Saturday, October 29, 2016

大江健三郎を読み直す(67)世界の理性の声が聞こえる

武満徹・大江健三郎『オペラをつくる』(岩波新書、1990年)
リヨンのオペラ劇場からの依頼で、武満がそれまでつくったことのないオペラに挑戦した際に、オペラのための物語をいかに構築するべきか、武満と大江が語りあい、その対話を通じて武満がオペラを具体化していくという構想の下に行われた対談である。出版時に購入したが、飛ばし読みしかしなかったような気がする。
 世界のヴィジョンにねざしつつ
Ⅱ 物語にむかって
Ⅲ 劇的人物像をめぐって
Ⅳ 芸術家が未来に残すもの
取り上げられるのはイェーツ、ヴェルディ、オコナアー、オーデン、シェークスピア、タルコフスキー、ダンテ、ドストエフスキー、フォークナー、ブレイク、ベートーヴェン、ヘミングウェイ、モーツルト、ワーグナー。オペラ作家を除けば、大江がいつも引き合いに出す作家・芸術家たちで、その意味では読みやすい。

大江がオコナーを引いて、芸術というものは「理性の行使」だと言っているのが、今回、一番印象に残った。「感覚の行使でもなければ、あるいは官能の行使でもなくて、理性の行使だ」と。トマス・アクイナスが言ったのだそうだ。それゆえ、「本当は創造力と理性は同じ」だという。カラヤン指揮のベルリン・フィルが素晴らしいのは「世界の理性の声が聞こえた」からということになる。

ヘイト・スピーチ研究文献(73)Q&Aヘイトスピーチ解消法

外国人人権法連絡会・編著/師岡康子・監修『Q&Aヘイトスピーチ解消法』(現代人文社)
<東京・大久保や神奈川・川崎、そして京都などで繰り広げられた、在日コリアンを不当に差別、攻撃するヘイトスピーチ。耳を覆うような敵意に満ちた暴言が平気で繰り返される状況は、放置してよいわけがない。被害者のみならず誰もが安心して暮らせる街にするために、国や地方公共団体は何ができるのだろうか。>
5月末の法制定を受けて、夏の間に執筆・出版された解説本である。編者をはじめ執筆者はいずれも差別とヘイトをなくすために活動してきた弁護士や研究者であり、コンパクトながらていねいな解説になっている。

ヘイトスピーチ解消法にはいくつもの限界があり、不十分な法律であるが、この法律でできることもあれば、その運用次第でより一歩前進することも可能である。そうした積極的な姿勢から法律を批判的に読み込み、次のステップを模索する本でもある。

Wednesday, October 19, 2016

沖縄における大阪府警機動隊員差別発言:論点メモ

10月19日、沖縄東村高江における工事現場で、大阪府警機動隊員による「シナ人」「土人」などの差別発言がなされたことが発覚し、報道された。沖縄県警および菅官房長官は「不適切な発言」としている。
しかし、単なる「不適切な発言」にとどまるものではない。とり急ぎ論点をメモしておく。
第1に、当該発言は目の前にいた人物に向けて発声されたものであり、侮辱罪に当たる可能性がある(刑法231条「事実を摘示しなくても、公然と人を侮辱した者は、拘留又は科料に処する。」)。
第2に、当該発言は明らかな差別発言である。「シナ人」という言葉については、一部に「Chineseの意味だから差別ではない」と主張する者もいるが、日本社会において中国人に対する差別がなされ、この言葉は差別的文脈で用いられてきた。今回も明らかに差別的文脈で用いられている。
第3に、「シナ人」という言葉を差別と侮蔑の意味で用いたことは、沖縄の人々に対する侮辱だけでなく、中国人に対する侮辱である。個人に対する発言ではないので侮辱罪は成立しないが、中国人全体に対する侮辱として政治問題化しうる。
第4に、当該発言は、日本政府が批准した人種差別撤廃条約1条の「人種差別」の定義に該当する。条約2条は、政府が「人種差別を非難」することを求め、「人種差別に従事しないこと」、「いかなる個人、集団又は団体による人種差別も禁止し、終了させる」を求めている。政府及び自治体はこの義務に従う必要がる。
第5に、条約4条はいわゆるヘイト・スピーチを禁止する条項である。日本政府は4条(a)(b)の適用に留保を付しているが、4条柱書及び(c)には留保を付していない。4条(c)は「国又は地方の公の当局又は機関が人種差別を助長」しないことを求めている。
第6に、本年制定されたいわゆるヘイト・スピーチ解消法は、定義の中に「本邦外出身者」という言葉を用いているので、沖縄の人々が除外される。しかし、「本邦内出身者」である沖縄の人々に向けて「本邦外出身者」として扱う差別表現が用いられたことに留意するべきである。
また同法が沖縄の人々を除外していることは、現実に沖縄の人々に対してヘイト・スピーチが行われていることに即していないので、同法の限界が明らかになったと言える。速やかな法改正が求められるのではないか。

Friday, October 07, 2016

ヘイト・スピーチ研究文献(72)移住連Mネット

Migrants Network』186号(2016年6月)
高谷幸「NO!ヘイトスピーチ NO!人種差別 NO排外主義」
師岡康子「人種差別撤廃法制度に向けて」
郭辰雄「大阪市のヘイトスピーチ条例とその課題」
板垣竜太「京都における反レイシズム対策推進のための取り組み」
山田貴夫「ヘイトスピーチを許さないかわさき市民ネットワークの運動」
李信恵「一緒に生きよう、#桜本安寧」
冨増四季「ヘイト規制議論の一歩先へ」

各地でヘイト・スピーチ問題に取り組んできた弁護士、ジャーナリスト、市民の活動報告である。

大江健三郎を読み直す(66)「文豪」の意欲的対談

大江健三郎・古井由吉『文学の淵を渡る』(新潮社、2015年)
文豪という言葉は「死語」となったかもしれないが、いま、文豪と呼ばれるべきは大江と古井だろう。5つの対談が収められている。「明快にして難解な言葉」(1993年)「百年の短編小説を読む」(1996年)「詩を読む、時を眺める」(2010年)「言葉の宇宙に迷い、カオスを渡る」(2014年)「文学の伝承」(2015年)。

「魂という楽器を鳴らす」「小説を書くという罪」「文学的なものに対する嫌悪」「自分が自分でなくなる境目」「センチメンタリズムから洗い流す」。中上健次が亡くなって以後のセンチメンタリズムに反省を迫った二人だが、「読者の中で作者が生きる」「晩年の人間の危機感」「文体上の渋滞」「偶然には<わたくし>は発生しない」を語る。最後に古井が「こういう話をしておけば、この年寄りたちがどういう料簡でいるのか若い人たちも多少はわかってくれるでしょう」と述べている。もっとも、いま流行の若い作家たちは、大江や古井とはすっかり違った主題、テーマ、文体で生きているので、伝わるかどうか。

Tuesday, October 04, 2016

ヘイト・スピーチ研究文献(71)津久井やまゆり園事件(2)

前田朗「メッセージ犯罪としてのヘイト・クライム」『マスコミ市民』572号(2016年)
前田朗「ヘイトクライムは放置すれば確実に社会を壊す――メッセージの誤配を匡すために」『市民活動のひろば』144号(2016年)
前田朗「ヘイト・クライムの『被害』を考える――津久井やまゆり園事件の恐怖とは」『市民の意見』158号(2016年)
津久井やまゆり園事件について、いくつかのメディアに書かせてもらった。重複をまぬかれないが、多少は違いを出す工夫をしながら。一部を下記に引用。
 津久井やまゆり園事件の場合、無惨に命を絶たれた被害者以外に、生き延びた被害者、狙われた被害者の家族、友人知人、そして施設の関係者のいずれもが何らかの形で、心理的に過重な負担を抱えさせられた。メッセージ犯罪の心理学的影響は、一度そのメッセージを打ち消しても、何度も何度もよみがえってくる特徴を有する。事件の恐怖は過去形ではなく、これからやって来るかもしれないことも認識する必要がある。
 それゆえカウンター・メッセージを効果的に反復する必要がある。カウンター・メッセージに続いて、啓発、教育、行政指導、法改正など、あらゆる方策が検討されるべきであり、総合的な取り組みが必要である。

すべての個人の個性が尊重され、すべての命が大切にされるよう、差別と闘う社会づくりが必要である。放置しておくとヘイト・クライムは社会を壊す。壊れる前にやるべきことがたくさんある。

Monday, October 03, 2016

ヘイト・スピーチ研究文献(70)川崎支部決定の評釈

上田健介「ヘイトデモ禁止仮処分命令事件」『法学教室』433号(2016年10月)
「判例セレクト」というコーナーの、本年6月2日の川崎ヘイトデモに関する横浜地裁川崎支部決定に関する短い評釈である。
ヘイト・スピーチ解消法は理念法にとどまるが、「しかし、司法判断を行う際の解釈指針となることが意図されており、司法がこれに応えるかたちとなった」という。
続いて著者は「もっとも、本決定には、違法性の強い差別的言動が表現の自由の保護領域に含まれないとするのは行き過ぎではないか、権利保有者を(差別的言動解消法と同じく)適法に居住する者に限定するのは妥当か、といった点で疑問があり、更なる議論が必要であろう」とする。憲法学者としては当然指摘しておかなくてはならないことであろうが、「さらなる議論」の中身を書いていない。
他方、興味深いのは、著者が最後に次のように書いていることである。
「反復的に行われた言動の将来に向けての差止めがそもそも事前抑制にあたるのかも検討する必要があると思われる。」

これは私の主張に近い。私は、川崎ヘイトデモ禁止仮処分は事前規制ではなく、事後規制であるから、規制できると主張してきた。理由の第1は、同様のヘイトデモがそれ以前に繰り返し行われたこと、第2に、インターネット上でヘイトデモ予告がなされたために被害がすでに生じていること、である。これまで、残念ながら、私の主張に賛成意見を見ることはできなかった。
ところが、著者は、私の第1の理由と同じ理由から「事前抑制にあたるのか」と疑問を提示している。さらに詰めるべき重要論点だ。