Monday, March 05, 2018

借り物のおもちゃ箱で思想は成り立つか


西部邁『保守の遺言』(平凡社新書)

テレビ芸人にはあまり興味はない。「遺言」だの「自裁」だのと騒ぐメディアもばかばかしい。勝手に自殺して他人に迷惑をかけただけのくだらない話だ。「自裁」ネタで売り込むという阿漕な商売はこの出版社らしいのか。成田空港の書店に山積みになっていたので買ってみた。中身は西欧思想の用語の羅列しかない。たとえば次の一文。


「投票は、ジェネラル・エレクション(総選挙)においてもコングレス(議会)においても、当たり前のこととして守られる。たしかに、国王や貴族たちによるマイノリティ・デシジョン(少数決)は、長期的にみると、排除された多数者の反発を招かずにはいない。したがって国家のジッテ(慣習)として、というよりそれに含まれているはずのジットリヒカイト(人倫)あるいはモーレス(習俗)やエートス(集団感情)として、マジョリティ・デシジョン(多数決)が、徳治に沿うものとしてのレジティマシー(正統性)をもつと認めざるをえない。」


本書の最初から最後までこの調子だ。ここまで根深い西洋崇拝、権威主義もないだろう。みじめで、情けないこと限りなし。借り物を並べたおもちゃ箱で本人は楽しかったのだろう。幸せなことは良いことだ。それ以外にコメントの必要がない。




(補足)

上記記事について、知人から、『ソシオ・エコノミックス』『経済倫理学序説』の著者の最後の著作を、一節とりあげたただけで切り捨てるのはいささか乱暴ではないか、とのご指摘をいただいた。若干の補足をしておく。

第1に、私は『ソシオ・エコノミックス』『経済倫理学序説』については何も述べていない。テレビ芸人になって以後の西部邁にはさして関心がなく、評価していない。そして、『保守の遺言』という本の読後感を書いただけである。

第2に、引用したのはほんの一節に過ぎないが、「本書の最初から最後までこの調子だ」というのは、字義通りである。『保守の遺言』は、終始、西欧思想の用語を借りて並べ立てているだけと言って過言でない。

第3に、少しだけ内容に即して説明しておくと、上記の引用文一つをとっただけでも、著者にはまともな知性があるかどうか疑わしい。著者は、投票による決定について、マイノリティ・デシジョン(少数決)とマジョリティ・デシジョン(多数決)の2つがすべてであると決めつけている。しかし、決定の多数はコンセンサス・デシジョンである。コンセンサスは投票による場合と無投票による場合がある。コンセンサス方式をいかに評価するかは人それぞれである。いずれにせよ、コンセンサス方式を抜きに、マイノリティ・デシジョン(少数決)とマジョリティ・デシジョン(多数決)だけを対比して、あれかこれかを論じる人物が政治を論じても無意味である。簡単なことだ。