Tuesday, May 02, 2017

桧垣伸次『ヘイト・スピーチ規制の憲法学的考察』を読む(3)

桧垣伸次『ヘイト・スピーチ規制の憲法学的考察――表現の自由のジレンマ』(法律文化社、2017年)
2ヘイト・クライム規制をめぐる憲法上の諸問題
桧垣は、ヘイト・スピーチのみならず、ヘイト・クライムにも目を向け、ヘイト・スピーチ規制には消極的なアメリカ法もヘイト・クライム法については比較的簡単に合憲としているという。アメリカでは表現/行為区分論が用いられるが、その区分は明確ではないし、ヘイト・クライムとヘイト・スピーチの区分も明確でない。ヘイトの要素は共通である。「ヘイト・スピーチの定義を明確化するためにも、ヘイト・クライムについて検討する必要がある」という。
ヘイト・クライムという概念は1980年代に用いられるようになったが、ヘイト・クライムは古くから存在した。1871年のクー・クラックス・クラン法は古い法律の一例である。桧垣は1993年のミッチェル事件判決や、2009年のシェパード・バード・ヘイト・クライム法を検討したうえで、思想の自由との関係で、ヘイト・クライム加重処罰の合憲性を検討する。
アメリカでは、殺人よりも「差別・ヘイトによる殺人」の刑罰が重くなる。これに対して、思想を加重処罰するものだという批判がある。ヘイト・クライムにも表現又は思想的な要素があることは否定できない。立法目的が表現抑圧的と言えるかが議論されるが、判例は表現抑圧的ではない立法の余地を認めてきた。
桧垣は、ヘイト・クライム規制が厳格に限定される場合には正当化されると見るが、議論の焦点は、ヘイト・クライムとヘイト・スピーチとが明確に区別できるわけではないことである。
「日本では、アメリカと同様、ヘイト・スピーチ規制については、慎重な立場が有力である。そうであるならば、ヘイト・クライム法が合憲であることは自明ではない。ヘイト・スピーチの場合と同様、規制目的(ヘイト・クライムの害悪)、規制範囲等を緻密に検討する必要がある。」
<コメント>
ヘイト・スピーチとヘイト・クライムの区別は自明ではなく、それゆえヘイト・スピーチ規制について議論するためにはヘイト・クライムの議論も踏まえるべきだという桧垣の指摘は正しい。
私は、「ヘイト・スピーチとヘイト・クライムは重なる」と主張してきた。ヘイト・スピーチを論じるために『ヘイト・クライム』という本を出した。その後の『ヘイト・スピーチ法研究序説』においては「ヘイト・クライム/ヘイト・スピーチ」という表現を多用した。これに対して、「前田の概念定義は不明確である」という批判を受けている。なるほど批判は当たっているが、概念定義が不明確という前に、両者は重なり合うのであって、自明であるかのごとく区別はできないのだ。それゆえ、両者を併せてしっかり議論する必要があるのに、これまで多くの論者は「両者は別である」と決めかかって、ヘイト・スピーチだけを論じてきた。
しかも、憲法学者の中には、京都朝鮮学校事件をヘイト・スピーチの典型事例であるかのごとく唱える向きもあった。京都朝鮮学校事件はむしろヘイト・クライムに属する事案だろう。概念定義が明確なつもりの憲法学者の議論は、事実を無視しているだけのことである。表現/行為区分論は、アメリカでも日本でも流行だが、人間の行為を表現と行為に区分するという無謀かつ粗雑な議論に過ぎず、およそ法解釈には使えない。論外である。
桧垣は、ヘイト・クライムの議論の射程とヘイト・スピーチの議論のありようとの関係を考えている点でも、重要かつ的確である。