010年に、宗教的理由で拘禁、訴追、有罪判決を受けたという288の申し立てを受けた。2011年にこの申し立ては減少したが、オンブズマンは良心の自由と宗教団体法が適切に適用されていないと見ている。
検察統計によると、2011年と2012年前期、刑法156条について、過激宗教団体のゆえに二〇名について捜査が行われた。刑法141条の事案はない。

NGOの主張によると、権利侵害の申し立ては、労組連合では89%が女性、1.02%が青年、9.7%が障害者からであった。

Sunday, March 13, 2016

愛国的無関心が生む差別と暴力

内藤千珠子『愛国的無関心――「見えない他者」と物語の暴力』(新曜社)
http://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/978-4-7885-1453-9.htm
<「韓国」「北朝鮮」「在日」などの記号に罵声を浴びせるヘイトスピーチ、ネット上での匿名による中傷など、最近の愛国的空気のなかには、明らかに相手は誰でもいいという「他者への無関心」があります。本書は、このような風潮を近代日本の帝国主義に基づく無関心に起因しているとして「愛国的無関心」と名づけ、その構造を近現代のメディア言説、小説、映画などを題材に明らかにしていこうとします。そのさい、かつてファシズム期に行なわれた「伏字」(危ない文章を○や×で置き換えたもの)という日本独特の検閲制度が重要な役割を果たし、我々の他者への不感性を作り上げてきたと言います。瀬戸内寂聴、徳田秋声から現代の「在日」小説までをとりあげて、斬新な視点から思想史に新風を吹き込みます。デビュー作『帝国と暗殺』の続編でもあります。>
生きにくさと暴力、愛国の物語とジェンダー、無関心の論理、仮想現実を語る「私」――著者はこうした現在的状況の下で起きている、排外主義やヘイト・スピーチに着目し、なぜ、あのような形で排外主義とヘイト・スピーチが生み出されてくるのかを、文学の中で探求する。最近の文学作品と、この100年の文学作品とを、それぞれ取り上げながら、文学の言葉が他者をいかにとらえ、自己をいかに表現してきたか、その際に「見えない他者」をつくり出すメカニズムは何か。そこで駆使される検閲制度と、そのもとで生まれた「伏字的死角」はどのような意味を持つか。
吉村萬壱『ボラード病』、村田沙耶香『殺人出産』、佐藤俊子(田村俊子)『カリホルニア物語』、林芙美子『市立女学校』、中森明夫『アナーキー・イン・ザ・JP』、瀬戸内寂聴『風景――面会』、夏目漱石『明暗』、谷崎潤一郎『神と人との間』、吉田喜重監督映画『エロス+虐殺』、瀬戸内晴美『美は乱調にあり』、谷崎潤一郎『痴人の愛』、村田沙耶香『タダイマトビラ』、木村友祐『おかもんめら』、藤野可織『爪と目』・・・こうした作品における細部の言葉の響きに、筆者は帝国の論理や他者の不可視化の機制を確認していく。そうして最終章「朝鮮と在日」で在日文学に言及し、李龍徳『死にたくなったら電話して』を取り上げる。
無関心の論理が帝国日本の文学を貫いてきた。それゆえ、現在の新しい問題ではない。もちろん、現在的な表現形態はあるものの、本質的には日本の文学が制度として持ち得てきた、他者の排除のメカニズムにその秘密がある。すなわち、女性差別、女性排除である。
「帝国主義的な視角にひそむ死角、見えない場所が意味するのは、帝国がつねに植民地の現実を見ないで済ませてきたように、何かを見ないで済ませることができる回路そのものにほかならない。/流れた胎児を一目も見なかったお島は、母性の物語を異化し、帝国の幼女になるのを拒む。その一方で、彼女の死角が、植民地を欲望する物語を生かしているのも明らかだ。お島の目が表象する、植民地の現実を見ない、すなわち他者の現実を見ないで済ませる伏字的死角は、いまもなお、日本語の基層を支配している。」
とても説得的だが、やや違和感が残る。いい本だと思うが、何か気になる。勉強になる、教えられることの多い研究だが、ざわざわと、なんだか。
著者は、「近代の排除の構造のなかで、マイノリティは徴のつけられた、標準ではない存在として複合的に差別され、マイノリティ同士はイメージの領域で類縁化され、構造上同じ位置を与えられてきた」たと言う立場から、「女性、非異性愛のセクシュアル・アイノリテチィ、被差別部落、外国人、路上生活者、貧困者、被災者、病や障害とともに生きる人々、親をなくした遺児、犯罪被害者やその家族、加害者の家族等々も同じように、見えない場所で生きさせられる伏字的な力の構造から自由ではいられない」という。「朝鮮」「在日」も「存在を不可視にする伏字的死角の力学にさらされている」という。いずれも同じ構造なのだから、女性差別の言説のメカニズムを分析し、抽出すれば、それで足りることになる。だから、本書で取り上げられた小説作品のほとんどが、日本男性と日本女性の間の差別構造のモデルなのだ。
著者は在日文学についてもそれなりの見識を持っているのだが、それを敢えて書くまでもなく、女性排除の構造を抽出すれば、在日朝鮮人差別と排除の構造は十分に明らかになった、のである。

なぜ、このようになるのか、違和感が膨らまざるを得ない。著者は崔真碩の『朝鮮人はあなたに呼びかけている』から10行ほど引用して、崔真碩が「複数の『あなた』に向かって」問いかけていると考える。それでは、「複数の『あなた』」とは誰だろうか。この呼びかけを受け止めている著者は、どこに立っているのだろうか。帝国主義の論理を批判的に読み解き、植民地暴力の痕跡を十分認識し、「植民地の現実を見ない」日本を対象化する著者であるが、著者が見ている「植民地の現実」とはいかなる現実なのだろうか。そこがいま一つわからないのだ。みんなマイノリティ、だから同じ構造というのは、抽象的にはそう言えるかもしれないが、その枠組みで考えて解ける問題は限られているのではないだろうか。

エルミタージュ美術館(ローザンヌ)散歩

 エルミタージュと言えばロシアのサンクトペテルブルクの超有名美術館だが、ローザンヌにも同じ名前の小さな美術館がある。
ローザンヌの小金持ちが郊外の丘の上の公園に建てた別荘が、エルミタージュ財団の美術館になっている。鉄道のローザンヌ駅から市バスで10分ほどで降りて、数分歩く。この春はシニャック展をやっている。いまさらシニャックでもないかと思いながら、エルミタージュの他の所蔵品を観たいと思って行ってみたら、全館シニャックだった。
「印象派から新印象派へ」というコンセプトで、シニャック(1863~1935)の生涯を追いながら作品を展示している。油彩、水彩、デッサン、スケッチ等140点。サントロペが多数、モン・サンミシェル、ヴェニス、コンスタンチンノープル、マルセイユ。とにかくシニャックだ。きらめく水、揺れる海、遠望する港。色彩の分割、点描法の完成図を何枚も堪能。新印象派への展開の流れで言うと、スーラが亡くなり、ピサロが方向転換したため、シニャックが背負ったという解説になっていた。
今回おおもしろかったのは、むしろ晩年の「フランスの港」シリーズだ。ガソトン・レヴィの財政支援を受け手、1929~31年、シニャックはフランス各地を旅し、港を描き続けた。同じ絵を2枚描き、1枚はレヴィに、1枚は自分に。1929年3月25日のセテの港に始まり、3年間で8回の旅行を経て、31年4月30日、ポート・ド・フランスで旅を終えた。この時期の絵は水彩画で、しかも色彩感覚あふれるものと、黒一色の者がある。点描法は用いていない。

エルミタージュには、ファンタン・ラトールの花、シスレーのセーヌ、ヴァロットンのヴァンスの小道、煙草を吸う女、ボシャールのヌード、シャヴァンヌのヴヴェイ、ボシオンのシオン城、ドガの踊り子などもあるが、エルミタージュ美術館の建物が別荘として使われていた1853年の、フランソワ・ボネのエルミタージュの宴会図がある。広間とテラスの宴席で興じる人帯とを描いている。彼方にレマン湖も見える。なるほど、ここでこんな風に夕暮れ時の宴会をしていたのだな、とわかる。室内が明るいのはどんな光だろう。鯨油かな。ここまで岡を登ってくるのに、当時どうやったのか。馬車では結構大変だろうななどと楽しめる。

Saturday, March 12, 2016

宇宙は生まれ変わる?

横山順一『輪廻する宇宙』(ブルーバックス)
ダライ・ラマの輪廻転生の話から始まるがトンデモ本ではない。まじめな現代宇宙論の現状を素人向けに優しく解説した入門編だ。ダライ・ラマは導入のエピソードと思ったら、最後に再び登場して、宇宙の輪廻の話と結びつけている。もちろん科学は科学として、宗教は宗教として区別しているので、混乱があるわけではない。ただ、宇宙論を「わたしたちはどこから来たのか」と問い、最後に宇宙の将来を問うので、現代物理学から少しはみ出した論述もなされている。基本は、宇宙論の量子力学的考察の解説だ。著者は東京大学大学院理学系研究科附属ビッグバン宇宙国際研究センター教授。やたらに長いな。
この種の話はブルーバックスで何冊も読んだが、10年、20年の間に科学がどんどん進歩するので、おもしろい。昔はビッグバンが話題の中心だったが、いまはダークエネルギーだ。宇宙の晴れ上がり、量子のゆらぎと転移、加速膨張する宇宙。話はタテにヨコにどんどん広がる。大きすぎてついていけないと思うと、量子の話になり、それがまた宇宙論になる。
1か所だけ、本書の内容から飛び抜けてはずれた記述がある。日本の現状を憂えてのことだ。
「指導者層の無能と不誠実は目を覆わんばかりであり、ましてや敗戦後七〇年かかって築き上げてきた平和日本のブランド価値を認識できないばかりか、国家間のせめぎあいを、幼稚園児の喧嘩と同じレベルでしか解釈できない低能な人物を首相に選ぶような与党の面々を見る限り、わが国の反知性主義もここまで来たかとの慨嘆を禁じえない。」(184頁)

ブルーバックスでこういう文章に出会うことは、通常、ない。よほど腹に据えかねるのだろう。まあ、まともな人間ならこのように考えるのは当たり前だが。

Friday, March 11, 2016

グランサコネ通信16-07 人権理事会で「慰安婦」・日韓合意批判

3月11日、NGOの国際人権活動日本委員会(JWCHR、前田朗)は、国連人権理事会31会期における議題3の討論において、日本軍「慰安婦」問題について次のように発言した。
<日本軍政奴隷制の近況を報告する。12月28日に日本と韓国の外務大臣が共同記者会見を来ない、政府間合意を発表し、慰安婦問題は最終かつ不可逆的に解決したと述べた。しかし、韓国の多くの性奴隷制被害者がこの政治的合意を拒否している。何よりも、この2国間合意は被害者との協議を経ていない。さらに、合意内容を示す文書が存在せず、被害者が読むこともできない。
 3月7日、女性差別撤廃委員会は日本政府に次のように勧告した。「韓国との2国間合意は、慰安婦問題を最終的かつ不可逆的に解決したと言うが、被害者中心のアプローチを採用していない」。
 昨日、ザイド・フサイン国連人権高等弁務官は、この理事会で、この問題について次のように述べた。「日本と韓国はこの問題を解決する2国間合意を発表した。そおれは国連人権メカニズムから、そして最も重要なことに被害者自身から、疑問視されている。基本的に重要なことは、関連当局が、これらの勇気と尊厳のある女性たちと協議することである。最終的に、彼女たちが本当の救済を受けたか否かを判断できるのは被害女性である」。
 日本軍性奴隷制は韓国と日本の間の2国間問題ではない。それは1945年の日本の敗戦まで、アジア太平洋地域で行われた。日本はすべての被害者を救済する責任があり、被害者には補償を受ける権利がある。被害者は、朝鮮民主主義人民共和国、中国、台湾、フィリピン、マレーシア、ミャンマー、インドネシア、東ティモール、パプアニューギニア、オーストラリア、オランダにもいる。われわれは人権理事会が日本軍性奴隷制の歴史的事実を調査するよう求めてきた。>

Yvorne Rouge,La Fierrausaz, 2013.

Thursday, March 10, 2016

アールブリュット美術館散歩

前回は2013年に訪れた。
今回は企画展と常設展の2つだ。企画展は「建築」がテーマだ。玄関前のスペースには、大きな写真で建築物が展示されていた。各地で、家や塔やお墓など、さまざまな建築物を作っているのを写真で示している。1階の黒のギャラリーには、塔や構造物の模型、建築物を描いた絵画、刺繍、織物などが多数展示。白のギャラリーでは、映像作品も。
例えば、ジュリッタ・エリーザ・バタイユは、1896年、フランスのパ・デ・カレー生まれ。結婚してパリに住んだが、家庭内暴力に悩んだ。40頃から精神的に悩み、病院で暮らすようになった。そこでウール、コットン、シルクを用いて絵を描いたり、組み合わせて構築物を作った。意図で窓や屋根やファサードも明確な形で作った。さらにパステルで絵を描くようになった。
日本人の作品もあった。テツアキ・ホッタ(1949~2015)と、ノリミツ・コクボ(1995~)。コクボは滋賀生まれで、学校に通っていたが、本の余白やノートに絵を描いた。10歳で特別学級に入った。そこで大きな絵を描くようになった。スケッチブックや巻紙を使って大きな絵。非常に詳細な町=ユートピアの絵図面を描いた。西梅本町という名が何度か出てくる絵。街並み、道路、鉄道がびっしりと描き込まれている。歌舞伎町も。AKB48が何度も出て来るが、他方、「反国家」とか「反社会主義」という書き込みも見られる。
常設展は、絵画、ポスター、テラコッタ、彫刻、織物をはじめ多種多様だ。貝殻を数百個使った立体は凄い。ヘンリー・ダガーが一つもなかったのは、企画展のために常設展が狭くなったためか、それともほかに貸し出し中なのか。

マッジ・ギルの素敵な線描画、フィリップ・デローのカラフルな「シェヘラザード」、マリ・ローズ・ローテットの編み物トライアングル、クニゾー・マツモトのカレンダー等の絵葉書を買ってきた。授業で使うのにちょうどいい。

大江健三郎を読み直す(58)「新しい日本」に向けて

大江健三郎『鎖国してはならない』(講談社文庫)
『言い難き嘆きもて』とともに、2001年11月に出版され、2004年に文庫化された。今回初めて読んだ。
90年代後半に激しくなったナショナリズムの逆流現象を前にした大江の危機意識が鮮明に表現されたエッセイ・評論である。ほとんどが講演記録を基にしたものだ。大江作品は小説でもエッセイでも同じ主題を何度も何度も書き直し、語り直し、議論を深めていくので、かなりの文章に既視感があるが、初めての話題や、初めての表現ももちろんある。
ナショナリズム、歴史認識、歴史教科書、戦後民主主義とそれへの批判、日本国憲法への攻撃と言った事態を前に、戦後民主主義と戦後文学の担い手としての大江の思考を対置していく。「南京虐殺や朝鮮人慰安婦という歴史的な事実の矮小化、否定を企て」る歴史修正主義者たちは「アジアからの抗議の声を聴こうとしません」と述べ、「新しい鎖国の思想」と呼ぶ。
かつての江戸幕府による海禁政策とは違って、軍事外交的にはアメリカに対して極端に開かれ、経済的には世界に向けて開かれているにもかかわらず、政治意識においてアジアや所の他の世界に対して閉ざされた鎖国の思想である。対等の立場で他者と向き合うことのできない日本のことだ。アメリカにこびへつらうか、アジアを見下すか、これしかできない日本ナショナリズム。その悪弊を大江はじゅんじゅんと説く。

自己に都合の良い過去に拘泥するナショナリズムと異なった、「新しい人」はいかにして生まれるのか。「新しい日本人の文化」はどうすれば創り出せるのか。それが全篇の課題である。そのために福沢諭吉、丸山真男、ハーバート・ノーマン、渡辺一夫、アマーティア・セン、テツオ・ナジタ、中野重治、エドオワード・サイード、おなじみの名前が呼び出され、これらの思索に学ぶ。ヒロシマとオキナワを文学的課題の大きな核として生涯を送ってきた大江らしく、随所で、この課題に立ち返る。この課題の2001年の大江の表現、である。

Tuesday, March 08, 2016

ベルン美術館散歩

パウル・クレー・センターで「Chinese Whispers」展をやっていて、リレー・チケットをくれた。半分はパウル・クレー・センターで、半分はベルン美術館で展示されている。このチケットで両方見ることができる。
「中国人の囁き」って何だろうと思ったら、解説を読むと「伝言ゲーム」のことだった。1人目が2人目に言葉を伝える、聞いた2人目が3人目に伝え、3人目が4人目・・・と伝わるうちに話が変容していく。オリジナル・メッセージはどこまで変容していくか。中国現代アート展を西洋で開催するということは、一種の伝言ゲームである。なぜなら、文化も歴史も政治も異なるため、表現者の意図と異なることを観衆が受け止める可能性が極めて高いからである。グローバルなネットワークでつながれた現代世界ではあるが、まだまだ落差が大きい。21世紀の現代中国アート150点を一挙に展示する展覧会はいかなる「伝言ゲーム」となるか。
だが、西洋で開催された現代中国アートを日本人が鑑賞するとなると、そこには違った意味での、やはり「伝言ゲーム」が成立しているだろう。しかも、中国現代アートについて素養のない日本人が。
ウリ・シグというビジネスマンにして一時はスイス大使を務めた人物が、1970年代から中国アートを収集し続けた。現代中国アートの活性化をもたらした背後の人物のようだ。ウリ・シグの収集品を2005年に一度展覧会でやっているという。そして、2019年に香港に新しい大規模美術館ができる。ウリ・シグの収集品はそこに寄贈されるという。その前に西欧で展覧会を開催中という訳だ。
クレー・センターの展示の第1号だけは名前を知っているアイ・ウェイウェイだ。1957年北京生まれで、現代中国を代表するアーティストだ。「鳥の巣」は一般の日本人でも知っている。
それ以外の70人ほどのアーティストは知らない。
1940年代生まれが、リ・シャン、1名。1950年代生まれが、アイ・ウェイウェイを含めて、5名。1960年代生まれが、17名。1970年代生まれが、32名。1980年代生まれが、16名。
絵画あり、書あり、彫刻あり、写真あり、映像あり、掛け軸あり、その他、何と表現しようのない様々な作品がずらり。
意外性を狙った、早い者勝ちの一発芸、といった作品も少なくないが、絵画には中国芸術と西欧芸術の混合と反発を示すものや、潰れた巨大な洗車のように政治的メッセージに満ちたものや、月の兎のようにかわいらしいがドキリとさせる作品など、実に多様だ。ナチス・ドイツのハーケンクロイツの下で白鳥が全裸の女性を襲う性的かつ政治的絵画の前で、スイス人たちは何やら感想を語り合っていた。

映像作品の一つに、男女のカップルがパリの街角に立ち尽くす、というコンセプトの作品があった。カップルは動かず、言葉も発しない。ただじっと立っている。カメラはカップルの頭越しにパリの町を見せる。ただそれだけ。そうか、中国の若いカップルがパリを訪れた時の違和感を表現しているのだな、と「理解」して、次に移ろうとしたとき、最後にテロップが「日本人のパリ幻想」。若い日本人カップルがいまやパリの町を見ても感銘を受けず、むしろ落胆して、何だ、この町、と感じてしまう、そのズレを若い中国人アーティスとが作品化している。不思議なものだ。まさに伝言ゲーム。

Baillival, St-Saphorin, Luc Massy, Epesses Vaud,2013.

グランサコネ通信16-06 「ジョシコーセイ・オサンポ」!!

3月7日の国連人権理事会は子どもの権利をめぐる審議が続いた。途中、外国債務と人権、食糧の権利も議題になったが、メインは子どもの権利。8日も、子どもに対する暴力、子どもと武力紛争、子ども売買・ポルノ、そして拷問が議題となった。拷問については別途報告する。
子ども売買・ポルノの議論では、まず「子ども売買・子ども買春・子どもポルノに関する特別報告者」のプレゼンテーション。
・メイン報告書
A/HRC/31/58.30 December 2015.
アルメニアと日本を訪問調査したので、その報告書も紹介。
・日本報告書(2015年10月日本訪問の記録)
A/HRC/31/58/Add.1. 3 March 2016.
特別報告者のプレゼンテーションを聴いていたところ、子ども売買や、オンライン子ども買春の実態を批判していたが、突然、「ジョシコーセイ・オサンポ」と言うのでびっくり。国際連盟以来のパレ・デ・ナシオンの大会議場で、「ジョシコーセイ・ビジネス」「JKオサンポ」「JKリフレ」「エンジョコーサイ」!!!
何とも恥ずかしかった。
特別報告者のプレゼンテーションに続いて、日本政府代表が発言した。「日本政府は特別報告者の活動に感謝する。日本政府は子ども売買・子どもポルノに全面的に反対し、その根絶を目指して努力している」とのたまっていた。嘘つけ。
朝鮮の少女たちを「慰安婦」=性奴隷にして連日強姦した歴史を一切反省せず、日本の名誉などと嘯いているのがハレンチ・アベシンゾー的思考である。子ども買春こそ「美しい日本」の象徴ではないのか。

フジヤマ、ゲイシャはいざしらず、カローシ、ダイヨウカンゴクに続いて、イアンフ、そしてついにジョシコーセイ・オサンポだ。国連でこんな言葉が飛び交うとは、情けないにもほどがある。

Monday, March 07, 2016

ヘイト・クライム禁止法(104)スイス

スイス政府が人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/CHE/7-9.14 May 2013)によると、まず、人種差別撤廃条約第4条(a)に関して、人種的に動機づけられた行為は、刑法261条bis及び軍刑法171条(c)により犯罪とされている。連邦・反レイシズム委員会が、この刑罰規定の適用を監視している。刑法261条bisについえは、1995年以後の裁判所判決をインターネット上に公開している。警察犯罪統計は全カントンと都市を対象とし、2010年以後、公開されている。警察統計によると刑法261条bis事案は、2009年には230件の申し立てがあり、捜査を行い、159件が立件された。30件の有罪判決が言い渡され、執行された。2010年には、204件が申し立てられ、156件が立件された。2011年には、182件が申し立てられ128件が立件された。2010年以後の有罪判決数はまだ報告がない。申立の内、ほとんどが文書や口頭での人種主義発言である。電磁的方法での人種主義見解の流布も多い。連邦・反レイシズム委員会は、人種主義に関する文書システムを作り、2008年以来人種主義事件を報告している。事件の多くは、皮膚の色に関係する事案と、ムスリムに関係する事案である。反レイシズム財団、スイス連邦ユダヤ人コミュニティなども統計を発表している。
人種差別撤廃条約第4条(b)に関して、2005年、連邦委員会は、暴力と人種差別を説く過激運動を助長するシンボルを公然と使うことを処罰する法案を議会に提出した。しかし、法案審議に際して、処罰される行為と処罰されない行為の間の区別が不明確であること、人種主義のシンボルの定義が不明確であることに議論が集まり、議会は法案採択を控えた。人種主義シンボルが人種、民族、宗教に対して侮辱する目的などで使われた場合は処罰できる。2007年、スイス民主党は表現の自由を唱えて、法261条bisを廃止または弱体化させる法案を提出するための国民投票運動を行い、期日(2009年2月7日)までに8万の署名を集めたが、必要な10万に届かなかった。他方、議会は、2012年、人種差別と闘う法案の採択を否決した。
スイスは、人種差別撤廃条約第4条の適用を留保しているため、前回審査の結果、人種差別撤廃委員会は、留保の撤回を勧告していた。スイス政府は2012年の人権理事会普遍的定期審査の際に、キューバ政府から同様の勧告を受けて、政府見解を表明した。スイス政府はあ、現行刑法261条bisが個人も団体も対象としていると説明している。不法な目的を有する団体については民法第78条に従って、裁判官が解散を命じることができる。スイス政府の留保は、個人が人種差別団体に単に参加するだけなら処罰しないという範囲の留保である。スイス政府は表現の自由や結社の自由に照らして、スイス憲法第23条に照らして、この留保が正当であると考える。

スイスの状況については、私の『ヘイト・スピーチ法研究序説』第8章第5節で、2007年のCERD/C/CHE/6. 16 April 2007.を紹介した。ただ、そこでは関連条文の内容が紹介されていなかった。2007年報告では判決内容が紹介されていたが、2013年報告には判決内容の紹介がない。また、スイスの反差別法については、『部落解放』連載稿の中で紹介した。

Sunday, March 06, 2016

記憶されない記憶を刻み付ける闘い

辺見庸『17』(金曜日)
問題の書をようやく読んだ。暮れに買って読み始めたが多忙のため中途で止まっていたのを、今回ようやく読むことができた。ふつうなら辺見庸の「遺言」とでも言って宣伝するような力作だが、そうしていないのは、辺見庸、まだまだ言葉の矢を放ち続けると見込まれているから。それにしても太く重い矢である。中身のない軽薄な政治家は3本の矢とかいうが、辺見の矢はどしん、ドシンと落ちてくる。刺さるというより、ぶち当たって破壊する。なにしろ「記憶の墓をあばけ!」である。捕鯨の銛に喩えたほうがいいかもしれない。
1937年という年に象徴される日本軍国主義の侵略戦争の実態に迫る辺見は、歴史家や政治家の論法ではなく、作家らしい論法を繰り出す。ポツダム中尉となった父は中国で何をしたのか。生前の父に問いただすことが出来なかった自分を批判しつつ、改めて父の記憶と所業を整理し、推理する。父が残した新聞記事、手紙類を基に、いかなる状況で、誰を殺したのか、拷問したのかを問い続ける。確たる証拠が出たわけではないが、間違いなく殺したであろうし、拷問したであろう。それでは、同じ立場になった時、自分は、辺見庸は、同じことをしないと確言できるか。このことを執拗に問い続ける。1937年だけではない。明治から昭和にかけての天皇制日本国家、大日本帝国、そして軍国主義の日本が辿った道を追跡しながら、その思想、その行動様式、そのメンタリティを洗い出し、いつから、なぜ、あのような戦争にのめり込んでいき、悲惨な結果を引き起こしながら、およそ責任観念がなく、当事者性の意識すら薄いという、極めてインチキな「日本」を記録にとどめようとする。その手法は、辺見庸の独特の文体にもかかわらず、正面突破の手法である。直前からまっすぐ銛を次々と撃ち込む。必殺の銛だ。辺見はなぜ必殺の銛を次から次と休みなく撃ち続けるのか。理由は明らかだ。必殺の銛が10本撃ちこまれても、びくともしない怪物がそこに佇んでいるからだ。びくともしない。揺らぎもしない。汗もかかない。赤面さえしない。反省という言葉を知らないこの国の「無神経」はまさに「妖気」と言うしかない。
時を食いつぶすように屹立した日本軍国主義は蝗の如くアジアを食いつぶした。同じ過去が未来に待っていないと自信を持って言えない現在のこの国で、辺見は懸命になって記憶や反省や学習や責任の途を探る。その過程をさらけ出す。読者はこれでもか、これでもかという辺見の奮闘に、悲鳴、叫び、呻きに襲われながら頁をめくる。その先に待っている不安にあらかじめ目いっぱい不安を噴きつのらせながら。絶体絶命。

せっかくの本だが、いや、せっかくの本だからこそ、なんだか別の理由でもめているようだ。無責任な赤旗と無頓着な金曜日のごまかし戦術は、辺見庸に通じるはずがない。そんなことならなぜ本書を書いたのか。なぜ金曜日に連載したのか。なぜ単行本を出版したのか。なぜ辺見にインタヴューを申し込んだりしたのか。己をわきまえない、ということだろう。いいかげんにしろ。

MUSCAT, Les Celliers de Sion SA, Sion, Valais, 2015.

Saturday, March 05, 2016

極端人・熊楠の権威主義――「日本人の不可能性の極限」

唐澤太輔『南方熊楠――日本人の可能性の極限』(中公新書)
熊楠の伝記はこれまでにも何冊も出ている。読んだのは2~3冊だが。白浜の熊楠記念館には一度行って見てきた。いつ、だれがつけたのか知らないが「知の巨人」と呼ばれ、数々の逸話に彩られた多彩かつ、異色の人物だ。「彼はいったい何者なのか。民俗学者か、生物学者か、それとも粘菌研究者か、あるいは博物学者か――。どれも当てはまるようだが、どれも超え出てしまっている」という著者は、あまりにも「振幅」の大きい熊楠を「極端人」と表現する。
本書は単なる伝記ではないと宣言して始められているが、伝記である。単なる伝記でない伝記とはどういうものか知らないが、本書は伝記である。著者は、熊楠の「実像」を探るとか、実証することにではなく、様々な「伝説」が語られ、虚像がどんどんふくらんでいくことに熊楠の特色を見て、その都度、現実的意味と伝説的意味を解釈していく。和歌山・東京時代、アメリカ時代、ロンドン時代、那智隠栖時代、田辺時代に分けて、それぞれの時期のエピソード、人間関係、研究、手紙、日記を紹介していく。一般に知られていることが基本であるが、さらに踏み込んで多くのエピソードを紹介し、研究の発展状況を追いかける。キューバ独立戦争時のエピソード、大英博物館での人間模様、オカルティズム研究、南方曼荼羅、tactと「やりあて」、神社合祀反対運動、柳田國男との交流など、楽しく読める伝記だ。
ただ、「知の巨人」といい、「振幅」が大きいといい、「世間並」からはずれているといい、「極端人」といい、「日本人の可能性の極限」(柳田國男の言葉)と言い、熊楠を超人化しようとするが、いずれもこけおどしに過ぎない。著者も気づいているはずだが、気付かないふりをしているのかも。熊楠研究者としては、熊楠の偉大さを宣伝する使命を果たす必要があるのかもしれない。2点だけ指摘しておこう。
第1に、柳田の「日本人の可能性の極限」という表現に触れて、著者は熊楠の「極端な在り方」に注目し、「他者との距離が極端に遠くなることによって、逸脱した思考、他者に囚われない新しい考えを生み出すことができた」と言う。ところが、具体例は「エコロジー」と言う極めて斬新な考え方を日本に紹介したことだけが挙げられている。海外の思潮を紹介することは必要で大事なことである。しかし、紹介は紹介である。「新しい考えを生み出すことができた」などと粉飾してはいけない。
第2に、「熊楠が、その人生において最も輝いた日、それはやはり1929年6月1日の御進講の日であった」と言う。本書の各所で、熊楠は大学には関心を示さず、大学教授への招聘にも応じず、自らの努力で学問に励んだことを紹介し、権威主義から遠い人物として描き出していたのだが、何のことはない、最も輝いたのは、昭和天皇への御進講だという。熊楠自身、猛烈に感激し、興奮し、フロックコートを修理し、万全の準備をして田辺湾に停泊中の長門で御進講したという。「日本人の可能性の極限」など真っ赤な嘘である。熊楠こそ天皇に這いつくばる卑小な権威主義者だったのだ。そして、著者も天皇主義の掌で踊っているにすぎないことが分かる。ここに「日本人の不可能性の極限」を見ることができる。
著者は1978年生まれ、早稲田大学大学院、助教をへて、同大学言語文化研究所招聘研究員。著書に『南方熊楠の見た夢』があるという。


パウル・クレー・センター散歩

企画展は「動きの中の絵画」展と「中国人/伝言ゲーム」展の2つだった。
「動きの中の絵画」展は、クレーの作品における動き――歩く、走る、跳ぶ、踊るなどを中心に、動作、変化、生成、流れなどに焦点を当てる。
冒頭に「ダンスの動き」として、バウハウスでオスカー・シュレンマーを中心に役者やダンサーが踊り、カンディンスキー、モンドリアン、クレーらがそこから影響を受けて絵を描き、ダンサーたちがその絵に触発されて踊りを工夫したことが説明されている。とくにグレーテ・パルッカというダンサーが重要だったようで、彼女はバウハウスから影響を受けながらモダン・ダンスを発展させたという。パルッカの写真が数枚展示されていた。
それとは別に、もう一人のダンサーの映像を見ることができた。ジョセフィン・ベイカーというダンサーで、説明には、当時、初めて肌の黒いダンサーが舞台に立ち、話題をさらったことが書かれていた。クレーも注目して、通って観たという。バックバンドはトンプソン・ジャズ・オーケストラとあり、なんとディキシーだ。映像は2つあって、1927年と1930年だからディキシーに決まっているか。これには驚いた。トンプソン・ジャズ・オーケストラの自在な演奏に合わせてジョセフィンが激しくステップを踏む。跳ねる。回る。くねる。あおぐ。自由闊達なダンスだ。これにはまいった。思い違いしていた。
クレーの伝記や評論を読めば、若い時にバイオリンが得意で演奏会にも出ていたので、音楽家になるか画家になるか迷った末に、画家を目指すことにしてミュンヘンに出て絵を学んだことが書かれている。その後も呼ばれて演奏していたようだ。写真も残っている。ベルン市中心部のその演奏会場の前にも写真が飾られている。クレーの作品にも音楽的要素があり、音楽家を描いてもいる。当然の如く、読者の頭の中にモーツアルトやシューベルトの調べが流れ、そうしてクレーの作品を見ることになる。それが当たり前。その通りなのだが、それは1900年前後の話だ。
1920年代のクレーがバウハウスで一緒にすごしたのは、ディキシーランド・ジャズメンとダンサーたちなのだ。ディキシーを頭の中に鳴り響かせながらクレー作品を見ると、前とは違って見えるのだ。まいった。この1点だけでも収穫。

展示は、物質の重さ、負担を示す作品、人が歩いたり走ったり跳んだりするさまを描いた作品、逆に動きを制約する様子の作品、水が流れる様や水路や魚の泳ぎの作品、色彩の変化、変容の作品などが順に展示されていた。これまで見たことのないものも結構あった。

Friday, March 04, 2016

日本問題としての沖縄現代史を学び続ける

新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』(岩波新書)
『沖縄問題20年』は沖縄戦から20年の1965年の出版だ。その後も『沖縄70年前後』、『沖縄戦後史』、『沖縄現代史』、その新版と、著者は岩波新書だけでも、半世紀にわたって沖縄現代史を、民衆史、そして闘争史の観点で書き続けてきた。凱風社から出た「沖縄同時代史」シリーズは全10巻+別巻である。
本書は、現在の安倍政権が押し付けている辺野古基地問題に象徴される「日本問題としての沖縄問題」をあらためて取り上げて、構造的沖縄差別の実態を厳しく批判している。琉球処分等の歴史を遡ることは避けて、沖縄戦、平和憲法、そして軍事要塞沖縄と言う枠組みの形成期から、60年安保、沖縄返還を経て、1995年の「民衆決起」、さらに現在の「オール沖縄」の闘いを追跡し、運動の現在とこれからを問う。

2015年の戦争法=安全保障法に対する批判的運動の盛り上がりを「一五年安保闘争」と呼ぶ著者は、「安保関連法の強行採決によって、日本にも新たな民衆運動、いわば一五年安保闘争が生まれたともいう。一五年安保闘争は、六〇年安保闘争、七〇年安保沖縄闘争を越えられるだろうか」と問いかける。それは「日本国民」に突き付けられた問いである。
だが、残念ながら、2015年の国会前闘争は「一五年安保闘争」ではない。日米安保体制そのものに疑問を呈したわけではないからだ。たしかに、そこに日米安保反対の声も響いた。だが、主流は日米安保体制下での条件闘争であったと言った方が正確であり、日米安保反対派は、警察によってではなく、運動主流派によって片隅に追いやられたのが実情であった。それでもなお、多様な声が響いた国会前闘争に大きな意義はあった。そこから「一五年安保闘争」の地平にたどり着くには、さらなる展開が必要だろう。

Wednesday, March 02, 2016

グランサコネ通信16-05

3月1日と2日、国連人権理事会はハイレベル・セグメント。
1日午前は、国際人権規約50周年記念のパネル。その後は各国政府代表の演説大会。
2日昼頃に、日本政府、午後に韓国政府が発言したが、いずれも「慰安婦」問題には触れなかった。日韓合意を報告するのだろうと予想していたが、日本と韓国、事前に相談したのだろう。「慰安婦」の「慰」の字もなく、足並みそろえて朝鮮民主主義人民共和国叩きをしていた。米日韓軍事同盟の路線に戻ったということ。
日本政府代表はMr. Masakazu Hamachi, Parliamentary Vice-Minister for Foreign Affairs。冒頭でOHCHRを言えなくて苦労し、結局読み飛ばした。OHCHRは国連人権高等弁務官事務所のことで、人権理事会参加者でこれを発音できないのはかなりの蛮勇の持ち主。偉い! 人権高等弁務官のフサインをフンセンと呼んだのも、なかなかの奮戦。単語をひとつ読んでは、ちょっと休んで、次の単語を読んでは、また休んで状態。内容は、テロリズム、難民、朝鮮、女性の活躍、障害者、ハンセン病についての日本政府の取り組みの紹介。
韓国政府代表は、Mr. Yun Byung-se, Minister for Foreign Affairs, Republic of Korea。ハマさんと違って流暢な英語だ。冒頭に持続可能な環境のことを少しふれたが、残りは全編、朝鮮民主主義人民共和国批判。
日韓そろい踏みで、制裁、制裁、制裁!!!

日本と韓国の間に発言したキューバが、制裁は人道に対する罪だ、と言っていたのを聞いていないようだ。制裁の最大の被害を受けてきたキューバは、アメリカとの関係を正常化しているが、半世紀にわたる制裁の被害を説明していた。