Friday, November 04, 2016

罅割れた美しい国――移行期の正義から見た植民地主義(3)

四 移行期の正義と植民地支配犯罪

 東アジアにおける移行期の正義を日本に即して語る場合、大きく分けると、戦争問題(戦争と占領の後の戦後賠償と戦争責任)と、植民地問題とを、それぞれ解明した後に総合する作業が必要となる。
しかし、第2次大戦後の連合国の戦後処理は、主として戦争問題に限定された。東京裁判もサンフランシスコ条約も、その後の2国間賠償も、基本的に戦争問題の処理であった。
1990年代以後の日本における戦後補償運動は大きな成果を挙げたが、戦後補償や戦争責任が語られたように、植民地問題も戦争問題のなかに含められ、両者が混同させられた面がないとは言えない。
世界的なポスト・コロニアリズムの流れに呼応して、日本でも「継続する植民地主義」問題が登記され、理論成果を積み上げてきたが、いまだ十分とは言い難い(日本語文献として、岩崎稔・中野敏男編『継続する植民地主義』青弓社、2005年、中野敏男他編『沖縄の占領と日本の復興――植民地主義はいかに継続したか』青弓社、2006年、永原陽子編『植民地責任論』青木書店、2009年、徐勝・前田朗編『<文明と野蛮>を超えて――わたしたちの東アジア歴史・人権・平和宣言』かもがわ出版、2011年、木村朗・前田朗編『二一世紀のグローバル・ファシズム』耕文社、2013年)。
ここでは植民地支配犯罪論を垣間見ることで、移行期の正義の一局面について考えることにしたい。

1 植民地支配犯罪とは

(1)  国連国際法委員会の議論
 第2次大戦後に行われたニュルンベルク裁判及び東京裁判の後、国際刑事裁判の普遍化が求められ、徐々に国際刑法が整備されることになった(前田朗『戦争犯罪論』青木書店、2000年、同『ジェノサイド論』青木書店、2002年、同『侵略と抵抗』青木書店、2005年、同『人道に対する罪』青木書店、2009年)。
 国連国際法委員会は1950年代から、戦争犯罪や人道に対する罪の法典化の議論を継続してきたが、なかなか進捗しなかった。1982年、ドゥドゥ・ティアムが特別報告者に任命された。ティアム特別報告者は精力的に研究を進め、この後9本の報告書を作成し、国連国際法委員会に提出した。ここに「植民地支配犯罪」の名称が入った。
 ティアム特別報告者が1991年の国際法委員会第43会期に提出した報告書には12の犯罪類型が含まれていた。すなわち、侵略(草案第15条)、侵略の脅威(第16条)、介入(第17条)、植民地支配及びその他の形態の外国支配第(colonial domination and other forms of alien domination)(18条)、ジェノサイド(第19条)、アパルトヘイト(第20条)、人権の組織的侵害又は大規模侵害(第21条)、重大な戦争犯罪(第22条)、傭兵の徴集・利用・財政・訓練(第23条)、国際テロリズム(第24条)、麻薬の違法取引(第25条)、環境の恣意的重大破壊(第26条)である。
  第18条(植民地支配及びその他の形態の外国支配)は次のような規定である。
 「国連憲章に規定された人民の自決権に反して、植民地支配、又はその他の形態の外国支配を、指導者又は組織者として、武力によって作り出し、又は維持した個人、若しくは武力によって作り出し、又は維持するように(to establish or maintain by force)他の個人に命令した個人は、有罪とされた場合、・・・の判決を言い渡される。」
 第1に、人民の自決権に違反することが明示されている。国連憲章第1条第2項や、1966年の二つの国際人権規約共通第1条には人民の自決権が明記されている。
 第2に、「植民地支配、又はその他の形態の外国支配」という文言が採用されている。「植民地支配」の定義は示されていないが、人民の自決権という内実が示されている。
 第3に、犯罪の実行主体は「指導者又は組織者」として一定の行為をした個人とされている。指導者又は組織者には、政府中枢部の政治家、高級官僚、軍隊指揮官などが入ると思われる。
 第4に、実行行為は「武力によって作り出し、又は維持した個人、若しくは武力によって作り出し、又は維持するように他の個人に命令した」とされている。植民地状態の創出、植民地状態の維持、及びそれらの命令である。植民地状態の創出は、他国を植民地化する計画をつくり、その計画を実施するために軍事的行動を行ったことであろう。
 第5に、刑罰は空欄となっている。ニュルンベルク・東京裁判では死刑と刑事施設収容(終身刑を含む)が適用された。国連総会は1989年に国際自由権規約第二選択議定書(死刑廃止条約)を採択したので、終身刑以下の刑事施設収容刑が想定される。
 しかし、1995年の国連国際法委員会第47会期は、法典に盛り込まれるべき犯罪を大幅に削除することを決定した。残されたのは、侵略(第15条)、ジェノサイド(第19条)、人権の組織的侵害又は大規模侵害(第21条)、重大な戦争犯罪(第22条)だけである。植民地支配(第18条)は保留とされ、結局、削除されることになった。1996年の「人類の平和と安全に対する罪の法典草案」を経て、1998年のICC規程に盛り込まれたのは侵略の罪、ジェノサイド、人道に対する罪、戦争犯罪という4つの犯罪類型である。こうして植民地支配犯罪の法典化の試みはいったん頓挫した(以上につき詳しくは、前田朗「植民地支配犯罪論の再検討」『法律時報』87巻10号、2015年)。

(2)ダーバン会議以後の議論
 2001年のダーバン人種差別反対世界会議の際に、NGO宣言は「植民地支配は人道に対する罪であった」と明記した。
さらに、国家間会議において議論が継続されたが、旧宗主国・欧米諸国の反対により「植民地時代の奴隷制は人道に対する罪であった」と認定するにとどまった。こうして植民地支配犯罪論は未発のままにとどまった。国連では「ポスト・ダーバン戦略」が討議されたが、アメリカ、EU、日本は後ろ向きの姿勢を取り、ダーバン宣言が活用されていない。
 民衆レベルでは世界的議論が続けられている。歴史学、文学、法学など多様な研究分野でポスト・コロニアリズム研究が進み、新植民地主義批判、ヘイト・スピーチとの闘いは世界的課題であり続けている。
「慰安婦」に対するヘイト・スピーチのようなホロコースト否定発言への対処も世界的に議論されている(前田朗『ヘイト・スピーチ法研究序説――憎悪煽動犯罪の刑法学』三一書房、2015年。なお、同『増補新版ヘイト・クライム』三一書房、2013年、同編『なぜ、いまヘイト・スピーチなのか』三一書房、2013年)。
 植民地犯罪概念の導入は頓挫したが、その後の議論の中で、人道に対する罪やジェノサイドの概念の中に植民地犯罪概念の実質を読み込む作業が継続された。人道に対する罪やジェノサイドは、戦争犯罪とは異なり、必ずしも武力紛争要件を必要としないからである。

2 植民地主義に向き合うために
――日本軍「慰安婦」問題の場合

 移行期の正義と植民地支配犯罪論を重ね合わせることにより、東アジアにおける日本における/日本による戦争と植民地支配の歴史の基本的性格を改めて位置づけ直すことができる。ここでは、日本軍「慰安婦」問題に照らして、最低限必要なコメントを付しておこう(報告者・前田の認識については、ラディカ・クマラスワミ『女性に対する暴力』の「訳者あとがき」明石書店、2000年、日本軍「慰安婦」問題webサイト制作委員会編『性奴隷とは何か』お茶ノ水書房、2015年、及び西野瑠美子・小野沢あかね編『日本人「慰安婦」』現代書館、2015年所収の論文。最近のものでは、前田朗編『「慰安婦」問題の現在――「朴裕河現象」と知識人』三一書房、2016年、同編『日本軍「慰安婦」・日韓合意を考える』彩流社、2016年)。
 第1に、真実への権利である。慰安婦問題が浮上した1990年代、何よりも真実発見が重要であったことは言うまでもない。日本政府は事実を否定しようとしたが、歴史学者や支援団体の調査によって次々と事実が明るみに出て、韓国のみならずアジア各地から被害者が名乗り出ることによって、事態が一気に明らかになっていった。そのことが河野談話や村山談話につながった。
 しかし、90年代後半から現在に至るまで、真実を闇に葬り去るための策動が続いていることは言うまでもない。
 第2に、国際社会では40を超える真実和解委員会の実例があるという。日本軍慰安婦問題については、研究者、被害者団体その他の民間団体による多くの調査があるが、公的な真実和解委員会は設置されなかった。日本政府は内部的な調査を行い、事実を否定できなくなったために河野談話と村山談話を出さざるを得ず、あとは「アジア女性基金」で幕引きを図った。本格的な調査は行われず、しかも情報公開も不十分であった。国家責任を逃れるためのアジア女性基金政策は欺瞞的であり、破綻せざるを得なかった。いずれにせよ、日本軍慰安婦問題については公的な真実和解委員会が設置されなかった。今日、真実を犠牲にした日韓「合意」が強行されている。
 他方、国連人権委員会のラディカ・クマラスワミ「女性に対する暴力特別報告書」及び人権小委員会のゲイ・マクドゥーガル「戦時性奴隷制特別報告書」が、国連人権機関レベルにおける真実発見機能を果たしたと言えよう。
 また、民間における調査・研究は今日に至るまで長期的に行われている。特に、2000年に東京で開催された「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」は、民衆法廷という形態をとった真実和解委員会でもあったと言えるだろう(前田朗『民衆法廷入門』耕文社、2007年)。
 第3に、委員会の期間である。初期の真実和解委員会はいずれも短期間であったという。日本政府もごく短期間の内部調査しか行わず、重要な関連資料を明らかにすることさえしなかった。形式的に調査したアリバイだけを残して、真相を闇に葬るための「調査」というしかない。民間における調査・研究は長期にわたった。90年代における調査は女性国際戦犯法廷に取り入れられて、大きな前進となった。
 第4に、調査するべき対象の期間である。アルゼンチンが7年、ケニアの場合は44年という。慰安婦問題は1930年代から1945年までの15年と言えよう。もっとも、軍慰安婦以前からの近代日本における性奴隷制という観点ではもっと長期にわたる調査が必要ということになる。
 他方、デ・グリーフ報告者は言及していないが、対象期間と調査機関との間の時間の隔たりを見ておく必要もある。南アフリカ真実和解委員会は、アパルトヘイト体制終了後に比較的短期間で開始された。東ティモールも同様である。これに対して、慰安婦問題は、被害女性が半世紀の沈黙を破ったことから調査が始まったという点で大きな特徴がある。旧ユーゴスラヴィアやルワンダの悲劇と異なり、被害時期と調査時期の間の大きな隔たりが調査を困難にした面がある。
 慰安婦問題について、いかなる形態の機関によって真相解明が行われるべきだったのか、1990年代初期の議論では、必ずしも十分な議論がなされなかったと言えよう。日本政府にどのような調査をさせるべきかという議論も不十分であったかもしれない。
内閣部局が調査に当たるのは当然だったかもしれないが、朝鮮総督府、内務省、陸軍・海軍などの全体的な資料調査は十分に行えなかった。また、法務省や裁判所も調査に協力していないため、国外移送目的誘拐罪の判決があることさえ、いまだに日本政府は認めていない。被害女性と支援団体が東京地検に告訴・告発しようとした時にも、東京地検は何ら捜査することなく、告訴・告発を不受理とした。
当時、研究者や支援団体の中で真実和解委員会という発想はなかったように思う。ラテンアメリカ諸国における真実和解委員会の実践に関する知識がほとんどなかったためであろう。グアテマラ真実和解委員会の成果が紹介され、南アフリカ真実和解委員会が動き出したニュースが流れたのは、やや後の事だったように思う。韓国の過去事整理委員会の活動もやや後に始まった。現在では、そうした多くの成果を基に考えることができるが、90年代初頭にそのような発想を持てなかったのは、わたしたちの限界であった。

五 「真実前」の政治

 冒頭に見た通り、細谷は21世紀アメリカにおける「真実後の政治」を語る。
 しかし、本報告が縷々述べてきたように、東アジアにおける日本における/日本による戦争と植民地支配の歴史、及び今日に至る未清算の現実に向き合うならば、わたしたちが置かれている状況は「真実前の政治(Pre-truth politics)」ではないだろうか。
 「真実前」と見るか、「真実後」と見るかは言葉の綾に過ぎないという理解もありうるかもしれないが、「真実後」であるならば、少なくとも一度、私たちは真実の世界に身を置いたことになる。近現代日本の歴史を虚偽と隠蔽の歴史と一面的に決めつけることは適切ではないかもしれないが、移行期の正義と植民地支配犯罪論を踏まえて検討するならば、私たちは一貫して「真実なき政治」の世界に身を浸してきたと見るべきではないだろうか。「戦争では真実が最初の犠牲者となる」という警句があるが、150年に及ぶ日本の戦争と植民地支配の歴史(未清算の歴史)を通じて、真実はおぼろげにでも姿を現したことがあっただろうか。

靖国の思想を嬉々として演じているこの国の政策決定エリートと人民が倒錯のファンタジーの世界の住人でないと、誰が言えるだろうか。