Saturday, July 29, 2017

歪曲と誤報の産経新聞を斬る

週刊金曜日編『検証産経新聞報道』(金曜日)
読売新聞と並ぶ安倍政権応援メディアの正体は何か。ジャーナリズムや報道という言葉と産経新聞との間にはどのような溝があるのか。
「歴史戦」と称して、「慰安婦」も南京大虐殺も沖縄の集団自決も、みんな事実ではないと歴史修正主義の牙城となってきた産経新聞だが、その報道内容は歪曲と誤報の山というしかない。
多くのジャーナリストや知識人は「どうせ産経だから」と無視してきたが、インターネット上の歴史認識や政治意識の変容に産経が多大の影響を与えてきた。産経の誤報がそのまままかり通る喜劇的な状況が続いている。
本書では、同紙をウォッチしてきた学者やジャーナリストが事実をもって反論する。
能川元一「『産経新聞』の"戦歴"、「歴史戦」の過去・現在・未来」は「歴史戦」の実態を徹底解明し、間違いだらけの真相を浮き彫りにする。100頁に達する力作だ。
「誤報の産経」による重大人権侵害被害者の植村隆「「慰安婦」報道で完膚なきまでに打ちのめされた阿比留瑠比編集委員」は、自紙の報道内容すら確認せずに、他紙の記事にかみつくお粗末な産経編集委員の信じがたい幼稚ぶりを報告する。ジャーナリズムなどと言う前に、そもそもまともな知性を持っているのかどうか疑われる人物が編集委員をやっているのだから、悲惨な末路も当然のことだ。
成澤宗男「日本会議との「浅からぬ関係」」は、標題通り、日本の異様な右傾化の拠点とされる日本会議と産経新聞の親密な関係を追いかけ、報道がゆがむ原因を提示する。
斉藤正美「フェミニズム・男女共同参画へのバッククラッシュ」は、歴史認識だけでなく、フェミニズむやジェンダーに関連する産経の攻撃の無軌道ぶりをただす。
高嶋伸欣「安部政権の沖縄政策を混乱させている『産経』」も歴史認識、教科書問題を手始めに、「産経新聞愛読者」らしく、産経の迷走ぶりを徹底解剖する。
成澤宗男「どうなってんの?  続出する産経流「捏造記事」一覧」は、産経の捏造と誤報の具体例を21例掲げている。産経によると、2011年7月に中国の江沢民・前国家主席は死亡した。外国の要人を勝手に殺してしまう産経新聞。産経新聞によると、2013年10月、村上春樹がノーベル賞を受賞した。こんなデマ記事ばかり書いてきたのが産経新聞で、大いに笑える。
最後に、「『産経新聞』OB座談会」である。松沢弘以外は匿名だが、内容を見ると、実話が次々と紹介されている。ここでも笑いが止まらない。
ジャーナリズム精神なき「お笑い産経新聞」だが、それが安倍政権や日本社会に大きな影響を与えているのだから、笑ってはいられない。本書は産経新聞の闇を見事に提示してくれた。まともなジャーナリズムを再建するための第一歩である。

Thursday, July 27, 2017

琉球/沖縄シンポジウム第6弾  私たちはなぜ植民地主義者になったのか

琉球/沖縄シンポジウム第6弾
私たちはなぜ植民地主義者になったのか

基地すべて 押しつけおかば おのが身は 
    安泰なるか  日本(やまと)の国は

この歌は沖縄戦1フィート運動で知られる中村文子さんの作です。大和(やまと)の市民との連帯と協働を実践し続けた中村さんの思いを、いま私たちはどのように受け止めるべきでしょうか。

琉球に基地を押しつける大和(やまと)の植民地主義とは何なのでしょうか。それはいつ、どのように始まり、現在の私たちを拘束しているのでしょうか。

私たちはこれまで5回のシンポジウムにおいて、沖縄の自己決定権について考え、基地引取論の意義を整理し、さらに「沖縄ヘイト」を批判してきました。

しかし、「沖縄ヘイト」を批判する私たち自身が、基地を沖縄に押しつける構造的差別の上に安住しているのではないでしょうか。

植民地主義者でありたくないならば、いつの間にか植民地主義者にされてきた私たち自身を問い直す必要はないでしょうか。

植民地主義とは何か、日本の植民地主義はどのように形成され、いまなお息づいているのか――ともに考えましょう。

日時:2017年9月16日(土)開会:午後2時、開場午後1時30分
会場:東京しごとセンター講堂
参加無料

パネリスト
藤岡美恵子(法政大学講師)「日本の植民地主義の根源を問う」
前田  朗(東京造形大学教授)「日本国憲法が助長するレイシズム」
宋  連玉(青山学院大学名誉教授)「在日朝鮮人から見た日本の植民地主義」
コメント
新垣  毅(琉球新報東京支局)

主催:琉球/沖縄シンポジウム実行委員会
連絡先:東京都八王子市宇津貫町1556東京造形大学・前田研究室

Tuesday, July 25, 2017

人権無視のイエロー・ジャーナリズムとの闘い

『北星学園大学バッシング 市民はかく闘った   2014-2016「負けるな北星!の会」記録』(負けるな北星!の会、2017年)

週刊文春や産経新聞などの非難キャンペーンによって、インターネット上で氾濫した植村隆・元朝日新聞記者へのバッシング。北星学園大学に集中した攻撃。その異常さは指摘するまでもない。植村元記者は自分と家族を守るために自分で闘った。その記録は『真実――私は「捏造記者」ではない』(岩波書店)。他方、本書は北星学園大学に向けられた異様な攻撃に抗して闘った市民の記録である。
A4サイズ、246頁、500円。
なぜか負けるな北星!の会のウェブサイトには未掲載だが、記録編集委員会の連絡先は、Eメールmakerunakai@gmail.com
目次
はじめに
Ⅰ 闘いの軌跡
 1 闘いの軌跡
 2 脅迫の実態
 3 支援の輪
Ⅱ シンポジウム 講演会 フォーラム
 1 総括シンポジウム
 2 シンポジウム「負けるな北星!の会の1年」
 3 シンポジウム・報告集会
Ⅲ 人々の重い
 1 呼びかけ人から
 2 大学から
 3 メディアから
 4 市民から
 5 スタッフから
Ⅳ 闘いは続く
 1 闘いで広がる輪
 2 闘いは法廷の場へ

Ⅴ 資料編

Thursday, July 20, 2017

戦後日本の自画像の歪みを思い知らされる

権赫泰著(鄭栄桓訳)『平和なき「平和主義」――戦後日本の思想と運動』(法政大学出版局)
<「唯一の被爆国」として日本は戦後70年ものあいだ平和を守ってきたとされるが、ほんとうにそうなのだろうか。朝鮮戦争、ベトナム反戦運動、日米安保や原発の問題などを取り上げ、アジア諸国や国内における他者と関わるうえで丸山眞男をはじめ日本人が何と向き合ってこなかったのか、韓国人研究者が考察する。>
ヘイトデモ阻止のために川崎に出かけた往復の電車で、権赫泰・車承棋編『〈戦後〉の誕生――戦後日本と「朝鮮」の境界』に引き続いて、本書を読んだ。
植民地を見ないと日本が見えない。2つの著作はこのテーゼを繰り返し明らかにしている。一部は重複しているが、繰り返し読んで損はない。今後も繰り返し読むことになるのだから。
「朝鮮」に代表される植民地の歴史を隠蔽することによって戦後日本の思想と運動が成立した。
個別の思想家の中に、というのではない。丸山眞男に代表されるが、戦後思想の中核に植民地の無視が貫かれている。植民地思想の柱を成した殖民学が一気に忘れ去られ、焦土の上に全く新たな戦後思想が立ち上がった。
しかし、「戦後思想」には植民地主義への反省がないから、過去を引きずったままである。植民地主義の母斑が至る所に見えているのに、懸命に目を閉ざしてきたのが私たちだった、ということだ。
善隣学生会館事件は、左翼にこそナショナリズムが貫かれていたことを露呈した。にもかかわらず、その後も長い間、そのことを自覚せずに来た。
べ平連は「国境を超える思想」に挑戦した重要な運動であったが、肝心のところで国境の論理にひれふした。安直に国境を超えると唱えても、容易に実現できるわけではない。
私も、自称「民衆思想」の思想家が植民地主義に鈍感なことを以前指摘したことがある。厳しく指摘し続けないと、私自身が無頓着なままに安住してしまう。本書に学び続けないとならない理由だ。
『あしたのジョー』をめぐる著者の考察は、残念ながら、全共闘世代、団塊の世代と『あしたのジョー』を結びつけるありきたりの通念に寄りかかっている。
ところで、著者は、矢吹ジョーを1953年生まれ、としている。不可解な誤読だ。吉田和明『あしたのジョー論』(風塵社)では、ジョーは1947年6~7月生まれと推定されている。これならば全共闘世代論に適合的だ。
世代論そのものがかなり安直な議論になるので私は世代論を採用しないが、仮に世代論を採用する場合、前提として確認しなければならないことがいくつも残されている。
第1に、原作者の梶原一騎は1936年生まれであり、作画のちばてつやは1939年生まれであり、団塊の世代ではない。担当編集者たちも全共闘世代ではありえない。
第2に、力石徹は、漫画登場時点で、どんなに若く見積もっても20歳寸前に違いない。1945年7月より前の生まれである。団塊の世代ではない。
第3に、『あしたのジョー』は全共闘世代だけにウケて、支持されたわけではない。より若い世代の圧倒的な支持があった。
著者は、これらを無視して、議論を展開しているので、世代論としても成立していないのではないか。
『あしたのジョー』についての私見は
はしがき
第一章 歴史と安保は分離可能なのか
    ――韓日関係の非対称性
第二章 捨象の思想化という方法 
    ――丸山眞男と朝鮮
第三章 善隣学生会館と日中関係 
    ――国民国家の論理と陣営の論理
第四章 国境内で「脱/国境」を想像する方法
    ――日本のベトナム反戦運動と脱営兵士
第五章 団塊の世代の「反乱」とメディアとしての漫画     
    ――『あしたのジョー』を中心に
第六章 広島の「平和」を再考する
    ――主体の復元と「唯一の被爆国」の論理
第七章 二つのアトミック・サンシャイン
    ――被爆国日本はいかにして原発大国となったか

訳者あとがき

Tuesday, July 18, 2017

自主規制メディアを卒業するには

斎藤貴男『国民のしつけ方』(インターナショナル新書)
http://i-shinsho.shueisha-int.co.jp/kikan/010/
<政権による圧力、メディア側の自主規制
あなたも知らないうちにすり込まれている。
政権による圧力だけではない。マスメディアの過剰な自主規制も報道を大きく歪めている。その有様は、国民をしつけるために巧妙に仕組まれているかのようだ。知る権利を守るため、我々にできることは何か。具体的な方策を探る>
メディアと権力の関係が、権力による圧力以前に、メディア側の自主規制や忖度によって特徴づけられる日本――何度も指摘されてきたことだが、改まるどころか、いっそうその度合いを深めてきたように見える。
森友・加計事件ではメディアも健闘している面があるが、世界一の発行部数を誇る読売新聞は報道機関ではなく、権力の広報誌として、足を引っ張る最低の紙面づくりに精を出している。イエロー・ジャーナリズムの本領発揮だ。
報道の自由度72位の日本の状況を検討した著者は、あなたも知らないうちにすり込まれている、と注意を喚起する。
一方でマスメディアの荒廃があり、他方でネット上の無秩序と野放図な虚偽記載があり、信用も信頼も失われた現状で、市民はどうするべきなのか。
著者は調査報道と「番犬ジャーナリズム」とメディア・リテラシーを唱える。
また、新聞に対する軽減税率問題、記者クラブ問題、SLAPP訴訟にも触れつつ、「価値観宣言」を呼びかける。
この種の議論はずいぶん長く続いているが、フリーのジャーナリスト、企業内ジャーナリスト、研究者によって、それぞれ主張に差異が生じることも知られたとおりである。
圧倒的に社会に影響を与える企業内ジャーナリストが改革に動かないと状況の改善は見込めないが、フリーのジャーナリストや研究者や市民が声を上げ続けるしかない。


猛暑に負けずに権力を笑う

ザ・ニュースペーパー公演でいつものように笑ってきた。
1988年に昭和天皇が倒れた時に始まったザ・ニュースペーパー、まもなく30年を迎える。翌年から観続けているので、もう28年目だ。現在は渡部又兵衛率いる9人編成。
http://www.t-np.jp/
今回は政治家としては、小池百合子、安倍晋三、小泉純一郎、石原慎太郎、福島みずほ、石破茂、蓮舫、トランプなどが登場した。
豊洲・築地問題では、現地で撮影した映像。
将棋の藤井四段も登場したが、かなり無理があったのはやむを得ない。定番のさる高貴なご一家では、生前退位とご次男様長女の結婚がやはり話題の中心だが、湘南の海の王子も登場。

Sunday, July 16, 2017

大江健三郎を読み直す(82)近代の歴史を背負った現代作家のパロディ小説

大江健三郎『憂い顔の童子』(講談社、2002年[講談社文庫、2005年])
義兄の映画監督・伊丹十三をモデルにしたことで話題になった『取り替え子(チェンジリング)』に続く、長編3部作の第2作である。
前作との関係では、長江古義人と映画監督・吾良の青春時代に起きた出来事、「アレ」と呼ばれる事件について、文芸評論家から「ユニーク」な解釈が提示されたが、本作において大江は反発し、批判している。作者自身を含む実在の人物をもとに作中の人物を造形してきた大江にとって、現実と創作の間の差異を見失った文芸評論には慣れたもののはずだが、やはり批判せずにはいられなかったのだろう。ただ、そうなると、創作を批判された現実をふたたび創作の中に取り込むことで、現実と創作の関係がさらに複雑化する。にもかかわらず、現実に対する応答としてストレートに読まれることにもなる。大江の「引用癖」は有名だが、「引用癖」と言うにとどまらず、現実への介入が現実の反応を引き起こすことが繰り返される。
本作では、長江古義人が、四国の森に帰るところから物語が始まる。
大学進学のために故郷を離れ、学生時代に作家デビューして以後、長年、東京に暮らした著者、そして長江が、息子の光、アカリとともに故郷に帰る。郷土が生んだノーベル賞作家であるが、故郷が長江を快く迎え入れるわけではない。故郷の伝承を創作したり、改変して小説化してきた長江は、その改変や、故郷の人々についての記述ゆえに、疎まれてもいる。他方、ノーベル賞作家という有名人を利用しようとあれこれ画策が始まる
。そうした故郷の歓迎と反発に遭遇した長江の「活劇」は「ドン・キホーテ」を素材とすることで、まさにパロディとして進行するが、パロディへの自己言及の反復により、滑稽さが強調される。60年安保の闘いをさなかに生み出された「若いニホンの会」のパロディとしての「老いたるニホンの会」は、その中に大江自身がいた若き文芸集団に対する半世紀後の批評でもあるが、悲惨なデモの顛末には大江の時代認識が込められている。
近代の歴史を背負った現代人である作家の時代批評と自己批評が交錯するパロディ小説だ。

ヘイトデモをふたたび止めた川崎

 「ヘイトデモやめろ!」
 「ヘイトデモやめろ!」
 猛暑の川崎、綱島街道の両側歩道を埋めたカウンターの市民が叫ぶ。
 「ヘイトデモ止めよう!」
 「ヘイトデモ止めよう!」
 中原平和公園に向けて、みんなで叫ぶ。
 日傘、うちわ、帽子、飲み水は必需品だ。みんな汗だくになりながら、「暑いね」と繰り返しつつ、ヘイトデモ阻止のために歩道に立ち尽くす。
 500人以上はいるだろう。歩道の両脇に分かれているのと、幅広く、たむろしている状態なので、正確な人数はわからない。1000人はいなかったと思うが。
 顔見知りの市民が各地から駆けつけている。ジャーナリスト、弁護士、研究者も目立つ。
 「やつらは遅いね」「東京駅からマイクロバスで来るらしい」「デモの出発点はこのあたりらしい」。
 やがて、神奈川県警の広報車から「まもなくこの道はデモ隊が通ります。歩道の方は交通の妨げにならないようにしてください」などとアナウンスが流れる。
 とたんに、こちらのマイクから「デモ中止」のシュプレヒコール。
 「デモ中止!」
 「デモ中止!」
 「デモ中止!」
 「ヘイトデモは犯罪です。神奈川県警は犯罪を取り締まってください」
 みんな声をからしながら叫び、合間に水分補給のくりかえしだ。
 1時間もすると頭がボーッとしてきたので、木陰に入り、手ごろな石に腰かけた。
 *
 石に腰を下ろして一息ついていると、急にカウンターの人だかりが崩れた。
立ち上がって手近な台に上がって見ると、数十人の一団が綱島街道を武蔵小杉駅の方に走っていくのが見えた。その後ろから数百人が追いかけていく。
この暑いのに走るとは元気だな、などと感心しながら、最後尾を歩いていくことにした。
汗だくで武蔵小杉駅東口の手前につくと、カウンター行動の主催者がアナウンスしていた。
「ヘイトデモ隊はマイクロバスでやってきて、記念撮影をするや、すぐに立ち去りました」。
目撃者たちによると、ヘイト犯罪者たちは予定していた出発点から500メートルも離れたところにマイクロバスを止めて、20人ほどがバスから降りると、その場でデモ行進のしぐさをして撮影したという。
「デモをやった」というアリバイ作りのための記念撮影だ。
そこにカウンターの市民が駆けつけたので、ヘイト犯罪者たちはすぐにバスに乗り込んで走り去ったという。
カウンターの市民は中原平和公園に戻って集会を開いた。
ヘイト犯罪者たちの行動を目撃した人からの報告があり、続いて崔江以子さんが発言した。
「負けてない。負けてない。負けてない。」
ヘイトデモの予告によってふたたび傷つけられ脅かされたが、カウンターに結集した市民とともに立ち上がった崔さんの発言に、みんな、心を痛めつつ、半ば安堵した面も。
ともかく、徒歩によるヘイトデモは止めた。
ヘイト犯罪者たちは尻尾を巻いて逃げ去った。
「こんな恥ずかしいピンポンダッシュデモを初めて見た」
有田芳生・参議院議員のコメントだ。有田議員は人種差別禁止法の必要性を訴えた。
また、デモの出発地点から500メートル離れたところでマイクロバスを止めて記念撮影をしたのは、神奈川県警による先導があったからだという。マイクロバスの前を走る神奈川県警の車両が目撃されている。
神奈川県警はヘイト犯罪者と連絡を取り合って、予定地点ではなく、離れた場所でバスを止めて記念撮影することを許した。というよりも、現場を把握していた神奈川県警の入れ知恵だろう。ヘイト犯罪者たちには、そうした状況判断ができたはずがないからだ。
今度もまた神奈川県警はヘイト犯罪者たちに便宜を図り、協力した。差別を止めさせる責任のある神奈川県警が差別に加担している。
ここに日本のヘイト問題の本質がある。


Wednesday, July 12, 2017

終わらない<戦後>の謎に迫る

権赫泰・車承棋/編『〈戦後〉の誕生――戦後日本と「朝鮮」の境界』中野宣子/訳、中野敏男/解説(新泉社)
http://www.shinsensha.com/
〈戦後〉とは何か――?
「平和と民主主義」という価値を内向的に共有し、閉じられた言語空間で自明的に語られるこの言葉は、何を忘却した自己意識の上に成立しているのか。
〈戦後〉的価値観の危機は、〈他者〉の消去の上にそれが形成された過程にこそ本質的な問題がある。
捨象の体系としての「戦後思想」そのものを鋭く問い直す。
日本の「戦後」は「朝鮮」の消去の上にある――このテーゼに導かれた7編の論考がこのテーゼを肉付けし、補強し、完成させる。半世紀をかけて膨張してきた日本が、1945年の敗戦によって日本列島に縮小した。そのことの思想史的意味を本書は追及する。
植民地の消去は地理的にも人間的にも文化的にも遂行される。大日本帝国の領土が消去され日本列島だけに焦点があてられる。
旧植民地出身者は排除され、大和民族・日本国籍の日本がつくりだされる。多民族社会化した文化は純粋の日本文化に洗練され直す。歴史も記憶も意識も将来展望も、すべてこの位置から透視され、改変され、改編され、紡ぎだされる。
本書は、丸山政治学の批判的分析を通して、丸山政治学にとどまらず、日本の政治風土を隅から隅まで徹底的に問い直す。小松川事件を、日本の文学者、在日の文学者、韓国のキリスト者たちがそれぞれの場でどのように受け止め、どのように対峙していったかを比較検討することを通じて、東アジアにおける日本の位置を再測量する。
どの論文も読みごたえがある。
一人だけ大和民族日本国籍(と私が勝手に決めつけて判断している)の中野の論文が冒頭に置かれているのは、いささか不思議と思いながら読み始めたが、「8月革命説」にもかかわらず、戦時体制が継続して戦争責任が封印され、戦後革命と国際主義が自壊し、「方法としてのアジア」になだれ込んだ帰結として、民衆における植民地主義の清算が全くなされずに来た歴史をくっきりと提示し、本書の冒頭にふさわしい内実を備えているので、なるほど。
戦後は終わった。戦後民主主義は虚妄だった。戦後レジームからの脱却――何度となく語られながら、いまだ終わらない東アジアと日本の<戦後>の誕生の秘密を解明して初めて、その終わらせ方の議論が始まる。
本書は日本と朝鮮の関係に焦点を絞っているため、その意味では謙抑的な論考で成り立っている。しかし、巻末に付された解説(中野敏男)が、現代世界の動向全体の中に位置づけ直す試みをしているので、そこから諸論文を再読する楽しみも増える。
なお、本書は台湾、朝鮮等の植民地にしか言及がない。欲を言えば、アイヌモシリ、琉球/沖縄への視線もほしいところだ。東アジアにおける日本植民地主義の歴史と現在を総合的に解明する課題は、まだまだこれからだ。
【目次】
序章 消去を通してつくられた「戦後」日本……権赫泰・車承棋
第一章 「戦後日本」に抗する戦後思想――その生成と挫折……中野敏男
第二章 捨象の思想化という方法――丸山眞男と朝鮮……権赫泰
第三章 戦後の復旧と植民地経験の破壊――安倍能成と存在/思惟の場所性……車承棋
第四章 「強制連行」と「強制動員」のあいだ――二重の歴史化過程のなかでの「植民地朝鮮人」の排除……韓恵仁
第五章 人権の「誕生」と「区画」される人間――戦後日本の人権制度の歴史的転換と矛盾……李定垠
第六章 縦断した者、横断したテクスト――藤原ていの引揚げ叙事、その生産と受容の精神誌……金艾琳
第七章 「朝鮮人死刑囚」をめぐる専有の構図――小松川事件と日本/「朝鮮」……趙慶喜
解説 『〈戦後〉の誕生』日本語版に寄せて……中野敏男

Monday, July 10, 2017

真夏の忠臣蔵「イヌの仇討」

こまつ座の「イヌの仇討」(井上ひさし作、東憲司演出)を観た。もとの忠臣蔵と逆に吉良上野介の側から描き出す「逆・忠臣蔵」で、29年ぶりの公演だと言う。
犬公方・綱吉の時代、人よりも犬を大事にするさかさまの政道を背景に、赤穂浪士の討ち入りを受けるや、味噌蔵に隠れた吉良と臣下たちの恐怖と涙と笑いと闘いの物語。浅野vs吉良、大石vs吉良の対立構図で始まるが、やがて公方・綱吉vs 浅野・大石 vs吉良の3者対立の構図が浮かび上がる。しかし、単なる「逆・忠臣蔵」に終わらないのが井上ひさしらしさ。権力vs庶民の構図が背景にあり、権力批判の影も。しかも、最後に感動のもうひとひねり。
吉良役の大谷亮介、はじめは今一つ冴えないと感じながら見たが、それが見事な演技だった。冴えない吉良が、大石を念頭にした自問自答の格闘を経て変貌を遂げる。三田和代と彩吹真央のぶつかりあいも楽しい。
途中休憩の2幕だが味噌蔵1場のみで、場面転換がなく、10人の役者が出ずっぱりの芝居を、客を飽きさせることなく演じ続ける役者に脱帽。

Monday, July 03, 2017

大江健三郎を読み直す(81)多読ではなく再読

大江健三郎『ゆるやかな絆』(講談社、1996年)
『恢復する家族』に続くエッセイ集で、大江ゆかりの挿画が収められたスタイルも同じ。
「絆」は家族の絆を意味しているので、内容面でも前著を継承している。ノーベル賞受賞直後の時期に書かれたため、受賞講演等に忙しく、また「最後の小説」と称して小説を書かなかった時期でもあるが、落ち着いた雰囲気のエッセイだ。長年、家族のことを家族に向けて書いてきた大江の文章の到達点と言えるかもしれない。
「黄昏の読書」3編は、これまでも言及されてきたことを取り上げているが、同じことを繰り返し繰り返し書きながら、少しづつズラしていくのも大江らしい。エッセイにも小説にも共通で、自作の引用癖はいつもと同じ。大江のエッセイを読み続けると、大江が取り上げて紹介する著作の少なさに気が付く。大量の読書歴を誇る読書人と違って、大江は限られた作品を繰り返し紹介しながら、そのたびに微妙な違いを確認していく作業を常とする。本書もその典型と言える。re-readingの愉しみ。